黒川文雄のエンタメ異人伝  vol. 16

Interview

FFイラストレーター天野喜孝氏(中)独立してアニメからリアルへ、そしてFFとの出会い

FFイラストレーター天野喜孝氏(中)独立してアニメからリアルへ、そしてFFとの出会い

音楽、映画、ゲームなどを総称するエンタテインメントは、人類の歴史とともに生まれ、時代に愛され、変化と進化を遂げてきました。 そこには、それらを創り、育て、成熟へ導いた情熱に溢れた人々がいます。この偉人であり、異人たちにフォーカスしインタビュー形式で紹介するエンタメ異人伝。

静岡で生まれ、絵を描くことが好きだった少年は、中学卒業とともに、東京に旅立つ。そして、今は亡き「竜の子プロダクション(現在はタツノコプロダクション)」の創業者 吉田竜夫のもとで、テレビアニメーションの仕事に就いた。当時、黎明期だった日本のテレビアニメーションの発展とともに、少年は成長し、自らの世界観を表現するべく、世に自身を問うことになり、今に至る。

その少年の名は天野喜孝。

絢爛な色彩は日本を越えて世界へ、孤高のテイストはカテゴリーを越えて様々なカルチャーと融合し、その世界観は今なお飽くなき探求心を具現化する。

今回の「エンタメ異人伝」は、天野義孝のエンタテインメント感、クリエイティブにかける想いのルーツを探り、彼を動かすモチベーションに迫るものである。

※本記事は3回にわたってお届けするインタビューの第2回です。第1回(上)はこちら

インタビュー取材・文 / 黒川文雄


その頃はもう、どうやって逃げようかと(笑)

いわゆる日本のアニメーション、オリジナルアニメーションを作られた、素晴らしい方々とお仕事をされてきたわけですけれども、振り返ってみて、その頃にどのようなものを得たとお感じになりますか。

天野 いろいろありますけど、一番思うのは、いろんなものをやった経験、でしょうか。ファンタジーとかSFとかギャグとかメルヘン的なものとか、いろんなジャンルのものが企画としてあって、リアルなものからデフォルメされたものまで、さまざまな絵をやったので。今もいろいろな絵を描いてますが、そのときの経験が活かされているのかなと思いますよね。

なるほど、いろいろ勉強させてもらったという感じでしょうか。

天野 いや、やらされたっていう感じです。その頃はもう、どうやって逃げようかと(笑)。

やっぱりそういう時期もありましたか。

竜の子プロダクション期

天野 ずっとそうでしたね。

ずっとですか(笑)。企画の追い込みというか、追及していく中で大変な日々があって、いつ逃げようかなあなんて思ったこともあったというのは他のインタビューで読んだことがありますが。

天野 休もうと思ったらサボるしかないんですよ。会社行かないとかね。

(アニメ番組は)週刊というか毎週放映されますよね。僕の場合は『ガッチャマン』『キャシャーン』『タイムボカン』シリーズ(注14)、全部キャラクターをやってましたから、最低週3回締め切りがあるんです。で、それ以外に新作となったら、またこもって新しいキャラクターを作ったりとかしなきゃならない。そうすると、もうほぼフル稼働なんです。

注14:1975年放映の『タイムボカン』に始まるアニメシリーズ。軽妙なギャグやユニークなメカが受け、特にシリーズ2作目の『ヤッターマン』は絶大な人気を誇った。

休みがないですね。

天野 なので、休もうと思ったらサボるしかないんですよ。会社行かないとかね。

ハッハハハハハ。そんなこともあったんですか。

天野 ありました。そうすると演出家とかから電報が来たりして。電話とかない時代ですからね。それで、会社に出ざるをえなくなって、行って仕事してみたいな、うん。

会社という組織に入っていることに息苦しさを感じた

もしかしたらニュアンスが違うかもしれませんけど、タツノコ時代の作品は自分のものではないんじゃないかと感じておられたというようなことを他のインタビューでおっしゃっていますよね。自分のものを表現したいと思うようになったと。もうひとつ個人の活動がすごく忙しくなって、それで独立されたというお話を読んだことがあるんですが、このふたつが理由ということでいいのでしょうか。

天野 おおかたそんな感じです。もうひとつは組織ですね。会社という組織に入っていることに息苦しさを感じるようになりまして。というのも、僕が25歳のときに一番の大ボスである吉田竜夫さんが亡くなってしまったんです。当時はそれで会社がけっこう迷走しましてね。もちろん、タツノコは今もちゃんと成立していますけど。

吉田社長がお亡くなりになったあと、経営状態が揺れたような時期があったというお話は読んだことがあります。

天野 経営状態がという話ではないですけどね。竜夫さんのあと次男の(吉田)健二さん(注15)が会社を引き継いだんですが、その方はクリエイションよりも事務畑というか、総務とかお金とかそういう方面にカッチリした人だったので、経営方針がちょっと変わったりしたんですね。

それと同時に鳥海さんとか美術の中村光毅さん(注16)とか大河原さんとか、それまで中心でやっていた人たちが、みんなどんどん辞めていったんです。多分、個人的にやりたいこともあって独立されたと思うんですが、そういう形で一緒にやってきた人たちがポロポロいなくなってしまって。それでも頑張っていたんですけど、待遇もだんだん悪くなってきましてね。キャラクター室もなくなって大部屋になっちゃって、なんでここにいるんだろうみたいな。

注15:竜の子プロダクションを設立した吉田三兄弟の次男でタツノコの2代目社長。漫画家として活動していた兄の吉田竜夫、弟の久里一平をマネージャーとして支え、タツノコ設立後も実務面で会社の経営を助けた。
注16:『機動戦士ガンダム』をはじめとする富野由悠季作品や宮崎駿の『風の谷のナウシカ』など数多くの名作アニメの美術監督を務めたことで知られる。タツノコプロ出身でタツノコ時代は『ガッチャマン』や『マッハGoGoGo」などのデザインを手がけた。

自分のものを描きたいなっていうのがあって最終的に独立しました

ああ、そうだったんですか。

竜の子プロダクション期

天野 辞めたくはなかったんですけど、もういられなくなってしまってね。それと同時にアニメーションではない、自分のものを描きたいなっていうのがあって、それで最終的に独立したんです。

天野さんご自身にとって大きな決断だったわけですか。

天野 そうですね。他のスタジオからも、いろいろ誘われていたんですけど、20歳すぎたぐらいからアニメーションのキャラクターはもういいなっていうか、飽きちゃったみたいな感じが個人的にはあったんですね。

ええ。

天野 だから、もっと違うことをやりたいなあと。子供の頃に描いていたリアルな挿絵というか、そういうのをやりたいなって思ったんですよ。それで、タツノコにいた頃から家にこもっていろいろ描いて、出版社に持ち込んだりしていたんです。それがあって、当時はまだタツノコにいたんですけど、早川書房の「S-Fマガジン」(注17)でデビューできたんです。

注17:早川書房が発行している1959年創刊の老舗のSF専門雑誌。小松左京や眉村卓ら、さまざまな人気作家を輩出し、日本におけるSF、ミステリーの人気を支えた。

それはいわゆる挿絵ですか?

天野 なんていうんでしょう……オリジナルの物語と絵で7、8ページ。それを毎月連載でやっていくっていう。オリジナルの世界観で毎月違うものを生み出すっていうのは、それが最初でしたね。

それは天野さんにとって、すごく面白かったわけですね。

天野 面白かったですね。

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