【80年代名鑑】明菜からYMOまで 80'sからの授かりもの  vol. 53

Column

チェッカーズ バンドの主役は“全員”であることを示した功績

チェッカーズ バンドの主役は“全員”であることを示した功績

今回、このコラム執筆に際して、こんなに聴くことは一生ないくらいチェッカーズの音源を聴きまくったが、89年7月の『Seven Heaven』のあと、翌年8月の『OOPS!』、さらに91年6月の『I HAVE A DREAM』と、遂に連続して、シングルを1曲も含まないオリジナル・アルバムとなった。これ、彼らの自信の表われだったかもしれない。

『OOPS!』は、新たなフェーズへと突入していったことを、大胆なほどに照明する内容だ。“OOPS!”は、驚きや途惑いを表わす英語の間投詞であり、そんなタイトルをつけるということは、つまり受け手の反応を、先取りしたかのようであった。

今回、チェッカーズにしては“風変わりな曲も入っている”という、そんな紹介の仕方をしている記事を発見したが、今の耳で聴くと、全体に“クラブ・ミュージック”寄りの雰囲気といえるだろう。Suchmosなどの音楽が巷に流れる現在、このアルバムは、むしろ当時よりも万人向けかもしれない。

ところどころ、シャレも効いてる。3曲目のタイトルは「M-3」で、レコ−ディング中につける曲の仮タイトルだって、“もうちょっと凝ったことするんじゃないの?”と思った。でもこれ、“エレクトロニカ”っぽい。タイトルはテキトーだが、音はカッコ良い。

ちなみに彼らの故郷、福岡の大先輩の井上陽水が、「最後のニュース」というシングルを出した時、カップリング曲のタイトルを実にテキトーなもの、そう、「BACK SIDE」(=B面、という意味)にしたことがあった。これらの例から考えるに、福岡出身の方々は、大胆不敵、ということかもしれない。

ただ、このアルバムの「ACID RAIN」(酸性雨、という意味。もちろんメッセージ性ある歌だ)の歌詞には、“みんなわがまま すぎただけだよ”というフレーズも出てくる。このアルバムが出て2年ちょっとで解散してしまうことを思い出すと、歌詞のこの部分が感慨深く聞こえてしまったりもする。

『OOPS!』のあとの『I HAVE A DREAM』は、各楽器の聞こえ方も、より音質的に自然で味わい深いものになっている。このタイトルは、おそらくキング牧師の有名な演説の一節から取ったものかなと思ったが、冒頭の「I have a dream #1」を聴くと、どうやらその可能性が高いようである。さらにこの歌には、キング牧師のみならず、ジョン・レノンの「イマジン」からのインスパイアも感じられる。

そしてラスト・アルバムの『BLUE MOON STONE』では、フュージョン・パンド的に達者な面をみせている。最後のアルバムがお座なりな内容ではなく、音楽性ということでは、実にリッパな高みを響かせていることは特筆すべきだろう。

それはおそらく、彼らがバンドと並行して、ソロ活動も活発に行い始めていたことも関係あるのではなかろうか。87年の藤井尚之を皮切りに、88年にはフミヤが、89年には鶴久と高杢も単独でも動き出している。チェッカーズの場合、バンドを休止状態にして、その間にソロを行うのではなく、バンド活動は続けつつ、並行してののものだったのが特徴的だ。彼らの作品集が最後までリッパなものだったのは、彼ら7人にとって、まさに“フィールド・オブ・ドリームス”だったのがこのバンドであり、だから最後まで、グラウンドは最良のコンデションに保ち続けたかったからではなかろうか。

さてここからは、チェッカ−ズの功績について。まず言えるのは、[コンセプチュアルな登場の仕方をしたのに、その後、セルフ・プロデュースでも成功できる実例を作ったこと]だ。この件に関しては既に書いた。

[バンドの主役は“全員”であることを示せた]ことも功績だろう。特に彼らのように、ボーカル担当とインスト(演奏)担当で構成されている場合、ついついインストの面々が“バック・バンド”という見え方になってしまうことが多い。ところがチェッカーズの場合、リズム隊も非常に健康的に自己顕示欲を発揮していた。

今でも痛快極まりないのが“サニー徳永とジ・アブラーズ”というヤツである(笑)。そう。後ろの連中が前の連中に対して謀反を企てたのだ(もちろんジョークで)。でも真面目な話、例えば徳永は、非常に演奏でも目立ってた。ただ、一般の人達というのは、やはりいつも、“歌ってる人”に目がいくわけで…。バンドをやると、永遠に背負うことになるジレンマに対して、こんなふうに本音をぶつけた人達は彼らが初めてだった。

さて、これはバイオグラフィに掲載されていることだが、[ライブ・プロデュース力に長けていた]のは言うまでもない。日本で初めて円形ステ−ジでのライブをやったのは彼らだそうだ。1987年11月の「大阪城ホール」には、ぐるりと360度のお客さんがいたのだ。いまでも円形ステージ(センター・ステージ)というのは、アーティストがアリーナ・クラスとなり、お客さんと距離を感じた時、自然に発想されるものだけど、先駆者が彼らだった(既存の施設での360度のお客さん、ということなら、例えば82年。ARBが後楽園ホールのボクシングのリングをライヴを行ったりもしていたが…)。

もうひとつ、バイオグラフィにはこんな記述も。1991年のことだ。「冬のコンサートでは、メンバーも観客も白い服を着てくるという『WHITE PARTY』を開催し、武道館中が真っ白に染まった」。確かこの催しは、一般のニュースでも話題となった記憶が。しかも白だったら、学校の制服の時のシャツとか、タンスに眠っていたものもファンは活用できただろう。現在でも、グッズのTシャツで場内が一色に、みたいな光景は見られるが、思い思いに白い服を、という、このアイデアは温もりが違う。

いろいろ書いて来たが、最後にこのことを書いてチェッカーズを終わりたい。実に“反・バンド的”なことかもしれない。今回、改めて心の底から書きたくなったのは、[藤井フミヤは若い頃から、不世出なほど、ウルトラ級に、歌が上手かった!]ということだ。え? 最後にそれなの? そう言われそうだが…。

文 / 小貫信昭

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