佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 34

Column

ビートルズの武道館公演を実現させたビジネスマンたちと、50年の時を経て繰り返された「東芝の悲劇」

ビートルズの武道館公演を実現させたビジネスマンたちと、50年の時を経て繰り返された「東芝の悲劇」

2015年5月に東芝の不正会計が発覚して以来、日本の高度経済成長を支えた歴史ある大企業は、潤沢な資産を失って凋落したまま、いまもなお迷走を続けている。

どうしてこのような悲劇が起こったのか?!

それが経営者による”人災”だったことの一部始終を描いたのが大鹿靖明の『東芝の悲劇』(幻冬舎)だった。そこには名門企業が崩壊にいたるまでの事実が、5代にわたる経営者の野心や行動、権力欲などとともに克明に記されていた。

暗澹たる気持ちになって読み終えた後で思ったのは、人と歴史に学ぶことの大切さである。

彼らはいずれも大学を出て東芝に入社したサラリーマンであり、ライバルを追い抜いて出世レースに勝ち残って社長にまで昇りつめた、ビジネスマンの鑑のはずだった。

しかし、彼らは東芝という企業をつくってきた人たちの歴史に学ぶことなく、温和で従順な社員によって培われてきた会社の美風を損ねて、破壊し尽くした。

だが、20万人もの社員を巻き込んで引き起こされた未曾有ともいえる“人災”は、すでに50年以上も前から危険だということを、指摘されていたのである。

それが1965年に発売された経営評論家の三鬼陽之助による『東芝の悲劇』である。ぼくはエンタメステーションで2016年10月27日から翌年5月まで連載したノンフィクションのなかで、その本を取り上げている。

三鬼は、戦後の混乱期に労働争議で泥沼に陥り、倒産やむなしといわれていた名門の東芝を再建した4代目社長の石坂泰三と、5代目の岩下社長以下、東芝生え抜きのサラリーマン重役たちの確執にこそ、巨大企業ならでは”病根”があると断定していた。

〈最初に起こった「東芝の悲劇」〉

第一生命の社長だった石坂泰三は終戦後まもなく、定年退職した後に日本を占領した進駐軍によって公職追放の身となった。

だが1948(昭和23)年に62歳の高齢でありながら、あえて火中の栗を拾う思いで、倒産寸前の状態だった東芝再建を受諾した。
そして労使紛争をはじめとする山積みの難題を見事に解決し、業績を大きく伸長させることで、財界人として認められていく。

1956(昭和28)年には、社長の座を生え抜きの岩下副社長に譲ったが、その後も会長として睨みをきかせながら、経団連の会長を6期12年も務めた。その間には政界と官界とも堂々とわたりあい、日本経済の舵取りを行ったことから、”財界総理”とまで謳われた。

しかし、岩下社長と大谷副社長の時代になってしばらくして、東芝では派閥による側近政治が始まった。

当時は白黒テレビとトランジスタラジオが普及し始めた成長期で、3種の神器ともてはやされた洗濯機や冷蔵庫も商品化された。そこにカラーテレビが登場したこともあって、東芝は家電メーカーとして一気に業績を伸ばしていった。

品質の良い新製品を作って出しさえすれば、だまっていても売れる時代でもあった。さらに石坂が合併などを進めた重電部門も順調だったので、日本経済の高度成長期と相まって、会社はみるみる大きく成長していった。

だが売上が巨大になるにしたがって、重電部門と家電部門の抗争も発生し、経営陣の内紛めいたことなども生じている。
そこからが大企業病の怖いところで、社業が順調で資金に余裕があることから、機を逸した設備投資や甘い販売政策、数字のごまかし、損失の先送りなどが大目に見られて、それが隠蔽体質につながっていったのだ。

そうしたことに気づいた石坂は危機感をつのらせて、岩下から実権を奪って会長に棚上げし、石川島播磨重工業の会長だった土光敏夫を社長に迎え入れて、再建を頼むことにした。
このときに強引に首をすげ替えた判断の迅速さによって、東芝は土光のもとに結集した。

質素な生活で倹約家として知られていた土光社長は、岩下が作った豪華なバス・トイレ付きの社長室や、シェフ付きの調理室などを「こんなものいらん」といって取り壊した。豪華だった重役室も減らして大部屋に入れて、「お茶は自分で入れろ」と自動給茶機を導入した。

そうすることで秘書たちの数を大幅に削減し、華美でぜいたくに慣れたエリート体質を一掃することに努めた。
こうして東芝は社長交代からわずか1年あまりで、V字回復を成しとげて危機を脱出することが出来たのである。

