黒川文雄のエンタメ異人伝  vol. 15

Interview

『鉄拳』原田勝弘氏(上)文武両道な少年はいかにしてナムコ社員になったのか

『鉄拳』原田勝弘氏(上)文武両道な少年はいかにしてナムコ社員になったのか

音楽、映画、ゲームなどを総称するエンタテインメントは、人類の歴史とともに生まれ、時代に愛され、変化と進化を遂げてきました。 そこには、それらを創り、育て、成熟へ導いた情熱に溢れた人々がいます。この偉人であり、異人たちにフォーカスしインタビュー形式で紹介するエンタメ異人伝。

稀代の格闘ゲーム『鉄拳』の開発プロデューサーとして知られる原田勝弘。濃いめのサングラスを常用し、一見すると近寄りがたい印象を与える。しかし、サングラスのかげに隠れて見えないその瞳は、ゲームというエンタテインメントを真摯に捉えているように思う。おそらく原田自身のエンタテインメントへのあくなき探究と敬意が彼をそのようにさせるのだろう。
今回のインタビューは、その原田勝弘を形成するもの、彼を動かすモチベーションに迫るものである。

 

インタビュー取材・文 / 黒川文雄


(メガネ姿で現れた原田氏。クリップオン型のサングラスを装着し、いつもの姿になられたところでインタビュー開始となった)

原田さん、もうちょっとワルい感じで…

やはりパブリックの場ではサングラス姿でないとマズいんですか?

原田 別にダメってことはないんですけど、ウチの大下(聡)社長が僕を見るたびに「お前、サングラスしないのか」って言うんですよ。いや、本気でおっしゃっているわけではないと思うんですけど(笑)。僕、昔はサングラスしてなかったんですよ。

そうでしたよね。

原田 海外出張に行ったとき、たまにしてたぐらいです。西海岸とかホントに眩しいんで。でも、カプコンさんとコラボすることになったときに、カプコンの方々が「原田さん、もうちょっとワルい感じで」って言ってきて。『鉄拳』はワルな人しか出てこないので、そのイメージに合わせてみたいなことが企画段階の覚書の中に書いてあったんですね。原田氏は小野(義徳)(注1)さんと出るときにはサングラスをする的な。

注1:『ストリートファイターV アーケードエディション』のエグゼクティブ・プロデューサーを務めるなど、『ストリートファイター』シリーズをはじめとする、カプコンのさまざまなタイトルを手がけてきたクリエイター。

なるほど(笑)。

格闘ゲームコミュニティ出身で、プレイヤーからゲーム開発者になった…?

原田 それで、やり始めたんですけど、そうしたら取材の人とかがサングラスをしていないと話し始めないようになっちゃって。「アレ(サングラス)は?」みたいな空気になって、サングラス装着待ち…になったりとか。以来、ファンと写真を撮るときも何をやるときも、リクエストが入るようになったので必ずサングラスをしないとってなっちゃったんですよ。

そういうわけだったんですね。原田さんはあまりプライベートなことを、お話になっていないと思うんですけど、僕なりに事前にいろいろ調べたんですよ。いわゆる『コスプレ』でゲームキャラなどのスタイルをして、ゲームセンターでイベントを積極的に行われていたとか。

原田 僕は多くの人から「格闘ゲームコミュニティ出身で、プレイヤーからゲーム開発者になった」って思われているんですけど、実際にはそのイメージを利用していたというか、当時からお客さんに溶け込んでいただけで、実はイベントを開催していた当時かられっきとしたナムコの社員だったんです。でも、いろんなゲームのイベントをやっていたので、傍目にはバイトなのか店員なのかお客さん代表なのかが分からなくて、そういうゲームコミュニティの人がナムコに行って、いろんなゲームを作っているんだ、あの人はゲームセンター出身だ、みたいに見えてしまったんです。これは最近バラしてますけどね。ごめんなさい、実はあの時から社員でしたって、ハハハハ。

それはもう言っても大丈夫なんですか?

原田 大丈夫です。「なんだよ~」みたいにいわれることはありますが(笑)。でも常にユーザー目線で居たかったし、いまもそこは忘れないようにしていますから。

僕のプロフィールは、あちこち間違っていますよ

ちなみに、生年月日はいつになるんですか?

原田 生年月日はね、敢えて伏せてるんです。

そうだったんですか。それはなぜ?

