佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 3

Column

知名度急上昇中の5人、「純烈」に会ってきました!【Part.1】

知名度急上昇中の5人、「純烈」に会ってきました!【Part.1】

「純烈」ならではの観客への距離感とコミュニケーション

文 / 佐藤剛

今年のはじめに友人から日本の音楽シーンに新風を吹かせるグループとして、「純烈」というグループを教えてもらった。それ以来、うまく言葉にはならないながら、何か「普通ではないもの」を感じて、一度ライブを観てメンバーたちに会いたいと思っていた。
ようやくそれが実現したのは、2017年7月29日だった。彼らは半年間のうちに「スーパー銭湯アイドル」「ムード歌謡ダンス・ユニット」というキャッチコピーで、マスコミにたびたび取り上げられたことから、テレビ出演も増えて知名度が上がっていた。

いよいよ音楽シーンに急浮上してきた注目の異端児たちは、埼玉県草加市にあるスーパー銭湯「草加健康センター」で、昼と夜の2回に分けてショーを行っていた。それを観に駆けつけたファンがさっそく、昼の部のライブレポートをその日の夜に公開している。それは「純烈」というグループの特異性と、可能性を示唆する内容のものだった。

スーパー銭湯という場所柄にもよるのだろうが、「純烈」の場合は観客との間に芸能人特有の壁がない。そのために独自のコミュニケーションが生まれ、それがうまい具合に維持されている。そこに「純烈」ならではの観客との距離感、「普通ではないもの」がある。彼らは普段着のまま会いにいける、飾ることが必要ない庶民のためのスターだった。

久しぶりに行ってきました、純烈特別ライブ@草加健康センター。息子くんが土曜日に習い事を始めたため、長らく見に行けなかったのですが、今日はたまたま習い事が休みだったため、今年初の生・純烈の観賞であります。

10時50分発のバスに乗り、11時5分くらいに会場に到着。テレビで盛んに純烈が取り上げられるようになった昨今、泊まり込み組がいるため、席取りなんぞ絶望的なのは分かっているので、宴会場の空席確認をすることなく、混む前に二階の食事処で昼食を。食事が終わってから宴会場に立ち見場所を確保できないかと見に行くも、プチリニューアルされており、座敷席が減って椅子席が増えていたため、確保できそうな隅っこが減ってて諦める。開始間際に通路の端にでも立って見るかと、とりあえず時間つぶしを。

まずは物販で、新曲の「愛でしばりたい」で使っている黄色いメガホンと、友井さんの「純烈一途」用のタオルを購入。続いて握手会参加券をゲットするためにCDを購入。うぬぬ。CD2枚で参加券1枚とな。CDを2枚購入して参加券1枚をゲット。ちょうど列に並んでいるとき、風呂上りのリーダーが、健康センターの浴衣を着て出てくるのを目撃。リーダー、ちょっとスリムになっていました。

(PIXIV純烈特別ライブ レポ by きたざわゆうき
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8472820

それにしても本番が始まる前にグループのリーダーが、一般のお客さんと一緒にお風呂に入って、浴衣姿で館内を歩いているというのは普通ではない。芸能人でもアーティストでも、自分は普通の人とは違っているという意識が、本人やスタッフだけでなくファンをも含めて共有されている。ましてやショーを行う会場の中でなら、そのような意識は高くこそなれ、なくなるはずはないと考えるのが普通だろう。
しかし「純烈」の場合、舞台の上に立つものと客席で観るものとの間に、あるはずの見えない壁が存在しない。いや、それをあえてなくしている。そのことが、「純烈」の特長になっているのである。
前出のレポートでは握手会でのやり取りがこう記されていた。

メンバーが列の先頭から順番に握手していき、それが終わった後に写真撮影の流れ。握手で回ってきた友井さんが息子くんを見るなり、「しばらく見ないうちに随分大きくなったねー!」って、まさかの親戚のお兄さんかという発言を(笑)。最後に行ったのが12月ですからねえ。覚えていてくれたのが嬉しい。その後の写真撮影は、流れ作業で写真を撮ってもらっておしまいなんですが、そのときも、「ほんと背のびたよねー!」って友井さんがしみじみ言ってくれて嬉しかった。言われた息子くんもまんざらではない顔をしてました。
(同前)

「純烈」における観客とのコミュニケーションについて、この文章はうまく言い得ている。そのあり方は、“親戚のお兄さん”とその仲間たち、そんな言葉がしっくり来る。

中村一義のアルバム『金字塔』を聴いて諦めたロックへの道

昼のショーと握手会を終えたメンバーたちと対面したのは、午後3時半過ぎのことだった。カラオケセットが置かれた小さな宴会ルームの座敷で、ひと仕事を終えて汗を拭いながら現れた5人と、少しばかりよそゆきのぎこちなさで顔を合わせた。すると目の前に座ったリーダーでプロデューサーでもある酒井一圭さんから、ぼくがこれまでプロデューサーとして行ってきた仕事についての質問が飛んできた。

酒井さんがまず関心を持って訊ねてきたのは、中村一義のファースト・アルバム『金字塔』についてだった。おそらく彼にとって大切な音楽との関わり方について、話しておきたいことがあったからなのだろう。
彼は1997年に出たそのアルバムを、発売と同時に買って熱心に聴いていた音楽ファンだった。中村一義を取り上げた雑誌「ロッキング・オン・ジャパン」に載った記事なども、当時から全部に目を通していたそうだ。

