黒川文雄のエンタメ異人伝  vol. 10

Interview

ゲームデザイナー上田文人氏(上)『ICO』『ワンダと巨像』『人喰いの大鷲トリコ』独自の世界観を持つ作品創りの原点とは?

ゲームデザイナー上田文人氏(上)『ICO』『ワンダと巨像』『人喰いの大鷲トリコ』独自の世界観を持つ作品創りの原点とは?

普通のゲーム会社に就職するのはイヤだった。ワープ、セガAM2研志望

ぜひ見てみたいですね。そのあたりから今度はコンピューターに傾倒していったわけですか?

上田 そうですね。ちょうど同時期に、さっきお話したAMIGAを買って独学でCGを学びはじめたんです。ただ、あくまで美術表現に使いたいというのが理由でした。ビデオアートみたいなものの先駆けというか、そういうもので美術表現をやっていけば、新しい可能性があるんじゃないかなあと。それで、AMIGAを買ったはいいんですけど、自分がもともと好きだったゲームだったりアニメーションだったり、そういうものにどんどんのめりこんでいってしまって。

ハハハハ。就職しようと思われたのは、何がきっかけだったんですか?

上田 同時期に、さっきお話したソニーのコンペで入賞したんですけど、まだ大阪に住んでいたこともあって、なかなか収入に繋がらなかったんですよね。それで、ちゃんとしたフルタイムの仕事をしようということになって。じゃあ何がいいかって考えたときに、ビデオゲームの世界だったら自分のやりたいことをこう……それほど抑える必要なく、楽しく仕事できるんじゃないかなあという。

ビデオゲームといってもプログラムもあればグラフィックもあれば企画もありますけど、そこは最初からグラフィックでと考えられていたんですか。

上田 そうですね、そのときは自分がゲームデザインをするなんて発想もまったくなくて、3DCGやCGアニメーションとかだったらできるんじゃないかなということで。とはいえ、美術をやってたんで何かこう……普通のゲーム会社に就職するのはイヤだっていうのも内心あったんです。なので、就職したこともない人間にも関わらず、その当時脚光を浴びていたワープ(注10)とかセガのAM2研(注11)とかに行きたいなと。

注10:1994年に飯野賢治が設立したゲーム開発会社。代表作は『Dの食卓』、『エネミー・ゼロ』、『リアルサウンド 〜風のリグレット〜』など。
注11:『アフターバーナー』、『スペースハリアー』、『バーチャファイター』シリーズなど数多くの人気作を生み出したセガの開発分室「第2ソフトウェア研究開発部」の通称。

おお、そんなことを考えられていたんですか(笑)。

上田 淡い期待を持ってましたね。

セガにはエントリーされなかったんですか?

上田 しなかったですね。当時のセガは中途で採っていたんでしょうか。

採ってましたけど、どちらかというと新卒のほうが多かった気がします。

上田 そうですよね。そういう求人を見た記憶がないので。

僕がワープについて話すのはちょっとおこがましいかなと思って…

ワープは「ファミ通」の広告を見て応募したっていう話は事実ですか?

上田 事実です。「ファミ通」の広告でしたね、うん。

どのようにしてエントリーされたんですか。自作のポートフォリオみたいなものを送ってみたとか?

上田 そうですね。当時は独学でCGをやっていたんですが、もっとCGを作れる時間を増やしたいっていうのがありまして、大阪日本橋の小さなCGプロダクションでアルバイトをしていたんです。社長の趣味みたいな範囲でやってるCGプロダクションだったんですけどね。そこの機材を使ってコツコツ自分の作品を作ってたんですが、それがある程度まとまったタイミングと「ファミ通」でワープの求人を見たタイミングがちょうど一致して、それをビデオに撮って送ったのがきっかけですね。

すぐに返事が来たと聞いていますが。

上田 そのとおりです。それで面接に行って、すぐに来てくださいって話になって。東京で住む部屋とかもワープが準備してくれました。当時のワープは恵比寿の駅前にあったんですが、そこから徒歩で5分ぐらいのところに。

そんな近くにですか。

上田 はい。仕事どっぷりの日々だったんで、すぐに帰って寝て、またすぐに来れるようにっていう考えがあったんだと思うんですけどね。

当時のワープはどんな会社でしたか?

