佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 16

Column

「久米宏です。 ニュースステーションはザ・ベストテンだった」

「久米宏です。 ニュースステーションはザ・ベストテンだった」

久米宏の著書「久米宏です。 ニュースステーションはザ・ベストテンだった」(世界文化社)のタイトルに出てくる『ザ・ベストテン』(TBS系列)は、1978年1月から始まった伝説のテレビ番組である。

それまでにも久米宏は歌番組の司会をしたことがあり、そのときの経験から「司会者というものは刺身のツマのようなものだ」と考えていたという。
だから所属していたTBSのアナウンス部にも、歌番組の司会の仕事は辞退したいと伝えてあった。

それにもかかわらず、新しい音楽番組の司会役を引き受けたのは、相手が黒柳徹子だったからだ。
彼女は『ザ・ベストテン』の出演を依頼されたとき、久米宏の名前をあげて「アシスタントではなく、一緒に司会したい」とTBSに提案していた。

黒柳さんとは一度、仕事をご一緒したいと思っていた。同時に黒柳さんとはいずれご一緒する運命にあるということを感じていた。黒柳さんがテレビの創成期を共に歩んだ永さんは僕の大恩人に当たる。ご一緒したいというよりも「ついにその時が来た」という感じに近かった。

ここで大恩人と語られている“永さん”とは、久米宏が師匠と仰ぐ永六輔である。
1970年に永六輔のラジオ番組『土曜ワイド』(TBS)が始まったとき、結核で休養したことで仕事がない状態だった久米宏は、レギュラー出演者に抜擢されて発奮した。

永さんがパーソナリティーだった5年間、午前9時5分から午後5時まで最長8時間に及んだ番組を毎週、僕は必死で聴いた。難しい問題からくだらないネタまで一言一句聴き漏らすまいという気持ちだった。永さんの影響を受けるなというほうが無理だろう。ものの考え方や仕事の仕方をこの5年間で学んだ。

そして永六輔の期待に応えるために体当たりのリポーターとして名をあげて、世間に認められるようになっていった。

そこで学んだことは次のふたつだった。

「番組を放送するにあたっては、ラジオ聞いてる大勢の方々の気持ちをおもんぱかってなければならない」
「番組を送り出す人間は、自分自身の考えや主張をしっかり持って、それを曲げてはいけない」

当時の歌番組と『ザ・ベストテン』が決定的に違っていたのは、発表するランキングの公正さに徹底してこだわったところにある。
ランキング形式の歌番組はラジオでは当たり前のことで、それを模したテレビ番組も昔からよくあった。

だが、それらはキャスティングを優先していたので、あたり前のように人気歌手中心だったし、レコード会社や芸能プロダクションの意向が強く作用していた。

それらと比べると『ザ・ベストテン』は情報を操作したりせず、生放送で正しく伝えるというジャーナリスティックな面を打ち出して、新しいランキング番組のあり方を提示して大成功を収めることになった。

また番組を圧倒的な人気番組に押し上げたのは、個性的な二人の司会者が放送人としての誇りと矜持を持っていたところにもあった。
それが久米宏の著書には明記されていた。

初めての顔合わせの時、黒柳さんは

「どんな若い歌手の方がいらしても、私は敬語を使おうと思います」とおっしゃった。

それまで歌番組の司会者の多くは、出演歌手に対して「〇〇ちゃん」などと呼んで友達のように接していた。しかし『ザ・ベストテン』への出演者は、いくら若くてもプロの歌い手でありお客さまなのだから、全員同じように大人として丁寧に接しようという提案だった。僕はその趣旨に100パーセント賛同した。

その名の通り、ベストテンにランクされた歌手しか出演できない番組なのだから、選ばれし者の敬意を払いたいという気持ちが伝わってくる。

したがって選ぶ側の番組の制作者に対して、ランキングの順位を絶対に操作しないようにと申し入れたのも黒柳徹子だった。
「もし順位を買う動かすようなことがあったら番組を降ります」と彼女が宣言したとき、久米宏もその場で「僕もそうします」と言い添えたという。

