若手ライターが選ぶ!買ってでも聴くべき本当の名曲  vol. 10

Column

ガーリー・カルチャーの神様、ソフィア・コッポラの映画を音楽で深読みする アルバム4選

ガーリー・カルチャーの神様、ソフィア・コッポラの映画を音楽で深読みする アルバム4選

多種多様な配信サービスの乱立、ジャンルの限りない細分化、アナログレコードやハイレゾ音源といった「音質」にこだわる聴き方の広まり――
「どのように」音楽を聴くかということと「どんな」音楽を聴くかということが複雑に絡まりあう現代において、音楽作品を「買って聴く」ということはどのような体験なのか。

今回、エンタメステーションでは、新進気鋭の若手ライター12人に「買ってでも聴くべき本当の名曲」というテーマで作品のセレクトを依頼した。
最前線の音楽シーンを見つめる12人は、それぞれどのような切り口でこの課題に応えてくれたのか。ぜひ紹介されている音源を実際に「買って」「聴いて」その違いを楽しんでみてほしい。


ソフィア・コッポラと「音楽」

新作『The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ』が公開されたのを機に、ソフィア・コッポラのフィルモグラフィーをすべておさらいしてみたのだが、やはり「音楽」と切り離して考えることは不可能な作家というか、「音楽」を絡めて語らなければ何の意味もなくなってしまう作家だなと思えた。
というのは新作が、彼女の旧友であるフェニックスというバンドに映画音楽を担当させながら、いつもの煌びやかなポップ・センスは封印させて、いかにも「劇伴然」としたダーク・アンビエント系のサウンドを作らせていたために思ったことでもある。

1971年生まれで、わが国だと安野モヨコや倉田真由美と同い年であるソフィアも、次第に「成熟」してきたということか。とはいえ、ソフィアの「未熟さ」にこそ、パンクなアート表現があったはずだ。
『マリー・アントワネット』(2006年)の冒頭、キルスティン・ダンストがケーキを指につけて、ふしだらに舐め上げるところでギャング・オブ・フォーの「ナチュラルズ・ノット・イン・イット」が流れるあのチグハグな音楽の使い方に、僕は圧倒的に痺れたし、最高に新しい感性だと思った。
そういった「新しいもの」を何度も見せてくれた彼女の最高傑作って何なのだろう、と改めて考えてもみた。

Gang Of Four
「Natural’s Not In It」

これは独断と偏見であるが――といってそれなりに不遜な自信をもって言うのだが――『ロスト・イン・トランスレーション』(2003年)か『SOMEWHERE』(2010年)が彼女の最高傑作ではないだろうか。
この二作だけが、ガーリー・カルチャーの文脈における評価に留まらない「普遍性」に到達している。人間の「孤独な魂」に痛々しいほどしっかり向き合う態度が作品に投影され、ヴェンダースの『パリ、テキサス』のような次元を開いている瞬間さえある。
今回は、映像と音響の関係がより高度なレベルに達していた『ロスト・イン・トランスレーション』の方に絞って書いてみたい。

最高傑作『ロスト・イン・トランスレーション』とは

『Lost In Translation – Original Soundtrack』

簡単な内容紹介をすると、大学を卒業したばかりのシャーロット(スカーレット・ヨハンソン)は、結婚して二年目の写真家の夫に同行して東京のホテルにやって来たが、仕事ばかりしている彼に放置されている。CM撮影で同じホテルにやって来たハリウッド・スターのボブ・ハリス(ビル・マーレイ)もまた、結婚生活25年を超える「中年の危機」を迎えている。
そんな悩み多き両者が異国の地で出会い、プラトニックな逢瀬を重ね、徐々に友情と愛情の狭間にある感情で結ばれていくさまを、ハイパーモダンに光り輝くTOKYOを舞台に描き切った得難き一作だ。