上田 僕が入社したときはまだ社員が16人しかいなくて、男ばかりでしたね。

ワープに関しては、これまであまり、当時の仕事の話をされていないような印象を受けるんですが。

上田 そんなことはないんですが……僕がワープについてあまり話さないのは、振り返ってみたら実はそれほど在籍期間が長くなかった、っていうのもあって。

1年半くらいですよね。

上田 そうですね。もっと長くいた同僚もいるんで、僕がワープについて話すのはちょっとおこがましいかなと思って。でも、楽しかったですね。初めての東京だったし、お金をもらってクリエイティブな仕事をする、モノを作っていくっていうことも初めてだったんで。ワープは当時のゲーム業界の中では、特にとんがった表現をしていたと思うんで、そういうのも楽しかったですし、文化祭みたいなノリに近かったと思います。

上田さんの好みだったり、今まで遊んできたものに会社のテイストが近かったんですかね。『Dの食卓』(注12)であったり、開発に参加された『エネミー・ゼロ』(注13)もそうだったと思うんですけど。

さまざまなトライが可能だったワープ時代

上田 それらの作品は『MYST(ミスト)』(注14)などから影響を受けて、BGMがあんまりないとか、パズル要素が強いとかそういう表現を選んでたと思うんですが、僕もその影響を受けた部分があったんでしょうね。僕がのちに作ったタイトルもパズル要素が強かったり、環境音だけで何かを表現したりしていますが、「あ、こういう表現も可能なんだな」とか「こういう表現で喜んでくれるお客さんがたくさんいるんだな」っていう風に認識できたのはワープ時代があったからだと思いますね。

注12:1995年に3DO向けに発売されたインタラクティブ・シネマ。謎の古城からの脱出を目指すというアドベンチャータイプのゲームで、当時としてはまだ珍しかったフル3Dによる画像や映画的な演出が人気を博した。
注13:1996年にセガサターン向けに発売された、宇宙を舞台にしたホラーアクション。敵であるエネミーの姿が見えず、音を頼りに敵の位置を探知するという斬新なシステムが話題を呼んだ。
注14:ミスト島と呼ばれる謎の島を舞台に様々な謎に挑んでいくパズルアドベンチャーゲーム。疑似的な3D世界や実写テイストの美麗な画像は当時としては非常に斬新で、のちのゲームに多大な影響を与えた。

飯野賢治さん(注15)はいろいろ強烈なエピソードをお持ちの方ですが、一緒にお仕事をしてみてどうでしたか。何か影響を受けたところはありますか?

上田 もともとメディアにたくさん出られていた方で、大阪に住んでた僕からすると、東京で第一線で仕事をしているっていうだけですごく遠い存在だったわけです。でも、実際に会ってみると、何て言うんでしょうね……言葉にするのは難しいんですけど、考えていることや、使っている道具がそんなに違っているわけではないんだっていうところに勇気づけられたというか。自分もゲームを作ろうと思う、きっかけになった感じはしますね。

注15:『Dの食卓』『エネミー・ゼロ』などを手がけたゲームクリエイター。独自性の強いチャレンジブルな作品を次々に生み出し、マスコミへの露出も多かったことから時代の寵児となった。2013年2月に死去。


続きは第2回インタビュー
12月25日(月)公開

ゲームデザイナー上田文人氏(中)「自分の作品をつくりたい」ゲームクリエイター飯野賢治氏とともに働くことで得た影響とは?

ゲームデザイナー上田文人氏(中)「自分の作品をつくりたい」ゲームクリエイター飯野賢治氏とともに働くことで得た影響とは?

2017.12.25

著者プロフィール:黒川文雄【インタビュー取材】

くろかわ・ふみお
1960年、東京都生まれ。音楽ビジネス、ギャガにて映画・映像ビジネス、セガ、デジキューブ、コナミDEにてゲームソフトビジネス、デックスエンタテインメント、NHN Japan(現LINE・NHN PlayArt)にてオンラインゲームコンテンツ、そしてブシロードにてカードゲームビジネスなどエンタテインメントビジネスとコンテンツの表と裏を知りつくすメディアコンテンツ研究家。コラム執筆家。アドバイザー・顧問。黒川メディアコンテンツ研究所・所長。株式会社ジェミニエンタテインメント代表。DMMオンラインサロンにて「オンラインサロン黒川塾」を展開中。
黒川塾主宰。ゲームコンテンツ、映像コンテンツなどプロデュース作多数。

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