黒川文雄のエンタメ異人伝  vol. 16

Interview

FFイラストレーター天野喜孝氏(上)絵を描くことが好きだった少年、タツノコプロへ

FFイラストレーター天野喜孝氏(上)絵を描くことが好きだった少年、タツノコプロへ

音楽、映画、ゲームなどを総称するエンタテインメントは、人類の歴史とともに生まれ、時代に愛され、変化と進化を遂げてきました。 そこには、それらを創り、育て、成熟へ導いた情熱に溢れた人々がいます。この偉人であり、異人たちにフォーカスしインタビュー形式で紹介するエンタメ異人伝。

静岡で生まれ、絵を描くことが好きだった少年は、中学卒業とともに、東京に旅立つ。そして、「竜の子プロダクション(現在はタツノコプロダクション)」の創業者 故・吉田竜夫のもとで、テレビアニメーションの仕事に就いた。当時、黎明期だった日本のテレビアニメーションの発展とともに、少年は成長し、自らの世界観を表現するべく、世に自身を問うことになり、今に至る。

その少年の名は天野喜孝。

絢爛な色彩は日本を越えて世界へ、孤高のテイストはカテゴリーを越えて様々なカルチャーと融合し、その世界観は今なお飽くなき探求心を具現化する。

今回の「エンタメ異人伝」は、天野義孝のエンタテインメント感、クリエイティブにかける想いのルーツを探り、彼を動かすモチベーションに迫るものである。

インタビュー取材・文 / 黒川文雄


絵を仕事にしようとはまったく考えていなかった

静岡のお生まれとのことですが、静岡のどちらのほうでいらっしゃいますか。

天野 静岡市ですね。

天野さんがイラストやアニメーションなどに興味を持たれたきっかけというのはなんだったのでしょうか。

天野 今でいうメカといいますか、潜水艦とか飛行機といったものも描いていましたが、僕はどっちかというと人物、っていうんですかね。当時の少年雑誌によくあったじゃないですか。小松崎茂さん(注1)や山川惣治さん(注2)が描かれていた挿絵というか墨絵みたいなのが好きで、そういうちょっとリアルなものを描いていたような気がしますね。

注1:昭和初期から平成にかけて活躍した画家、絵物語作家。「少年マガジン」「少年サンデー」といった少年誌の戦記物の挿絵や飛行機、艦艇のイラストなどを多数手がけた。これらの作品は現在でも高く評価されており、“空想科学イラストの巨匠”と称されている。
注2:小松崎茂と人気を二分した絵物語作家。雑誌「少年倶楽部」にて連載された『少年ケニヤ』はアニメ化されるなど高い人気を誇った。そのほかの代表作は『少年王者』『荒野の少年』など。

そうですね。たくさん、ありましたね。そのような絵がお好きだったんですか。

天野 そうですね。

マンガとかはどうだったのでしょうか?

天野 マンガは見ていましたけど、あんまり描いてはいなかったですね。どっちかっていうとリアルな方が好きでしたね。

では、その頃に小松崎先生とか、そういった方たちの影響があって、絵を仕事にしていきたいと思われたのでしょうか。

天野 仕事にしようとはまったく考えていなかったと思いますね。ただ、好きで描いていただけです。僕には兄がふたりいまして、当時上の兄が製紙工場というのかね、紙の関係の仕事をしていたんです。それで、大きな紙を持ってきてくれましてね。その上にこう乗って描いたりとかっていう。

当時からキャンバスといいますか、大きな紙の上に表現できる環境があったんですね。

天野 いまだにそうですね。(紙の)上に乗って描いてる(笑)。あんまり変わってないですね。

じゃあ、周りのお子さんたちとは、ちょっと違う感性だったんじゃないですか?