見所も多く、特にボブがカラオケでロキシー・ミュージックの「モア・ザン・ディス」を唄うシーンはとても有名になった(サントラにシークレット・トラックとして入っている)。
とはいえ『ロスト・イン・トランスレーション』の僕の記憶は、痛切な響きをもってラストで流れる、ジーザス・アンド・メリー・チェインの名曲「ジャスト・ライク・ハニー」に結びついていた。TOKYOに漂う孤独なエトランゼ(異邦人)である男女二人の、孤独な魂の交流録。その二人の魂を最終的に通わせるために要請された音楽が、「シューゲイザー」の祖型ともいえるこの曲だったことは、より深めていい点だろう。間違っても単なる「雰囲気づくり」の問題には還元されないはずだ。

「ネオ・ブルース」としてのシューゲイザー

ここで「シューゲイザー」とは何かという基礎工事をしておくと、エフェクトで極度に歪められた轟音ノイズに包まれた甘いサイケデリックなメロディーの恍惚、と一応定義できるだろう。
そのゴッドファーザー的な存在であるジーザス・アンド・メリー・チェイン(以下JAMC)とマイ・ブラッディ・ヴァレンタイン(以下MBV)の楽曲が本作では使われていて、MBVのギタリストであるケヴィン・シールズが音楽担当であることが、本作の音楽使用の基本方針を物語っている。
とはいえこの映画一つを丸ごと飲み込むほどの存在感ある使われ方をしたのはJAMCの「ジャスト・ライク・ハニー」の方だったのは確かで、今回書く内容はこちら中心となる。

ソフィアが当時のパートナーのスパイク・ジョーンズに、TOKYOで置き去りにされた孤独感や喪失体験から紡ぎ出されたのが本作ということもあってだろうか、とりわけ「ジャスト・ライク・ハニー」は一種の「ブルース」のように響く。
少し突拍子もない言い方かもしれないが、JAMCのギター・ヴォーカルを務めるジム・リードは、二枚目のアルバム『ダークランズ』(1984年)リリース時のピーター・バラカンとのインタヴューで、フィードバックの轟音サウンドに彩られた彼らのフリーキー・サウンドを、奇妙にも「ブルース」だと表現したことがある。
いくらギターを練習したところで、内から湧き上がってくる「フィーリング」を捉えられなければ「そんな曲意味ないね」とさえ言った。この発言が一つ道標になるだろう。

The Jesus And Mary Chain
『Darklands』

ラストに鳴り響く「ジャスト・ライク・ハニー」は、孤独に打ち震える二人の魂と共振するようなフィードバック・ギターで多層的な「ウォール・オブ・サウンド」(フィル・スペクター)を構築しつつ、その硬質な壁の中に隠しこまれた柔らかなブルースで僕たちを誘惑する――「まるでハチミツのように」。
『マリー・アントワネット』で見せた「不条理にキラキラのポストモダン」(北村紗衣)も捨てがたい彼女の魅力ではあるのだが、結局魂の奥底に重く「垂直的」に降下するブルース・インパルスこそ、人々の記憶に残るのではないだろうか。

バンドによる音の違いを映像に落とし込む

「垂直的」と、これは意識して書いた。というのもここで「垂直」と「水平」という軸をとって、コッポラ映画に現れるJAMCとその他シューゲイザーのサウンドの違いを映像のレベルで考えてみるのも面白いからだ。
『マリー・アントワネット』で使われるレディオ・デプトの「プリング・アワ・ウェイト」といったニューゲイザー・サウンドは、もはやエレクトロニカに接近していて軽快である。だからソフィアは馬車など「水平移動」のシーンでそれらの楽曲を使って、爽やかなスピード感を表現する。

THE RADIO DEPT.
「Pulling our weight」

アルバム『Passive aggressive: Singles 2002-2010』収録

あるいは『ロスト・イン・トランスレーション』で流れるMBVの「サムタイムズ」といった楽曲も、カラオケ後の、夜の車移動シーンで使われていた。
よく「浮遊感」と表現される「シューゲイザー」なるジャンル・ミュージックは、基本的にふわふわと何処か行きがちで、「水平移動」のベクトルを映像面に孕ませるものなのかもしれない。

