Interview

野宮真貴と高野寛が語る、プレ渋谷系から 90年代の変遷と、二人の現在地。

野宮真貴と高野寛が語る、プレ渋谷系から 90年代の変遷と、二人の現在地。

ピチカート・ファイヴで渋谷系のクイーンとして圧倒的な存在感を知らしめた野宮真貴が、ニューアルバム『野宮真貴、ホリデイ渋谷系を歌う。』をリリースする。2013年から「渋谷系スタンダード化計画」というテーマで、渋谷系とそのルーツとなる名曲を歌い、渋谷系を新たな視点で捉えた絶妙な選曲と音楽性は新旧のファンに好評を博している。冬の名曲にスポットを当てた同シリーズ第5弾では、90年代初頭に大ヒットした「Winter’s Tale ~冬物語~」を選曲。オリジネーターの高野寛がデュエットで参加していることでも注目を集めている。
1988年にデビューし、「虹の都へ」などのヒットを生んだ高野寛も、プレ渋谷系とも呼ばれる時代からソロ、ギタリスト、プロデュースや楽曲提供など幅広いジャンルで活躍を続け、3年ぶりのミニアルバム『Everything is good』を間もなくリリース。
時に流されることなくワン&オンリーの個性を確立してきた二人に、再評価著しい90年代の渋谷系から現在に至るまでの興味深い関係性や、今の音楽観を語ってもらった。

取材・文 / 佐野郷子 撮影 / 板橋淳一

高野さんの歌声が25年前とまったく変わっていないことには驚きました。(野宮)

野宮さんの「渋谷系スタンダード化計画」シリーズの第5弾『野宮真貴、ホリデイ渋谷系を歌う。』は、冬の名曲のカヴァーになりましたね。

野宮真貴 今年5月にリリースした『野宮真貴、ヴァカンス渋谷系を歌う。』では、渋谷系とそのルーツの作家たちによる夏のヴァカンスの曲をカヴァーして、今回はその秋冬編になります。夏の名曲に比べて、秋冬の曲って少ないかなと思ったんだけど、実は良い曲がたくさんあるんですよ。

今回は鈴木雅之さんや横山剣さんらとの豪華デュエットが聴きどころですが、「Winter’s Tale ~冬物語~」はオリジナルを歌った高野寛さんとのデュエットが話題です。

高野寛 高野寛&田島貴男の名義で「Winter’s Tale ~冬物語~」がリリースされたのが1992年だから、もう25年前になるんですよね。

野宮 今回、レコーディングでご一緒して驚いたのは、高野さんの歌声が25年前とまったく変わっていないこと! 曲も今聞いても新鮮だし、若々しいカヴァー・ヴァージョンになったんじゃないかと思います。

高野 僕自身、最近はこういうパキッとした歌い方をしていなかったので、久しぶりに歌ってみて、自分でも再発見したことはありましたね。それにトラックがオリジナルにかなり近いから、何か不思議な感じもありました。

野宮 当時はどんな演奏で歌っていたの?

高野 テレビの音楽番組で田島くんと歌った時はカラオケだったのかな? 僕もソロのライブで歌ったことはありますけど、「Winter’s Tale」はやっぱり、二人で歌わないとね。今回のテイクは昔の自分よりちゃんと歌えている気がします。

「Winter’s Tale ~冬物語~」は、ビールのCMソングとしてオンエアーされ、ヒットしましたね。

高野 田島くんはオリジナル・ラヴでメジャー・デビューして上り調子の頃で、当時は同じレコード会社だったこともあり、CMにも二人で起用されて。

野宮 『ホリデイ渋谷系を歌う。』でカヴァーさせていただいたマッキー(槇原敬之)の「冬がはじまるよ」も同じビールのCMソングなんですよね。

高野 そう。90年代初頭はまだビールはおじさんの飲み物のイメージが強かったし、冬にビールを飲む習慣があまり浸透していなくて、若者や女子にもっとアピールするために、あのCMがつくられた…と、どこかのサイトで読みました。

白いダッフルコート、白いベレー帽ではしゃぐ若い男女が印象的なCFでした。

高野 ねっ。僕も田島くんも精一杯爽やかな好青年を演じていました(笑)。

この曲は作詞が高野さん、作曲が田島貴男さんですが、共作の経緯は?

高野 その頃の田島くんはソウル・ミュージックへの造詣が深まっていた時期で、とにかくエネルギーがみなぎっていたので、曲は彼に任せて、歌詞は僕が書くことになった。田島くんも元々はパンク野郎だったみたいだけど、ピチカート・ファイヴに参加して、ソウルなどの音楽のボキャブラリーが増えていったんだと思う。

野宮さんはピチカートの3代目ヴォーカリストとして1992年には『SWEET PIZZICATO FIVE』をリリースしています。

野宮 そうでしたね。「万事快調」とか、ファンキー&グルーヴィな曲を歌っていた頃になるのかしら。

僕は渋谷系とは呼ばれなかったと思うんだけど、人脈的には近いところにいたんです。(高野)

高野 1992年には、もう渋谷系という言葉はあったのかな? 

