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吉田修一の代表作『悪人』の舞台化。中村蒼と美波が二人芝居で紡ぐ、切ない愛の形

吉田修一の代表作『悪人』の舞台化。中村蒼と美波が二人芝居で紡ぐ、切ない愛の形

中村 蒼と美波の二人芝居『悪人』が、3月29日にシアタートラムで開幕した。本公演の原作は芥川賞作家・吉田修一の代表作『悪人』。また、210万部を超えるこのベストセラー小説を原作にした映画は妻夫木 聡、深津絵里主演で2010年に映画化され、殺人を犯してしまった青年・祐一と、彼に殺人を打ち明けられながら一緒に逃亡することを選んだ女・光代の刹那な愛の逃避行の行方と結末が大きな反響を呼んだ。ベストセラー小説が映画化され、その後に舞台化もされるという流れは決して珍しいことではないが、本公演は台本・演出を務めた合津直枝が「光代をもう少しだけ救ってやりたい」「光代にももう少しだけ幸福感をもたらしてあげられないだろうか」という想いで書き上げた上演台本に原作者の吉田が共感し、舞台化が実現した。

取材・文 / 松浦靖恵 写真 / 関信行

2人が生きた証を、光代と祐一しかいない二人芝居で描ききりたいと思ったのだろう

佐賀の紳士服量販店で働く光代(美波)は、職場と自宅アパートを往復するだけの日々を過ごしていた。光代の言葉を借りれば「録画した映像を繰り返し再生するだけのような毎日」は、孤独感に押しつぶされそうな日々だったが、ある日、彼女は出会い系サイトで知り合った男・祐一(中村 蒼)にメールを送る。誰でもいいわけじゃないけれど、誰かと繋がりたい。そんな想いでメールを送った相手がどんな人間か知らなくても、出会い系サイトで繋がった男であっても、他愛のないメールのやりとりをするだけで、光代にとって祐一は自分のことを受け入れてくれる男になった。

祐一がどうしても話せないけれど、誰かに聞いて欲しいとも願っていた”秘密”を初対面の光代に打ち明けられたのは、彼女も自分と同じように本当の孤独を知っているとすぐに理解できたからだろう。そして2人が初めて会ったその日に肉体関係を持ったのは、決して肉体だけを欲したのではなく、互いに自分という人間、その存在を激しく求めていたからだと思う。巷を騒がせている殺人事件の犯人だと彼女に打ち明けた祐一は自首をしようとするが、光代は「あたしだけを置いていかんで」「一緒に逃げて」と、2人で逃避行を始める──。

舞台上には中央に大きな平箱がひとつ、その左右には小さな箱がふたつ置かれていた。その箱に当たる照明の色合いや音響効果によって、そこがラブホテルであることや車内であることなど、逃亡中の2人が今いる場所や場面の変化を共有することができた。

二人芝居は、当然ながら2人の役者によるセリフのやりとりで物語を進行しなければならない。光代と祐一が交わす会話以外にも、状況説明などもモノローグで語られており、中村と美波が抱えたセリフ量はとてつもなく膨大だったが、二人芝居に初挑戦した中村は、感情をあまり表に出さない寡黙な祐一の心境の変化を静かな時間の流れのなかで丁寧に紡ぎ続け、美波は逃亡という世の中的に間違った手段であっても祐一を手放したくない、一緒にいたいという想いを頑なに持ち続けた光代を九州弁のセリフに乗せて熱演した。

簡略化された舞台の奥には長さが異なる何本もの材木と材木がカスガイで接続された無機質な色を持ったオブジェがそびえ立っていた。そのオブジェは灯台の見える場所で母に捨てられた祐一の過去の象徴であったり、2人が逃亡先で見た灯台に見立てられたりもしたが、カスガイで繋がったそのオブジェは、まるで人と人とを繋ぎとめている象徴のようにも見えた。