しかし、三鬼はエリート・サラリーマンが特権意識によって、現実が見えなくなるところに怖さがあると書いて、その根幹がなくならない限り、日本では同じ悲劇がこの先に繰り返されるであろうと述べていた。

そしてそれからちょうど50年後に、最悪の形で露呈したのである。

〈少年少女たちの夢を実現するために〉

明治生まれの教養人だった石坂泰三は古典の哲学や思想を大切にし、自分自身の道をコツコツ歩いてきた人の年輪こそ美しいと考える人物だった。
だから吉田首相から大蔵大臣を打診されたときも、日銀の総裁になってほしいと頼まれたときも、それらの仕事に関しては自分からやりたい人がたくさんいるはずだと固辞した。

その一方で、天下の難事には身を挺してでも人の役に立つべきだとして、開催時には80歳を超えるにもかかわらず、誰も引受け手がいなかった大阪万博の会長に就いて、予想をはるかに上回る成功に導いている。

石坂が考える日本経済の基本は公平な自由競争であり、社業を拡大して豊かになることであった。それと同時に個人が経済秩序や道義を守ること、企業モラルを確立することを、社内はもちろん社外にも強く求めた。

したがって自らを律することには厳しかったし、社内でも社外でも徒党を組んだりすることはなかった。一見するととっつきにくい老人だが、懐が深くて人間味があった。

とくに石坂が子どもや少年たちを見る目はやさしく、笑うと恵比寿様の顔になった。

(写真左 経団連会長・石坂泰三 右 東芝音楽工業専務取締役・石坂範一郎)

土光が大胆な社内改革に着手していた1965年から66年にかけて、石坂はあたかも不良の元凶のように思われていたイギリスのバンド、ザ・ビートルズが日本でコンサートを実現させるという計画を陰ながらサポートしていた。

今から思えば1966年のビートルズ来日公演は、彼らがライブ活動を停止する直前のことであり、まさに最初で最後のチャンスだった。

東芝音楽工業社長の実質的な創業者だった石坂範一郎専務は、ビートルズの招聘計画を誰にも知られることなく、1年以上も前から秘密裏で準備を進めてきた。
それは目先のビジネスのためという以上に、ビートルズを心から応援してきた日本の少年少女たちや、若者たちの純粋な気持ちに応えて夢を叶えるのが目的であった。

しかし総理大臣の佐藤栄作が「武道館で公演するのは考え物だ」と発言し、連日抗議行動を起こしていた右翼からは暗殺予告が出されるなど、武道館公演の前夜は騒然たる状況となった。

ビートルズが日本にやってきたのは、1966年6月29日未明のことである。それから5日間の滞在でコンサートは計5回行われて、無事に終了したビートルズは予定通りに去っていった。

やがてビートルズに憧れていた少年少女たちや、彼らの音楽に強い影響を受けた若者たちのなかから、それまでにはなかった新しい音楽の波が起こって、バンドや歌手、作曲家や作詞家、シンガー・ソングライターたちが次々に誕生した。

それにともなって、日本の音楽シーンは新しい時代を迎えていく。
音楽産業は飛躍的に成長し、東芝音楽工業は1973年には外資と組んで東芝EMIとなり、外資と組んで発足していたCBSソニーとともに、日本を代表するレコード会社になった。

石坂泰三は1975年3月6日、89歳で永眠し、葬儀は日本武道館で行われた。

東芝音楽工業を定年で退職した石坂範一郎は、1973年から日本著作権協会常任理事として後進の指導に努めた。 最後に手がけた仕事は『レコードの歴史~エディソンからビートルズまで』の翻訳で、音楽文化の基礎教養の書として残そうとしたものだ。 そして翻訳を終えた直後の1980年4月23日、出版を待たずに74歳で静かに永眠した。

ぼくがこの度上梓する『ウェルカム!ビートルズ 1966年の武道館公演を実現させたビジネスマンたち』という単行本は、来日公演の実現に向けて動き出した石坂範一郎を中心にした物語である。


著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。
「マイ・ラスト・ソング」では構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)。

美輪明宏と「ヨイトマケの唄」 天才たちはいかにして出会ったのか

著者:佐藤剛
出版社:文芸春秋

三島由紀夫、中村八大、寺山修司・・・・・・

時代を彩った多くの才能との邂逅、稀代の表現者となった美輪明宏の歌と音楽に迫る、傑作ノンフィクション!

「自分以外の人によって、己れの人生を克明に調べ上げ語られると、そこには又、異なる人物像が現出する。歴史に残る天才達によって彩色された果報な私の人生絵巻が、愛満載に描かれていて、今更ながら有難さが身に沁みる」――美輪明宏

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