原田 最初はいろんなところでクイズとかにするんで、伏せとこうってなったんです。そうしたら、世の中に出ている僕のプロフィールがけっこうブレちゃって。今、いっぱい情報がいろんなメディアに載ってますけど、ホントにブレてるというか、あちこち間違ってますよ。それが面白いから、みんな言わないでおこうって。

なるほど~。では、大まかに教えてもらってもいいですか。

原田 四捨五入したら50歳になりますね。

そうなんですか。実はずっと年齢がどのくらいなのか分からなかったんですよ。原田さんは若くも見えるし、僕と一緒ぐらいってことはないけど、もっと上にも見えるし。

原田 よくそう言われます。上にも見えるし、下にも見えるって。そういえば『DEAD OR ALIVE』を作られていた板垣(伴信)さん(注2)は出身大学が一緒で、同じ時期に在学しているってファンの間で言われたんですけど、あの人は年齢的に僕よりけっこう上のはずなんですよ。板垣さんも僕も浪人はしていないし。だから、学年的にはかぶってない、僕が入ったときにはあの人はもう卒業してたはずだって当初言い張っていたんですけど、衝撃の事実が判明して。あの人は大学に7年間行ってたって本人から聞かされたんですよ。あの方は麻雀がかなり強いんですが、大学時代に麻雀ばっかりやって留年していたらしいんです。なので、実は僕がキャンパスに行ってた時期とかぶってたんです。

注2:テクモ(現コーエーテクモゲームス)時代に人気3D格闘ゲーム『DEAD OR ALIVE』を生み出したクリエイター。現在はヴァルハラゲームスタジオ最高顧問、株式会社ソフトギアのメタル顧問を務める。

板垣さんからしたら、オマエいたじゃねえかみたいな(笑)。

原田 そうなんです。だから、同時期に同じ大学に一緒に通ってた後輩だったって言われたら、確かにプロフィール上はそうなるんですね。でも在学中会った記憶はないですけど。

宮崎駿さんの『風の谷のナウシカ』には、どハマりしましたね。

70年代生まれということですが、子供の頃に影響されたものはありますか。

原田 あります。父親の姉が喫茶店をやっていたんですが、そこに『ブロックくずし』と『インベーダーゲーム』が入ってきたんですよ。インベーダーブームのちょうど直前ですね。あのブームってちょっとずつきたじゃないですか。ちょうど人気になり始めた頃に、あれに衝撃を受けて。まず、音ですよね。「ドゥッ、ドゥッ、ドゥッ」っていう『インベーダー』のあの重低音。モニターの画面にも見たことのない色の付いたセロファンかなんかが貼られていて。

そうでした、そうでした。

原田 あと、当時のそういうお店って暗~いじゃないですか。大人の空間っていうか、みんなタバコもガンガン吸っていて。そういうのを子供ながら見てて、多分ゲームそのものというより全体の雰囲気も含めてなんでしょうけども、いっぺんにやられてしまったんです。だけど、親はやっぱり……当時のインベーダーハウスだとか喫茶店は大人が集まる場所でしたし、心配だったようです。で、僕があまりに引き込まれているっていうのが分かったんでしょうね。すごく引きはがそうとされました。でもね、人間ってやるなって言われたら……。

余計にやりたくなりますよね。

原田 そうなんです。そういう体験も込みで、すごく自分の中に刻まれましたね。影響を受けたものはもうひとつあって、僕には姉がふたりいたんですが、どちらも割とマンガやアニメが好きで、絵とかも描ける多才な人だったんです。その姉たちの影響でアニメ、マンガに早くから触れる機会が多かったんですね。手塚治虫さんのアニメとか、松本零士さんのマンガやアニメとか。

これはあまり他のインタビューで言ったことないんですけど、なかでも宮崎駿さんの『風の谷のナウシカ』には、どハマりしましたね。もちろん、アニメ版も好きですが、マンガ版は特に。あれは、すごい大好きだったです。もうちょっと大人になると、鈴木裕さん系のゲーム(注3)に没頭するようになるんですけど、小さい頃はさっき言ったような『インベーダー』とか、マンガだと白土三平の『サスケ』や『カムイ伝』なんかも好きでしたね。

注3:少年時代の原田氏は80年代に鈴木裕氏率いるセガのAM2研が作り出した体感ゲームのトリコになっていたという。この点に関しては後段のVRに関するくだりの部分で詳述している。

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