佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 14

Column

どうして茅ヶ崎はこれほどまで音楽家と縁があるのか?

どうして茅ヶ崎はこれほどまで音楽家と縁があるのか?

映画『茅ヶ崎物語~MY LITTLE HOMETOWN~』が始まってまもなく、茅ヶ崎にゆかりのある芸能人や文化人が紹介される。そのなかで特に印象的に残ったのが、映画監督の小津安二郎さんと彼が仕事場として定宿にしていた旅館の茅ヶ崎館、それに音楽家の中村八大さんの写真だった。
それらが結びついた瞬間、「茅ヶ崎の文化性とは映画と音楽から来ている!」という直感が走った。

      写真提供・ 八大コーポレーション

神奈川県の茅ヶ崎市出身の音楽家といえば、新旧の両横綱といった存在で並び立つのは、加山雄三さんと桑田佳祐さん、ふたりとも映画には関わりがある。

茅ヶ崎の名を最初に全国に知らしめた加山さんは、両親が映画界のトップ・スターであり、ご自身も映画スターになってから、趣味でバンド活動を始めて音楽面での才能を開花させていった。
桑田さんはお父さんが映画会社の日活に務めていて、茅ヶ崎駅前の映画館「大黒館」の支配人をしていた。またサザン・オールスターズで成功してからは、自分でも映画「稲村ジェーン」を監督している。

そして八大さんも茅ヶ崎という土地だけではなく、映画や音楽を通して加山さんとは縁があった。

戦後のジャズ・ブームのなかでピアニストとして活躍した八大さんは、ジャズ雑誌「スイングジャーナル」の人気投票では7年連続で1位に選ばれたスターだった。
外国の真似に終わらない日本人のオリジナルなジャズの表現を求めて、ジョージ川口、小野満、松本英彦の4人で結成したビッグ・フォーは、オリジナル曲はもちろんだが、日本民謡「八木節」や「佐渡おけさ」などを大胆なジャズ・アレンジで演奏して人気が爆発した。
名声と集客力が評判になって、全盛時には野球場でのワンマン公演も行っている。

八大さんはそんな時期に両親と家族のため、茅ヶ崎に自宅を購入して茅ヶ崎市民になっていた。
多忙を極めていたので仕事場は東京を拠点にしていたが、1967(昭和42)年には市政20週年を記念して制定された「茅ヶ崎市歌」を手がけている。

「戦後の三十一年からの市民ですから、作曲を依頼されたときは、土地に愛着を持つ茅ヶ崎人として認められたと、うれしかったですね」
(サンケイ新聞・神奈川版 1982(昭和57)年5月11日)

1959(昭和34)年に東宝映画『青春を賭けろ』の音楽監督を引き受けた八大さんは、そこで挿入歌としてつくった「黒い花びら」がヒットし、第1回日本レコード大賞を受賞したことから作曲家として活躍する。

1961年7月21日、東京・大手町にある産経ホールではクラシックやジャズ、ポップスといった枠をこえて、新しい時代にふさわしい音楽の可能性を目指すべく「中村八大のリサイタル」が開催された。
そこで発表された書き下ろしの歌のなかに、加山雄三のデビュー曲となる「「夜の太陽」と、坂本九が歌って世界的にヒットする「上を向いて歩こう」があった。

加山雄三主演の映画「若大将シリーズ」の第一作『大学の若大将』が封切られたのは、そのリサイタルから1週間後のことだ。
映画の主題歌はもちろん、八大さんが書いた「夜の太陽」だった。

お姉さんがビートルズの大ファンだったので、桑田さんは小学3年のときからいつもレコードを聴かされていたというが、もっと幼い頃からテレビを通して八大さんの音楽にも親しんできた。

その後、自分でも『リボルバー』や『ラバー・ソウル』といったアルバムを買うようになって、アイドルからアーティストに変化していったビートルズ、クリームやディープ・パープルなどのロックから、大きな影響を受けたという自覚を持つようになったそうだ。

しかし50代になってから、思春期のロック体験よりも前に、聴くともなく聞こえていたポップスこそが、自分の音楽の本質だったのではないかと気づいたという。

 ディープ・パープルも悪くないけど、やっぱり自分の本質はロネッツの『ビー・マイ・ベイビー』や坂本九の『上を向いて歩こう』なんだよって。
 (「総力特集 桑田佳祐クロニクル」 『SWITCH』2012年7月号)

ロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」はアメリカン・ポップスにおける不朽の名曲で、1963年10月にビルボード誌の全米チャートで最高2位のヒットを記録していた。
そのわずか3か月前、坂本九が日本語で歌った「SUKIYAKI(上を向いて歩こう)」は太平洋を越えて、3週連続で全米チャート1位に輝くという金字塔を打ち立てている。

ビートルズがアメリカでブレイクするのは、その年が終わろうとする12月下旬のことだった。

なぜ茅ヶ崎からこんなにも多く、才能ある音楽家が出たのか?

