黒選!メディアコンテンツ研究家・黒川文雄がテーマで選ぶ 3+1  vol. 28

Column

Nintendo Labo だけじゃない!任天堂が挑戦し続ける「遊びの革新」の歴史

Nintendo Labo だけじゃない!任天堂が挑戦し続ける「遊びの革新」の歴史

2017年は、3月3日発売のNintendo Switch(ニンテンドースイッチ)から始まり、怒涛の大作ソフトラッシュで締めくくられた一年でした。

エンタテインメント産業では、VR元年、eスポーツ元年などと様々に喧伝されましたが、振り返ってみれば任天堂が『スプラトゥーン』の如くエンタテインメントシーンを塗り替えた一年だったように感じます。これまでのWiiUソフト不足を一気に解消したかのような一年で、年の瀬には多くのユーザーに「任天堂のゲームが多すぎて遊ぶ時間が無い・・・」とまで言わしめました。

2018年も任天堂の勢いは衰えそうにありません。

1月11日に公開された『Nintendo Direct mini』と題された新作発表は、Nintendo Switch対応ソフトを筆頭に、『すばらしきこのせかい-Final Remix-』『星のカービィ スターアライズ』『ゼルダ無双 ハイラルオールスターズ DX』『Stardew Valley』『マリオテニス エース』『イースⅧ –Lacrimosa of DANA-』『SNK ヒロインズ Tag Team Frenzy』『アケアカNEO GEO 龍虎の拳2』『ドンキーコング トロピカルフリーズ』『DARK SOULS REMASTERED』など多数の作品が紹介され、これがミニ向けのソフトとは思えないほどのボリュームでした。

しかし、このラインナップ紹介、まだ2018年前半の紹介なのです…。

そして、1月18日AM7:00より「新しいあそび」を提案するという気になるホームページが登場し、朝からおもちゃ箱をひっくり返したかのような賑わいだったのが『Nintendo Labo (ニンテンドーラボ)』の公開です。

Nintendo Laboは、Nintendo Switchを使った革新的な遊びの提案といえますが、任天堂はこれまでにも実に様々な「遊びの革新」を提案してきました。今回の黒選では、その任天堂の知られざる歴史を振り返りたいと思います。

娯楽とおもちゃの王道を常に独自路線で歩み更新し続ける任天堂の姿と、その成功に隠された伝説的挑戦から、経営ビジョンまで、深く掘り下げていきます。

ではどうぞ!

創業からゲームウォッチ、ファミコンの成功までの道

任天堂の創業は1889年(明治22年)に遡ります。

・・・ですが、その前に・・・。

創業者の山内房治郎氏は1885年に京都で石灰問屋「灰岩」を継ぐことになります。屋号は後に「灰孝本店」と改められます。
石灰とはセメントのことで、この時期琵琶湖疎水の工事に土木建築を請け負って、建築建材、特に大量のセメントを納入した所から、山内房治郎氏の本格的な商売が始まったようです。

(参考資料:)
灰孝本店と任天堂の基礎を築いた山内房治郎(山内一正さん)
https://meiji150.kyoto/feature/haiko-nintendo-origin/

灰孝本店は、133年経った今も京都で老舗の生コンクリート業者として存続しています。

そんな山内房治郎氏が石灰とは別に目を付けたのが「花札」という商品でした。
1889年(明治22年)「任天堂」の前進である「任天堂骨牌」の誕生です。石灰問屋から異業種への参入や多角化経営へのチャレンジ精神は、すでに創業者の代から始まっていたと言えるでしょう。

花札販売はたばこ屋の流通ルートを押さえ成功し、そして1902年(明治35年)にはトランプの製造を開始します。
1949年、山内溥氏(山内房治郎氏の曾孫)が22歳で社長に就任。1953年に国内でプラスチック製トランプの製造・量産を開始、1959年にはディズニーキャラクターを使ったトランプの販売で人気に火が付きます。
その後、社名変更や組織変更などを経て、1963年に現在の「任天堂株式会社」となります。

トランプで得た利益により、任天堂は新たな遊びを提案する企業へと変わります。
1970年には光線銃シリーズを販売。当時としては高価なおもちゃだったため、売り上げが伸び悩むことになります。しかし、この技術は後のファミコンでも登場し、「ワイルドガンマン」など対応ソフトが発売される礎となりました。

「枯れた技術の水平思考」という名言を残し、後にゲームボーイなどを手掛けた横井軍平氏によるおもちゃ、1966年「ウルトラハンド」、1968年「ウルトラマシン」、1971年「ウルトラスコープ」が大ヒットします。
「ウルトラハンド」はパンタグラフ式のマジックハンドで、これが140万個も売れる大ヒットを記録しました。ちなみに「ウルトラハンド」は近所の同級生も持っていました。
「ウルトラマシン」はピンポン玉を自動で投げる仕組みで、それをバットで打ち返すものでした。
「ウルトラスコープ」はスパイ気分が味わえる潜望鏡と双眼鏡の組み合わさったものです。

1969年には「ラブテスター」という子供も大人もドキドキしながら使えるおもちゃアイテムを販売してヒットします。「ラブテスター」はテレビコマーシャルも打っており、当時の私は小学生でしたが、色々と妄想してしまった恥ずかしい少年期の青い記憶として残っています。

この頃、次第に任天堂のおもちゃはヒット商品が少なくなり、多角経営も重荷となって経営の危機に陥ります。そして、新たな娯楽産業へ舵を切ります。
それが1977年発売の「カラーテレビゲーム15」です。LSIを使った家庭用テレビゲーム機を三菱電機と共同で開発して販売しました。

そして1980年には横井軍平氏が開発した「ゲーム&ウォッチ」を発売します。どこでも遊べて、時計機能も付いたゲーム機は大ヒット。会社存続の危機の要因だった70億円もの負債を返す原動力となりました。

同年には、NOA(ニンテンドーオブアメリカ)を設立。
翌1981年にはアーケードゲームにも進出し、『ドンキーコング』をリリースし、1982年にはアメリカ・欧州でもリリースされました。この『ドンキーコング』はアメリカで売れ残った基盤をうまく活用する苦肉の策だったという逸話もありますが、今回はそこまでディープな部分は触れないでおきましょう。

1983年、ついにカートリッジ交換方式を採用した「ファミリーコンピュータ」が発売され大ヒットを記録します。
ここから任天堂の快進撃が始まり、サードパーティ制の導入、初心会という問屋組織の構築、米国でNES(ニンテンドーエンターテインメントシステム=ファミリーコンピュータ)の販売など、世界のゲームメーカー「Nintendo」へ変革していくのです。

(参考資料:http://wiki.mobile-gb.com/index.php?title=山内任天堂)
(参考資料:https://allabout.co.jp/gm/gc/215555/)
(参考資料:http://ch.nicovideo.jp/19-885/blomaga/ar172369)
(参考資料:http://wiki.mobile-gb.com/index.php?title=光線銃カスタムシリーズ)
(参考資料:http://dic.nicovideo.jp/a/任天堂アーケードゲーム)
(参考資料:http://blog.beforemario.com/p/list-of-toys-and-games.html)

1 2 3 4 >
vol.27
vol.28
vol.29