黒選!メディアコンテンツ研究家・黒川文雄がテーマで選ぶ 3+1  vol. 33

Column

ゲーム産業に影響を与えた歴史的出来事 3+1選

ゲーム産業に影響を与えた歴史的出来事 3+1選

様々な産業において、時代の変わるターニングポイントがあります。

振り返ればビデオゲームの歴史は1972年発売のアタリの『PONG』から始まったと言えるでしょう。
ピンポン、テニスなどと呼ばれたアタリの『PONG』ですが、ビデオゲームのオリジン(起源)として、「一人でも遊べる」「二人でも遊べる」という基本原則が大ヒットの要因です。そして、今まで観るものだったテレビを、ビデオゲームの再生機として使う、遊ぶという要因も大きく作用したと思います。
しかし、アタリはビデオゲーム・ソフトを粗製乱造しアタリ・ショックという言葉を残し凋落します。その後、1980年代前半にビデオゲームで世界を席巻したのは任天堂でした。

今回の黒選は、ゲーム産業の歴史の中でターニングポイントとなった出来事を、3+1選でお届けします。

では、どうぞ!


1. ファミコンの発売

1970年代後半、任天堂はオイルショックの影響や不良在庫の膨張によって多額の借金を抱え、倒産の危機に瀕していました。しかし『ゲーム&ウオッチ』の成功によりその債務を解消。資金的余裕が生まれ、1980年代初頭にはアーケード向けタイトル『ドンキーコング』を発売します。

そして、1983年7月15日に家庭用ゲームハードウェア『ファミリーコンピュータ』(以下ファミコン)が発売されました。ファミコンの発売によって任天堂がもたらした大きな時代のうねりが、その後のゲーム・娯楽産業全体を包み込んでいくことになったのです。

それまでは、家庭用ゲームハードウェアをリリースした会社は、遊べるソフトをすべて自社生産していました。開発を一部委託することはあっても、基本的には自社でリリースするのが当たり前でした。

そこへ、あらゆるハード向けソフトタイトルを続々発売して急成長する会社が現れます。北海道で生まれた小さなアマチュア無線会社「CQハドソン」(後にハドソンに社名変更)です。
ハドソンはマイコン向けソフトを通信販売して急成長していました。低価格で高性能な『ファミコン』に興味を持ったハドソンは、その資金と技術力を使って、任天堂のサードパーティへ参入するという交渉を行ったのです。これが日本におけるサードパーティ制の幕開けであった、と言えるでしょう。

また、ほぼ同時期にアーケードで『ギャラクシアン』『パックマン』などの大ヒットを飛ばしていたナムコが、自社でファミコンハードを解析して『ギャラクシアン』を開発、京都の任天堂に持ち込んで正式ライセンスを取得した、という話も聞いたことがあります。

ファミコン©任天堂

ハドソンやナムコのようなソフト開発会社が、任天堂の『ファミコン』陣営に集結しはじめると、その流れを聞きつけた他のソフトハウスも任天堂の門戸を叩くことになります。革新は常に混沌とともにあると思います。

そしてもう一つ、ファミコンの発売に合わせて任天堂は「初心会」という一次流通問屋を組織しました。
いかにも京都らしい「一見さんお断り」のような制度によって、他の大手おもちゃ業界から流通に介入される危険性を排除できました。これにより、早期に安定してハードとソフトを供給する体制を作ることができ、大きな混乱も無く販売する事が可能になりました。

しかし同時期に、「ファミコンは儲かる」との思惑に加えて、一次問屋に参加出来なかった問屋が、二次、三次、四次問屋という形で現れます。仲介する問屋が増えることでソフト在庫がだぶつき、仕入れの掛け率の高い問屋が現れ、人気ソフトと抱き合わせで卸をする問屋が多数現れました。
そのため、供給が追い付かないほど売れていた時期は、まだ設立間もない中古ゲームショップ、スーパーやホームセンターと言った異業種などが『ファミコン』の仕入れ販売を行い、店頭で抱き合わせ販売を行うなどの社会問題も発生しました。

このように『ファミコン』時代はまだ基盤が整備されていない部分も多々ありましたが、業界初のサードパーティ制度と一次問屋「初心会」の組織化という、品質管理と流通管理によって、任天堂は大きな成功を収めました。

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