佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 24

Column

横尾忠則の追悼文と「高倉健メモリーズ」、そして「高倉健 七つの顔を隠し続けた男」を読み比べる

横尾忠則の追悼文と「高倉健メモリーズ」、そして「高倉健 七つの顔を隠し続けた男」を読み比べる

高倉健さんは俳優としての円熟期に入ってからスクリーンで演じた役柄の多くがそうであったように、私生活でも孤独の影をまとった寡黙な男という生き方を貫いて、2014年11月10日に83歳で亡くなりました。

訃報を知らされた美術家の横尾忠則さんが朝日新聞に寄稿した追悼文のなかで、健さんのことを世間的なイメージ以上に、「もっとよく話す人だった。そして細かいところに気配りのできる繊細な人」だと語っていたのが、いまでも印象に残っています。

横尾さんは1960年代の終わりごろに「ひと目でいいから会いたい」と伝手を頼って、東京・赤坂のホテルで待ち合わせをしたときのことを、「私の姿を見るなり、直立不動。そして深々とお辞儀をして下さいました。この印象は、その後もずっと変わりませんでした」とも記していました。

横尾さんはそこで意気投合したことから健さんの写真集を作ったり、主演した映画のポスターやレコードジャケットをデザインすることになったのです。

秘めた力を押し殺していた健さんが、突然感情を爆発させて長ドスぬいて殴り込んで行く。義理と人情、かつての昭和の日本人を背負っていました。日本人が忘れかけていた情念のようなものなのに、近代を乗り越えようとする姿にも見えた。そこに「現代」を感じた。だから。全共闘の連中も感動して、健さんの映画を見て、ゲバ棒を振り上げていたのだと思う。
背中に刺青を入れた体には、ニヒリズムとエロチシズムがあった。言葉に出来ない叫びを体で代弁してくれた。映画館の外に出ると、みんな健さんみたいになって帰っていきました。
(朝日新聞 2014.11.19)

1956年に東映から映画俳優としてデビューした健さんは、そこから5年間で60本以上もの作品に出演しましたが、二枚目俳優であってもスターはいえない微妙な存在で、代表作やヒット作と呼べる作品はありませんでした。

しかし1963年にヤクザ映画路線が生まれるきっかけとなった『暴力街』で初めて、任侠道に生きる侠客を演じたことによって、地なのか演技なのかわからない、異様ともいえるふしぎなリアリティを発揮し始めます。

その直後に『人生劇場 飛車角』がヒットしたことから、東映は一気にヤクザ映画を量産する方向に舵を切り、そこにすかさず「日本侠客伝」と「網走番外地」がヒットしてシリーズ化されました。

人気が爆発した健さんはその後も「昭和残侠伝」というドル箱シリーズを誕生させて、それまでの石原裕次郎を抜いて日本で最も集客力があるスターになっていきます。

そんな健さんが学生時代から憧れていて積極的に交際を申し込んで結婚に至ったのが、15歳でデビュー曲「テネシー・ワルツ」を大ヒットさせたジャズ・シンガー、江利チエミさんです。

『昭和残侠伝』の主題歌である「唐獅子牡丹」のレコーディングでは、チエミさんが付きっきりで口移しのように歌い方をアドバイスしていたそうです。

しかしそれから数年後、チエミさんの親族と称する女性が起こした愛憎がらみの金銭トラブルが度重なったことで、ふたりは周囲を気遣って不本意ながらも離婚する道を選ぶことになります。

45歳の若さでチエミさんが急死してしまったのは1982年2月13日のことで、葬儀が行われた2月16日は健さんの誕生日、しかも二人にとって結婚記念日でした。

それ以来、健さんは生涯独身を通しています。
そしてチエミさんの命日の前後には必ず、目立たないような時間に一人で墓参りに出かけていたそうです。

横尾さんが追悼文のなかで述べていた「夫婦」のエピソードを、また読み返してみました。

90年ごろだったでしょうか、夜中に突然、私の事務所を訪ねてこられたことがあります。ジャンパーにニット帽、無精ヒゲという姿で、「日本海の方を車で走って、戻って来たところです」とおっしゃるのです。
健さんは、夜の海岸で夫婦がけんかをしているのを、遠くからながめていたそうです。具体的な光景が浮かぶような話ぶりで、「夫婦というのは切ないですね」と。江利チエミさんのことを思い出したのかもしれません。いつも大切に思っておられました。
(朝日新聞 2014.11.19)

