【80年代名鑑】明菜からYMOまで 80'sからの授かりもの  vol. 67

Column

尾崎豊 「シェリー」はもしや、ジョンの「マザー」なのかもしれない

尾崎豊  「シェリー」はもしや、ジョンの「マザー」なのかもしれない

1984年8月4日、日比谷野外大音楽堂で行われた「アトミック・カフェ・ミュージック・フェスティバル’84」で、尾崎は世間の関心をひく事件を起こす。この日、彼が予定してたのは4曲。その2曲目。「Scrambling Rock’n’Roll」の途中、彼は照明が設置されたタワーに、スルスルと登り始めるた

実はこういうパフォーマンス、ライブハウスでPAによじ登る、みたいなことは、お得意でもあった。でもこの日は、どうもいつもと感覚が違うと思いつつ、でも暑さも手伝って、ふわふわした気持ちのまま、大胆な行動に出てしまった。そして遂には飛び降りる。足を激痛が襲う。野外大音楽堂のタワーは高さ7メートル。下はコンクリート。あまりにも無謀なことだった。

このフェスは、アメリカ政府が制作した核のプロパガンダ映像を逆手に取り、シニカルな視点で核廃絶を訴えた『アトミック・カフェ』というドキュメンタリー映画の上映運動に端を発したものだった。尾崎は当時のインタビューで、イベントの主旨に「興味があった」と語っている。浜田省吾も出ているので、もしかしたら共通するスタッフからの勧めや薦めもあったかもしれない。

9月に予定されていたホール・ツア−は、怪我により延期される。でも悲観することなく、“神様から貰った時間”として、次なる創作へ活かすことになる。入院中も読書なりに励み、また、曲の構想も練っていた。確かこの期間にも彼に会っているハズなのだが、照れくさそうな表情をしていたのを覚えている。“十代の反抗”ということで、尾崎の歌の世界観にサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を重ね合わす人もいるだろうが、実は彼がこの本を読んだのは、怪我をして活動できなかった時期だ。

尾崎のもとにファンからの手紙が届くが、内容は二分していた。もちろん、彼の躰を気遣い、心配する声が多かった。しかし、さらに過激なことをけしかけるような、そんな文面もあった。これは彼を悩ますこととなる。明らかに、この事件は“十代の反抗の旗手”たる尾崎の“虚像”を生むことにもなった。コイツはタチが悪かった。本人があずかり知らぬところで、どんどん大きくなっていったからだ。

12月3日。いよいよツアーは秋田文化会館で初日を迎えた。実は開演前の出来事で、覚えていることがある。客席にいたら、筆者はまだ20代だったにも関わらず、観客の一人から“オジサン”と呼び止められたのだ。声を掛けてきたのは中学生の男の子。彼からは“オジサン”に見えたのだろう。私は何が言いたいのかというと、尾崎の観客は、みるみる低年齢化していたということだ。

秋田でみたステージの特徴としては、音源化されていない作品が多いということだった。彼の場合、何度もライブで歌い、その後、スタジオでレコーディングすることが多かった。つまり、歌や演奏がこなれてから記録しよう、ということである。

翌年2月までツア−は続く。その間に、先週紹介した「卒業」のスマッシュ・ヒットが生まれる。そして、満を持してリリースされたのが『回帰線』である。見事、チャートの1位を獲得する。ちなみにタイトルだが、“北回帰線”とか、そちらのイメージでつけられたのかと思ったら、むしろ“胎内回帰”の“回帰”のほうらしい。ではさっそく、改めて聴いてみよう。

日比谷での因縁の曲、「Scrambling Rock’n’Roll」でスタートする。渋谷のスクランブル交差点に佇んだ彼が、目の前の光景にインスパイアされて作ったものだが、改めて聴くと、中〜低音が充実した歌い方が快感で、尾崎のロックンロール唱法は、既に完成に達していたことが分かる。

このアルバムはロックのみならず、音楽的に多彩である。楽曲アレンジにしても、彼が主導でアイデアが出されたものであることを、彼は語っている。そして、仕上げの段階でアレンジャーの力を借りたようだ。デビュー作『十七歳の地図』では、尾崎が目指したであろうことと、アレンジャーがやりたかったことが、曲によっては別のベクトルを感じさせなくもなかったが、それは解消されている。

シンセのパッド系の音色とハーモニカを配したアレンジが印象的な「ダンスホール」は、今の耳にも違和感なく、エバーグリーンな響き方をしている。歌詞の物語性も、そのことで際立っていると思う。実際に新宿のディスコで起こった事件がモチーフ、とのことだが、あくまで着想のキッカケということであって、“事件”そのものを描いたわけではない。あまりそのことと重ね合わせ過ぎると、先入観なしに楽しめなくなるので注意が必要だ。

尾崎はそれまで他のソングライターがやらなかった試みを、いろいろやっているヒトである。この作品の画期的なところは、歌詞の後半。“あたいグレはじめたのは”からである。それまでは、ディスコにたむろする女の子の描写や、やりとりが主だった。しかし一変。ここからは女の子の独白が続くのである。身の上話である。ちょっとシャンソンのような雰囲気にもなっていく。と中島みゆき調とも言えなくない。

尾崎の声は、柔らかな囁きから始まる。喧噪溢れるダンスホールの店内のハズなのに、敢てこんな歌い方なものだから、余計、この歌がドラマチックに届いてくる。最後の最後に“孤独のダンサー”という表現があるが、もしやこれは、尾崎が高校の頃に愛聴したジャクソン・ブラウンの『孤独のランナー』をもじっての表現だったかもしれない…。

そしてやはり、『回帰線』といえばこの作品、「シェリー」だろう。またまた世間では、“シェリーって誰?”、みたいな興味が強いようだが、そこに興味が片寄ると、歌から伝わるべきことにも偏りが生じる。確かに筆者も、誰なんだろうと、そう思ったことがあった。でも、この歌を聴きつつ、ある特定の人物を思い浮かべようとすると、そこにはムリが生じるのだ。

さきほど、アルバム・タイトルの“回帰”は“胎内回帰”のイメージでつけられたと書いたが、この歌における“シェリー”は、まさに尾崎を母性で包む存在でもある。“俺をしかってくれ”“抱きしめておくれ”。これらのフレーズから、それが伝わる。その一方で、“おまえの言うとおり”と、相手の意見を認めているあたりは、同志の関係も彷彿させる。

また、この歌にはアーティストとなり、パブリック・イメージが確立されたがゆえの苦悩も色濃く、そもそも歌の冒頭、“転がり続け”“たどりついた”のが“こんなとこ”であったというあたりにも、実感がこもっている。尾崎自身が思っていたのとは違う場所。それは、“金か夢か わからない暮し”。まだ尾崎は“卒業”しきれていないのが分かる。

この歌を聴いていると、ジョン・レノンの「マザー」を想い出す部分がある。終始、“シェリー”に対して呼び掛けが続く構成ではあるけど、後半などは、もはや相手に答を求めるというより、心のなかにある、すべてのことをぶちまけることが目的化する。まるで尾崎は、自身が映る鏡に歌いかけているようでもある。ジョンが「マザー」を作ったのは、プライマル・スクリーム療法を受けた前後、という記述は、皆さんも目にしたことがあるだろうが、尾崎の「シェリー」は、まるでそのような状況で書かれたかのような聴き心地でもある。歌のなかで、こんなに“ハダカ”になってしまっている作品は、それまで無かった。

文 / 小貫信昭

その他の尾崎豊の作品はこちらへ

vol.66
vol.67
vol.68