「MY LITTLE HOMETOWN  茅ヶ崎音楽物語」の著者である宮治淳一さんは、60歳を超えた今も茅ヶ崎から電車に乗って、東京・六本木にあるレコード会社に通勤するミュージックマンだ。
ここ数年は海外の隠れた名曲を発掘し、テーマごとに集めてコンピレーション・アルバムを編纂するというプロジェクトに携わって、インターネットを駆使して埋もれている名曲や、まだ知られていない傑作を探し続けている。

日本有数のレコードのコレクターでもある宮治さんが、長年にわたって胸に抱えていた茅ヶ崎の謎を解き明かそうと取り組んだ「茅ヶ崎音楽物語」を読んで、ぼくがもっとも印象深く感じたのは加山雄三とともに、“湘南サウンド”をつくった立役者の喜多嶋修さんにまつわるパートだった。

1960年代の後半に巻き起こったグループ・サウンズのブームのなかで、喜多嶋さんはザ・ランチャーズを率いてデビューし、「真冬の帰り道」というシングルをヒットさせた。
だがそれ以前の高校生時代から、加山雄三とランチャーズのメンバーとして活躍していた。

その後、ロンドンやアメリカにまで目を向けて音楽を追求し、1974年からは家族とともにロサンジェルスに拠点を移し、作曲活動を始めて現在に至っている。

宮治さんは本書のなかでこんな事実を述べている。

私の生涯の愛聴盤『Exciting Sound Of Yuzo Kayama And The Launchers』(一九六六年発売)が加山雄三とその従兄弟である高校生の喜多嶋兄弟、たった三人の演奏によるものだったという事実はスリリングだった。 日本のポップスの始まりともいうべきこのアルバムが茅ヶ崎産で、何より自由な発想によるアマチュアの作品だったということが、茅ヶ崎と音楽の関係を知る上で大きなポイントになると踏んだ。

喜多嶋さんからもっと話を聞くためにと、宮治さんはロサンジェルスまで出かけていった。
そして「茅ヶ崎音楽物語」の終章に、素敵なエピソードを紹介している。

それは喜多嶋さんが渡米後に親しくなったミュージシャン、ヴァン・ダイク・パークスの音楽生活50周年を祝うパーティに、夫人の洋子さんとともに招待されて出かけたときのことだった。

夫妻がウェルカム・ドリンクをもらって会場の雰囲気を楽しんでいると、洋子が「ベンチャーズの音が聞こえるね」とつぶやいた。
喜多嶋が耳を凝らすと、確かに懐かしいエレキ・ギターの音が微かに聞こえる。
だがこれはベンチャーではないとすぐに分かった。
喜多嶋はDJブースに近づき驚いた。そのターンテーブルには、加山雄三と喜多嶋修が大平洋を隔てた茅ヶ崎で五十年前に作った最初のアルバム『Exciting Sound Of Yuzo Kayama And The Launchers』がのっていた。

宮治は最後にこう結んでいる。

茅ヶ崎産の最初のポップ・アルバムは、五十年をかけて太平洋を越えたのだった。

それは中村八大がつくった「上を向いて歩こう」が、世界中でヒットしてから52年目のことだった。


著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、

美輪明宏と「ヨイトマケの唄」 天才たちはいかにして出会ったのか

著者:佐藤剛
出版社:文芸春秋

三島由紀夫、中村八大、寺山修司・・・・・・

時代を彩った多くの才能との邂逅、稀代の表現者となった美輪明宏の歌と音楽に迫る、傑作ノンフィクション!

「自分以外の人によって、己れの人生を克明に調べ上げ語られると、そこには又、異なる人物像が現出する。歴史に残る天才達によって彩色された果報な私の人生絵巻が、愛満載に描かれていて、今更ながら有難さが身に沁みる」――美輪明宏

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