晩年の健さんの代表作となった1999年公開の映画『鉄道員(ぽっぽや)』では、主人公の亡くなった妻との思い出の曲として「テネシー・ワルツ」が流れてきます。

そこには10年ぶりで健さんの映画を監督する降旗康男とのあいだで、こんなエピソードがありました。

思い出の曲を何にするかを決める打ち合わせの席で、製作スタッフ側からいくつかの候補曲があがるなかで、「他に何かありませんか?」と問われた健さんがおもむろに、「テネシー・ワルツ」と答えたのです。

そのとき、1966年の『地獄の掟に明日はない』から始まって30年以上の長きにわたって、15本もの映画を撮ってきた降旗監督はこんな会話をしたそうです。

「健さんは『そんな個人的なことが許されるでしょうか』と言ってきたんですけれどね。『健さん、僕らも歳だし、これが最後の映画になるかもしれない。だからやりたいことをやりましょう。個人的なことでいいんじゃないですか』と言ったんです。実はクランクインする前に、僕の中では、誰もいない駅に『テネシー・ワルツ』が「流れる画が浮かんでいましたからね。なんとしても入れたくて、うんと言わせた感じもありました(笑)」。
(「高倉健メモリーズ」キネマ旬報社)

映画の冒頭から聴こえてくる「テネシー・ワルツ」のメロディーは、哀悼歌のように劇中で何度も流れて、『鉄道員(ぽっぽや)』は大ヒットしました。

そうした健さんの生き方をあらためてたどったのが、ノンフィクション作家の森功氏が上梓した「高倉健 七つの顔を隠し続けた男」(講談社)です。

著者は健さんの母校である福岡県立東築(とうちく)高校の後輩でもあり、取材で知り得た事実によって、不世出のスターがまとっていた”光りと影”を明らかにしています。

北九州の炭鉱町に生まれ健さんは土地柄もあって、少年時代から“川筋者”といわれた荒くれ男たちに揉(も)まれて育ちました。
高校時代は健さんのために、体育の先生がボクシング部を新設してくれたといいます。
そして明治大に進学してからはいったん入った相撲部をやめて、戦後復興期の匂いがまだ色濃く残っていた盛り場の渋谷に出かけては、酒と喧嘩に明け暮れる日々を過ごしたそうです。

そうした”やんちゃ”ともいえる学生時代から始まっていたのが「住吉会」の幹部たちとの交流で、それが後に健さん流の「人の道」や「気遣い」の基礎となっていったことが理解できました。

だから任侠映画に出演する用になってからは役柄に合わせて自らを徹底的に律することで、いっとき道を踏み外しそうになった体験を活かした演技で、アウトローの魅力を発していったことが過不足なく描かれています。

そのなかでも心が温まる思いをしたのは、チエミさんと離婚した後もお互いにお互いを思いやっていたことが、行間から伝わってきたところです。

それだけに最後の章になって明かされた事実、すなわち健さんが亡くなる1年前に養女となった女性の存在と、その行動に関する記述には戦慄が走る思いをしました。

見事にスターとしての人生を見事に全うした健さんほどの人でも、亡くなった後になってこうした不可解な状況に見舞われるという事実に、人の世についてまわる不条理というものを感じずにはいられません。

そう思って気分を変えるために、健さんを愛する人たちの思いが込められた「高倉健メモリーズ」を手にとって、映画の中に”真実”を求めて命を燃やした健さんのインタビューと、共演した俳優や監督たちの言葉などを読み直して元気をもらいました。

最後は14歳のチエミさんが吹き込んだ「テネシー・ワルツ」を聴いて、死者の魂を静かに慰めることにします。

去りにし夢 あのテネシーワルツ
なつかし愛の歌
面影偲んで 今宵も唄う
麗しテネシーワルツ

思い出なつかし あのテネシー・ワルツ
今宵も ながれくる
別れたあの娘よ いまはいずこ
呼べど帰らない


著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、

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