酒井さんは同じ年に生まれた若者が作った『金字塔』に衝撃を受けて、「とてもじゃないが敵わないぞ」と思ったそうだ。そしてロックへ進もうと思っていた音楽の道を、いったんはあきらめたのだと打ち明けた。
ぼくは20歳だった中村一義がたった一人で自宅録音したカセットテープを最初に聴いて、「天才が登場した!」という驚きと喜びのなかで、即座にメジャーでデビューさせることを決めた当時のことを、久しぶりに思い起こすことになった。
そして「純烈」の活動を支えてきた酒井さんの、音楽的な感性の背骨の部分を理解できたように思えた。

10歳の時から子役として活躍していた酒井さんは、学業に専念するために俳優の道を一時的に離れていた。ロックに目覚めて音楽に強く関心を持ったのは、その頃のことだったという。
家にいい音が出るステレオがあったことから、よく親戚の人たちが集まって洋楽を聴かせてくれた。なかでもビートルズに反応を示す酒井少年に、みんなが可能性を感じてレコードを持ち寄り、プレゼントしてくれたことが、音楽との本格的な邂逅となった。
言葉にならない胸の内にある思いを激しいビートで叩きつけるように表す、それがビートルズのロックが持っている本質だ。ノイジーなサウンドとともに声を思い切り出して叫ぶ、その一方ではハーモニーをつけてコーラスをきれいに歌う。
ビートルズが持っている純粋さと烈しさ、そこから生まれる音楽のマジックが、酒井少年の心をとらえたのである。

しかし自分でもバンドを組んで試行錯誤していたものの、ビートルズのように歌って演奏し、ハーモニーをつけるのは難易度が高かった。しかもバンドというものは、自分一人の力ではどうにもならない。音楽の道の難しさを知るとともに、酒井少年は将来を考えて芸能活動に復帰することにした。
そんなときに明らかにビートルズの音楽を下敷きにしながら、たった一人で全ての楽器を演奏し、日常的な話し言葉による独特の歌詞による『金字塔』を聴いたのだった。

40年間におよぶぼくのプロデュース・ワークのなかでも、『金字塔』というアルバムはそのタイトルと同じように、心の底から自信を持って世に送り出した作品だった。だから酒井さんの言葉には納得できたし、とてもうれしいものだった。
彼は『金字塔』のなかから2曲を、フェイバリット・ソングとして口にした。それが「永遠なるもの」と「笑顔」で、ぼくにとっても大好きな2曲だった。
そのあともスーパー・バター・ドッグの「ファンキー・ウーロン茶」に話が飛んだりして、酒井さんの音楽的なバックボーンを理解できたことによって、「純烈」との出会いは期待通りに実りあるものとなった。
その間、ほかのメンバーは話を聞き逃さずに、スマホで曲を調べたりしながら、二人の話に付き合ってくれた。

中村一義さんの楽曲はこちらから

「前川清さんが歌っているのを観て、何か自分の進むべき道が見えたような気がしたんです」

酒井さんが子供の頃に抱いていた夢は、全部で三つあったという。ひとつはプロレスラーのアントニオ猪木になること、ふたつ目は「あばれはっちゃく」になること、そして三つ目が『太陽戦隊サンバルカン』のバルイーグルになることだった。

そこで両親に懇願してまず児童劇団に入り、9歳の時にオーディションを勝ち抜いて、テレビドラマ『5代目あばれはっちゃく・桜間長太郎』の役を射止めた。長太郎の設定年齢は当時の酒井少年よりも3歳年上の12歳であった。だが「体が大きかったため特に違和感がなかった」ということで、無事に主演を務めることになった。こうして10歳でまず、最初の夢を叶えることができた。

その後、酒井さんは音楽の道を経由して俳優の道に戻り、2001年から翌年にかけて放映された特撮テレビドラマ『百獣戦隊ガオレンジャー』で、ガオブラックに変身する牛込草太郎を演じる。さらには2005年から「マッスル」への参戦によって、プロレスラーとしてもデビューしている。こうして少年時代の夢は、ひとまずすべてが達成されたのだ。

ところが2007年に映画『クラッシャーカズヨシ 〜怒る〜』の撮影中、着地に失敗する事故で足を複雑骨折し、アクション俳優としての道を断たれる。緊急手術をしたが、入院は4ヶ月の長期にわたった。医者には「最悪の場合、歩けなくなるかもしれない」とまで言われた。
初めての大きな挫折にみまわれて、将来を考えざるを得なくなったその時期に、新たな希望の灯を見せてくれたのは、いったんは諦めていた音楽だった。

「病院のベッドで寝ていたら、窓から見える新宿コマ劇場が閉館すると聞いて。高齢化が進んでいるのに、中高年の娯楽の殿堂がなくなろうとしている。何らかの事情があるにせよ、これはマズいだろうと思いました。そんな時にテレビで前川清さんが歌っているのを観て、何か自分の進むべき道が見えたような気がしたんです」

その後も前川清がリード・ヴォーカルだった「内山田洋とクール・ファイブ」が、何度も夢に出てきたという。そうしたことがきっかけで、酒井さんは諦めていた音楽の道で生きていくことを構想するようになり、プロデューサーとして思考をめぐらせる。そして、それが「純烈」の誕生につながっていくのである。

純烈の楽曲はこちらから


著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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