少年時代

天野 いや、けっこう一緒に遊んでましたよ。近所の友達とか学校の同級生とかとね。でも、絵を描くときは特別みたいな感じで。僕は覚えてないんですけど母親が言うには、絵を描くときは遊ぶ約束をしないというか、「今日は絵を描くから」みたいなことを言って断っていたらしいんです。そういうところがあったみたいですね。でも、それ以外はもう普通の子供です。

絵を描くときだけはすごく集中して…という感じだったんですか。

天野 だったかもしれないですね。

最後に見学に行ったのが竜の子プロダクションだった

そのとき描かれていたのは、対象はやっぱり人でしょうか。

天野 だと思うんですよね。花を描くとか空を描くとか、そっちの方じゃなかったと思うんですよね。いわゆる挿絵っていうんですか、物語があるものを描いてた。

その頃からなんですね、なるほど。

天野 というか、身近にあるのがマンガ雑誌とか、そういうものでしたからね。画集とか持ってないですし。その中で触れたものの中から描いていく、みたいな感じだったと思うんですよね。

そして、15歳という若さで竜の子プロダクション(以下タツノコ)に入られるわけですけど、それはどういった経緯だったんでしょうか。

天野 近所に住んでいた幼友達がいまして。親友だったんですけど、小学校の3、4年ぐらいのときに親の事情で東京の方に引っ越したんです。でも、実家は静岡なので、夏休みとか帰ってくるんですね。それで、いろいろマンガとか、そういった東京の情報が入ってくるようになって。手塚治虫さんの『マンガの描き方』(注3)とか、石ノ森章太郎さんの『マンガ家入門』(注4)とかを読んで、マンガに興味を持ち始めたんです。だから、中学1年ぐらいから、ちょっとマンガも描いたりしていたんですね。で、中学3年の冬休みかな? 初めて東京の方に遊びに行くことになったんですが、その友達の家が国分寺だったんです。

注3:手塚治虫が基本的なマンガの描き方について分かりやすく説明した子供向けのマンガ入門書。この本を通してマンガの描き方を学んだという漫画家も少なくない。
注4:石ノ森章太郎(当時は石森章太郎)が1965年に発表したマンガ入門書。使用する画材や道具からストーリーや画面の構成の仕方、作品を発表する方法まで紹介。当時の漫画家予備軍たちのバイブルとなった。

はい、国分寺ですね。

天野 当時の国分寺って、漫画家さんとかがけっこう住んでいたんです。それで、そういうところにちょっと見学に行こうということになって。最後に行ったのが竜の子プロダクション(現在のタツノコプロダクション:以下タツノコ)だったんです。アニメーションの会社なんですが、当時『宇宙エース』(注5)っていうのを放送していまして、僕はファンだったんですね。「おおっ」と思って、ちょっと行ってみたいと。でも……ちょっとよく覚えてないんですけど、確か正月だったんで、まだやってなかった。休み中だったと思うんですよね。会社が始まるのは正月明けで、もう学校が始まっちゃうって感じで。でも、せっかくだから見学に行こうっていうことになったんです。それで、どうせだったら絵を描いて見てもらおうかなと思って、その友達の家で描いて持っていったんです。それがきっかけですね。

注5:21世紀の地球に流れ着いたパールム星人の少年・エースが、悪人や怪物たちを相手に活躍する姿を描いたSFアドベンチャー。タツノコプロの第1作目のアニメーション作品で1965年~66年に放映された。

絵の世界に入ろうなんて、全然考えたことなかったんですけどね

冬休みが終わるギリギリのタイミングだったわけですね。じゃあ、学校には行かずに、そのままですか?

天野 多分、1日ぐらいサボったと思います。で、そのときに入りたいみたいなことを言って見学させてもらったのかな……ホント覚えてないんですけど、多分言ったと思うんですね。それで、静岡に帰ったあと、採用通知みたいなのが来たんですよ。これはどうしようとなって。僕は絵の世界に入ろうなんて、全然考えたことなかったんですけどね。

考えてなかったんですか?

天野 実はそうなんです。もちろん、タツノコに行ったとき、多分そういう仕事をしたいみたいなことを言って、そうなったと思うんですけど。それでもう、イチもニもなく行っちゃった感じです。

そうだったんですか。ちなみに、そのときタツノコに持っていった絵というのは、どんなものだったんですか?

天野 まったく記憶にないです。

ないですか(笑)。

天野 はい。でも、それがきっかけだったんですよね、うん。

……でも15歳で、ずいぶん大胆な決断をされたという感じがします。実際、どう思われていましたか?

天野 いや、もう最高の気分でしたね。

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