野宮 まだピチカートに高浪敬太郎くんがいた時期に「私たち、渋谷系って呼ばれているらしいよ」と話した記憶があるから、その頃からかもしれない。

高野 フリッパーズ・ギターが1991年に解散して以降ですよね。僕はデビューが1988年だから渋谷系とは呼ばれなかったと思うんだけど、人脈的には近いところにいたし、渋谷系のジャケットを多数手がけていた信藤三雄さんには僕もお世話になっていました。

野宮 信藤さんがジャケットを手がけた人は、みんな渋谷系って呼んじゃうんですよ(笑)。

高野 なるほど(笑)。フリッパーズ・ギターはデビューが1989年で、僕と1年しか違わないんだけど、その1~2年のギャップを今でも感じる時はありますね。僕の場合は、デビューのきっかけも含めて、高橋幸宏さんなど先輩ミュージシャンにバックアップしてもらったけど、渋谷系の人たちは今までのシーンとは一線を画して、新しい音楽をつくろうという感覚が強かったんじゃないかな。そういうパンク精神が息づいていた。

野宮 そこが生意気でエネルギーがあったんだと思います。私もピチカートに入る前、鈴木慶一さんのプロデュースで1981年にデビューしているので、高野さんの感じ方も分かる気がします。

高野 出自は近いんですよね。ピチカート・ファイヴが細野晴臣さんの主宰していたレーベル=ノン・スタンダードからデビューした時の12インチは僕も買いましたよ。80年代後半、小西康陽さんが『Techii(テッチー)』という音楽雑誌で連載していたコラムで知った音楽も実は多くて、ロジャー・ニコルズ&ザ・スモール・サークル・オブ・フレンズも小西さんのおかげで知ったし。

野宮 それで高野さんも「ドリフター」をカヴァーしていたんですね。

高野 そう。ロジャニコのようなソフトロックも渋谷系の時代に再評価が高まったジャンルでしたね。でも、僕は1992年頃からワールド・ミュージックやアンビエントに興味が出てきて、音楽的にはちょっと距離を置くようになっていったんですけどね。

野宮 小西さんの影響力は今も続いていて、このアルバムの選曲を考えていた時、小西さんが最近DJをする時、マッキーの「冬がはじまるよ」をかけると聞いて、ヒントをもらったんです。マーチン(鈴木雅之)さんと歌えたのも嬉しかった。

高野 マーチンさんは僕の曲「夢の中で会えるでしょう」をソウルフルにカヴァーしてくれたことがあるんですよ。

野宮 マーチンさんも新しいカヴァー・アルバム(『DISCOVER JAPAN Ⅲ ~ the voice with manners ~』)で小沢健二さんの「ラブリー」をカヴァーしていて、私もコーラスで参加しました。今回は、年上のマーチンさん、同世代のクレイジーケンバンドの横山剣さん、年下の高野さんというタイプの違う3人の男性シンガーと一緒に歌わせていただいて、とても光栄に思っています。

高野 それも野宮さんの存在と企画力の賜物だと思います。

今回のアルバムはピチカート解散後のソロ・アルバムとリンクしているんです。(野宮)

そもそも、お二人が出会いは?

高野 遡ると、いちばん最初はテイ・トウワくんの1stアルバム『Future Listening!』(1994年)の「La Douce Vie (Amai Seikatsu)」ですね。

野宮 そうでした!

高野 野宮さんがヴォーカルで、僕がギターとコーラスで参加したんですよね。ただ、スタジオではお会いしていない。

野宮 そうそう。2年前にテイさんのリクエストでヒロシ&マキで再び共演して、7インチにもなりましたね。

高野 ピチカートと、僕を結ぶちょうど真ん中あたりにいる存在がテイくんなのかな。坂本龍一さんがパーソナリティを務めていたFM番組「サウンドストリート」で、リスナーからデモテープを募集していて、それに投稿したのが若き日のテイくんと槙原敬之くんだったんですよ。

野宮 何か繋がっていますね。高野さんはその後、2002年に私のアルバム『Lady Miss Warp』のサウンド・プロデュースをお願いしましたね。あのアルバムには、槇原敬之さん作詞・作曲の「さよなら小さな街」も入っているし、クレイジーケンバンドと共演したり、今回のアルバムとリンクしているんですよね。

高野 サディスティック・ミカ・バンドの「塀までひとっとび」のカヴァーは、SUPER BUTTER DOGと一緒にやるのが面白いんじゃないかと提案したのは僕だったのかな。今のレキシとハナレグミが野宮さんと共演しているというのも貴重かもしれない。

野宮 あのアルバムはピチカートが解散して初のソロ・アルバムだったし、それまでずっと、小西さんのつくる歌を歌ってきたので、色々なミュージシャンの方と一緒にやってみたいという気持ちが強かったんです。