しかし逆に「JAMCはシューゲイザーにしてシューゲイザーにあらず」という直観をソフィアがもっていたことが、映像に対する音楽の使い方で窺い知れる。「ジャスト・ライク・ハニー」は、別れの時を迎えたボブとシャーロットが東京の街中で抱き合って、「垂直」に佇立する終盤のシーンの直後に流れる。そこからは車に乗ったボブ・ハリスの視点を通じて、その他のシーン同様にTOKYOのビルや看板が水平移動しながら映される。
とはいえ、それまで映画に現れた虚ろな窓外の風景とシューゲイザー的な残響音の組合せと違って、「ジャスト・ライク・ハニー」は、僕らを今ある風景から引き離し、直前の二人の「垂直的」なキスシーンの残像へとひたすら送り返す。だからこの曲は、不思議と移動のベクトルを持たずスタティックだ。ブルースのように、深淵に向かって「垂直」に下降するものとして、この曲は人を一か所に固定させるような力としてイメージされている。
「僕らの音楽はブルースだ」と豪語したJAMCとその他シューゲイザーとの根源的な音の違いを「垂直」と「水平」としてソフィアは聴き分け、それが映像のレベルに落とし込まれている。

音楽の二層構造がなぞる、都市の二層構造

ここでさらに、音楽と都市の関係に目を向けて、映画の深層構造に分け入ってみよう。
「ジャスト・ライク・ハニー」の持つノイズ(表層)/ブルース(深層)の二重構造は、実のところTOKYO(表層)/東京(深層)という都市の二重構造をなぞっている。やかましいネオンサインやビル群があふれた「ノイズ」に上っ面は覆われながらも、一枚剥いでしまえばそのディープ・ストラクチャーには都市の「古層」が隠されている。
人間も同じで、いくらポップで煌びやかでいようと、その奥には「魂」が眠っている。
都市と人間の「深み」へ下降する手段として、ブルースが、つまり「ジャスト・ライク・ハニー」が選ばれたように思う。

この映画が描いているのは江戸の「浮世(Floating World)」の現代版だと喝破した海外の研究者がいたが、その直観は正しいだろう。ただ付け加えるなら、「浮世」は「憂世」でもあるということだろうか。快楽的にピカピカ光るガジェットに飾り立てられた「浮世」の象徴たるTOKYOは、それをネガポジ反転させた「憂世」にも直結しているのだ。
一聴して「浮遊感」あるシューゲイザー・サウンドをTOKYOのサウンド・トラックに選び取ったソフィアの耳には、実は「浮世」の裏返しとしての「憂世(ブルース・ワールド)」の音まで透徹して聴こえていたはずだ。

東京/TOKYOに鳴り響く「ネオ・ブルース」――それはスコットランドの辺境から送り届けられた、ハチミツのような甘美なメロディーとセットになった、轟音のギターノイズであった。
ソフィア・コッポラが自らの悲しい実体験に基づいて「発明」したこの音と映像のコンビネーションによるブルース表現は、15年近く経ったいまもなお鮮烈であり続けている。

執筆者プロフィール:後藤 護(ごとう・まもる)

1988年生まれ。音楽・映画ライター、翻訳家。UKパンク&ニューウェーヴ、USヒップホップなどを特に愛聴していましたが、最近では「音と映像」の観点からMVと映画音楽に関心がシフトしています。音楽系の論考に、「「スペクタクル」としての畸形――及びセックス・ピストルズの闘争/逃走術」(『見世物』第6号、新宿書房)、「レアグルーヴ、平岡正明――「ジャズ的」から「ヒップホップ的」へ」(『ヱクリヲ7』特集「音楽批評のオルタナティヴ」所収)などがある。80年代音楽を「いま」と繋げるサイトRe:minderにコラム連載中。

vol.9
vol.10
vol.11