【80年代名鑑】明菜からYMOまで 80'sからの授かりもの  vol. 72

Column

尾崎豊 あの日、訊ねることもなく、ノートに残ったままの質問

尾崎豊 あの日、訊ねることもなく、ノートに残ったままの質問

尾崎の最後の作品集『放熱への証』。久しぶりに聴いてみたら、やたら鮮明に内容を覚えていた。このアルバムの時、彼にインタビューした。取材準備のため、丹念に聴き込んだのである。

改めてジャケットを眺めたら、こちらは記憶と違ってた。草原に出現したクロス・ロードのような場所に、頭を休め天を仰ぐ尾崎の姿…。ずっとそう思っていた。でも正確には、さらに彼の左腕に、渡り板のようなものが添えられている。もし、手前側に自分達が居るのなら、紛れもなくこの姿は、「俺なんか乗り越えていけよ!」。そんな意思表示に他ならない。

ミリオン・セラーになったアルバムである。それだけ多くの人々が聴いたということだ。音楽は、もちろんそれ自体で存在するが、聴いていた時の想いもセットとなり、頭のなかに保管されているはずである。1992年の春。このアルバムを手にしたという百万人以上の人達には、ぜひ改めて、あのときの尾崎のみならず、あのときの貴方自身と再会する意味でも、再聴をお勧めしたい。

彼がとつぜん亡くなったのが、この年の4月25日である。アルバムが出たのは5月10日。人々のなかに、特別な感情が無かったかといえば?になる。さすがに僕自身も、ついつい想い出してしまうことが多い。尾崎の最終回なので、そんな記述もお許し願いたい。

僕が尾崎の死を知ったのは、あるアーティストの武道館でのコンサートの直前だった。Webのニュースなどない時代である。「死んだらしい…」。未確認なかたちで、僕の耳にも届いた。武道館は、入ると正面に正力松太郎の像がある。あのあたりで、僕は同業者と、この知らせが事実なのかを確かめ合った。

もう少し生きていたら、予定されていたツアーの日程として、彼も初めて、武道館のステージに立っていた。もちろん観に来る積もりだった。それも知っていたので、なんともやり場のない気分になりつつ、館内に入ったのを覚えている。

とりとめのない文章になっている。このままとりとめなく、最後まで書く。

『放熱への証』のとき、尾崎に久しぶりにインタビューしたと書いたが、これが非常に上手く行かなかった。当時、やたら雑誌の撮影が行われたのが六本木の「アートセンター」というところで、スタジオが多数あった。そのなかの“kimo studio”という、別館みたいなところで尾崎を待っていた。

彼は笑顔でやってきた。再会を喜び合った。しかし開始して10分も経たないうち、椅子を蹴り飛ばし、出て行ってしまう。

「じゃあ、ミキシングコンソールの側での仕事も増えたわけでしょ?」

そう訊ねた時だ。『放熱への証』は、彼自身のプロデュースであり、つまり僕が訊ねたかったのは、アーティストとしての立場とディレクター/プロデューサー的立場を兼ね備えたからこそ、このアルバムは完成したのだろうし、それを彼に語って欲しかったわけだ。

「その“仕事”って言葉、気にくわねぇなぁ」

尾崎はそう吐き捨てて、出て行ってしまった。

あとから話をきくと、このアルバムの取材は、どのメディアも似たり寄ったりだったそうだ。尾崎は取材を受けるような精神状態ではなかったということである。

それでも僕が今も想うのは、「もっと彼が話しやすいような訊ね方はなかったのだろか?」という、そんな後悔なのである。

相手がコトバというものに対して、疑心暗鬼の念を尖らせているのだと分かってたら、“仕事”以外の、別の表現を選択するべきだった。

もし『放熱への証』のインタビューが上手く行っていたなら、尾崎に訊ねたかったのは、こんなことである。

(1)例えば「自由への扉」なら、彼のアイドル歌謡への見識。
(2)「原色の孤独」に絡めて、やがて30代へとなっていく自分の、長期的なロックンロールへの展望
(3)「贖罪」における80年代前半のモータウン・リバイバルへの彼からの回答

コアな尾崎ファンは、なんで尾崎にアイドル歌謡のことなんか訊ねるんだと、憤慨にも似た感情を抱いたかもしれないが、むしろ僕は、尾崎に「らしくない」質問もどんどんしたかったのだ。パブリック・イメージの外壁を、いったん崩してみたかった…。『放熱への証』のジャケットの、彼の肉体に添えられた渡り板を、彼自身も渡って、「これが尾崎」ではなく、「これも尾崎」の境地へ達して欲しかった…。他にもノートに、いろいろな質問を用意していたのだが、訊ねることもなく、残ったままとなってしまった。

社会現象ともなった、雨の中の葬式には行かなかった。家で尾崎の歌を聴いていた。もし洋楽だったら、ロック・ミュージシャンのドラッグや死に関する話は、美化されて伝えられもする。でも邦楽の場合、細かい事情もさまざま伝わって、けして美しいものにはならない。ゴシップが好きな人達は、いつの時代も大勢いる。

最後の最後に、尾崎から聞いた話で、とても印象に残っているものをご披露したい。印象に残っているといっても、他愛ない話である。彼は高校の頃、中華料理屋でバイトをしていたという。その仕事ぶりは、けっこうアバウトだったらしい。ある日、運んでいた麺類を、なんかの拍子に躓いて、客の膝元にぶちまけてしまったという。「しかもそれ、あんかけ麺、だったんですよ」。

マズいよ尾崎くん。特にあんかけ麺は、慎重に運ばなきゃ。

文 / 小貫信昭

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