こうした態度がスタッフ全員にも伝わって、「良い番組にしよう」という熱意が共有されて、さまざまなアイデアや工夫が生まれた。

その結果、レコードの売り上げだけではなく、視聴者から寄せられたリクエストはがきの枚数、有線放送のリクエスト回数、ラジオ各局のランキングを集計した数値を打ち込むと、自動的に10曲の順位が出るシステムが作られたという。

1970年代はカラーテレビの普及にともなって、聴く音楽から見る音楽へと移行した時期で、歌謡曲の黄金時代が到来していた。
南沙織、小柳ルミ子、天地真理というアイドル歌手たち、『スター誕生』から見出された花の中三トリオの森昌子、桜田淳子、山口百恵、そして新御三家と呼ばれた西城秀樹、郷ひろみ、野口五郎たちが次々とヒットを飛ばした。

70年代後半にはピンク・レディーが一大旋風を巻き起こし、記録的な大ヒットを連発していた。その時期の歌謡界とテレビは、史上最高の蜜月関係にあったといえる。

その一方では吉田拓郎、井上陽水、荒井(松任谷)由実、中島みゆきといったニューミュージック系と呼ばれた新しい音楽の担い手たちが、コンサートを中心にした活動とアルバムのセールスによって、大きな影響力を持ち始めていた。
そんな彼らの大半が商業主義に染まることを嫌って、テレビ出演には背を向けていた。

番組では初回の放送から、心配された事態が現実のものになった。
4位にランクインした「わかれうた」の中島みゆきから、レコーディングを理由に出演を断られたのだ。
さらには人気絶頂だった山口百恵の「赤い絆」が11位、「秋桜」が12位でベストテン圏外になってしまった。

第1回放送日のその時間、山口百恵のスケジュールは出演にそなえて空けてあった。その日は大阪で仕事があったので、山口百恵は大阪の放送局で待機して、生中継で出演する手はずが整えられていた。
ところが直前になってベストテン圏外という、予想外の数字が出たのである。

それまでのテレビと芸能事務所の関係からすれば、圏外だったので残念ながら出演はできませんなどということは、まったくありえない話なのである。
もっとも視聴率をとれるスターなのだから、当然のように10位と入れ替えて出演してもらったであろう。
実際に「中島みゆきの代わりに出演してもらえばいい」という声もあった。

だが、それを許せば最初に打ち立てた大原則が崩れてしまう。スタッフは百恵さんが所属するホリプロに出向いて、土下座をせんばかりに頭を下げた。
しかし初回で原則を貫いたことが番組の方向を決定づけた。すなわちデータは絶対いじらない。正直なランキングを守り抜く。そのため僕は毎週、
「〇〇さんは現在、全国ライブで忙しく、出ていただけませんでした」
「☓☓さんはレコーディング中のため、出演は辞退させていただきます、とのことです」
と謝っていた。

そして結果的にはそれが評価されて、業界の関係者や出演歌手、そして何よりも圧倒的な数の視聴者が、『ザ・ベストテン』のランキングには嘘がないと信用してくれたのである。

そのためにテレビの歌番組にはめったに出演しなかった松任谷由実、松山千春、井上陽水などが、『ザ・ベストテン』に限ってはと出演を承諾することにもつながった。

なお筆者がマネージメントしていた甲斐バンドも、たった1度だけレコーディング・スタジオからの中継で出演したのだが、きつい口調で何度も断ったにもかかわらず、粘りに粘られたことでその誠意と真摯な態度に負けて、ついに交渉のテーブルに着いたことを思い出す。

※本文中の久米宏による文章はいずれも「久米宏です。 ニュースステーションはザ・ベストテンだった」(世界文化社)からの引用です。


著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、

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