幼い祐一に母が最後に言った「ここで待っていれば戻ってくる」という言葉は、その言葉を信じた祐一にとって母と繋がるためのカスガイだったはずだ。そんな彼の大切なカスガイは、殺人のきっかけとなる被害者の悪意に満ちた「誰もあんたの言うことなんか信じない」という言葉によってはずされてしまう。

光代にとってのカスガイのひとつは、国道だったのだろう。国道沿いの小中高に通い、就職先も国道沿いだった光代にとって、自分の狭い世界を作った国道は渡りたくても渡れない境界線や囲いのような存在だったはずだ。そして、狭い世界から抜け出したくても抜け出せなかった光代が、そのカスガイをはずすことができたのは、孤独の中で出会った祐一と同じ気持ちや秘密を共有することができたからだろう。誰かにとっては悪人でも、光代にとっては愛する人。祐一というカスガイ。祐一にとっても自分の言葉を信じてくれた光代は大切なカスガイだったに違いない。

物語の後半、逃亡者の祐一に連れまわされた加害者として保護される光代と逮捕される祐一には、“逃避行”というカスガイがはずされて離れ離れになるという別れが待っている。けれど、2人が愛し合った日々、逃げ回っていた日々を、心のどこかで懐かしく、愛おしく思ってしまう光代は、このあとどんな人生を送ることになっても、抱き合った祐一の体のぬくもりや自分にだけ見せてくれた笑顔を、誰にもはずすことができないカスガイにして生きていくのかもしれない。

緊張感が漂う中村と美波の演技を見ていたとき、この2人の俳優の名前が、彼らが演じている役に重なったような感覚を覚えた。心の中にゆらゆらと揺れる“蒼い炎”を隠し持った祐一を中村“蒼”が、逃亡先で初日の出に照らされた“美しい波”を祐一と見つめた光代を“美波”が演じたのは、決して偶然ではなかったのかもしれない。きっと中村と美波は『悪人』という物語に、祐一と光代に、導かれたのだ。

2016年より舞台『乳房』(内野聖陽×波瑠)や『檀』(中井貴一×宮本信子)で俳優二人による新しい舞台シリーズの企画・演出をスタートさせている合津は、本公演のパンフレットによれば、『悪人』を「二人舞台でやりたい!」と突然思ったそうだが、二人芝居が成立する物語はそこら中にあるものではないと十分にわかっているはずだ。『悪人』という物語の中にいる光代と祐一。決して埋まることがなかった心の隙間を互いに埋め合うように寄り添い、たとえつかの間ではあったとしても、愛する人のために生きた日々があったことを、どんな状況に陥っても死ではなく生きることを選んだ2人がいたのだということ──2人が生きた証を、光代と祐一しかいない二人芝居で描ききりたいと思ったのだろう。

それにしても、「嘘はついちゃいけんよ」と光代に何度も言われていた祐一が最後についた優しい嘘がなんと切なかったことか……。原作小説や映画の中にいた光代が、ほんの少しでも幸福感を感じることができた場所と時間が、この二人芝居の中にはあった。そして、中村 蒼と美波が祐一と光代を心から愛し、セリフを大切に紡ぎながら演じきった刹那な愛の形に、胸の奥がぎゅっと締め付けられた舞台『悪人』だった。

二人芝居『悪人』

2018年3月29日(木)~4月8日(日)シアタートラム

STORY
佐賀の紳士服量販店に勤める女・光代(美波)は、携帯サイトで知り合った、長崎の港町に住む解体業の男・祐一(中村 蒼)と恋に落ちる。2人は、つかの間、孤独な魂を寄せ合う。ところが、祐一から殺人を打ち明けられ、2人の逃避行が始まる。そして逃亡の果て、逮捕された祐一は、「逃亡のために光代を利用しただけ」と語るのだが……。
果たして、2人の愛は偽りだったのか? 祐一は悪人だったのか?

原作:吉田修一(「悪人」朝日文庫)
企画・台本・演出:合津直枝
出演:中村 蒼 美波

公演オフィシャルサイト

関連書籍:小説『悪人』

小説『悪人』

著者:吉田修一
出版社:朝日新聞出版