モリコメンド 一本釣り  vol. 68

Column

市川愛 “美しい大人の女性”を生々しく喚起させる歌声。注目の才媛シンガーとは?

市川愛 “美しい大人の女性”を生々しく喚起させる歌声。注目の才媛シンガーとは?

腰まであったロングヘアを彼女はバッサリと切った。きっかけは、プロデューサーの要望。“短いほうが似合うよ”ということだったのか“髪を切ることがプロデュースの条件”みたいなことだったのかは知る由もないが、とにかく彼女は(再)デビューにあたってヘアスタイルをショートボブに変えた。知り合いの女性編集者に「もし君がシンガーで、プロデューサーに“髪を切って”と言われたらどうする?」と聞いてみたら、「うーん、プロデューサーによるかな。○○さんに言われたら切っちゃうかも」という答えが。なるほど。

この春、アルバム「NY LOVE,WITH MY SHORT HAIR」でメジャーデビューを果たした市川愛。バークリー音楽院への留学を経て、ジャズシンガーとしてキャリアをスタートさせた彼女は、菊地成孔、大谷能生によるヒップホップ・クルーJAZZ DOMMUNISTERSのアルバムにラッパーとして参加したことをきっかけに、“I.C.I”としての活動をスタート。ネイティブの英語を活かし、国籍不明の覆面フィーメールラッパーとして徐々に認知されるようになる。(ラッパー以外にも有名企業のTVCMのナレーターも担当)

さらに菊地が サウンドトラック を手がけた「機動戦士ガンダム/サンダーボルト」の劇中歌の歌唱、日本から英語への訳詞を“AI ICHIKAWA”として担当。2018年4月からスタートしたNHKドラマ”Daisy Luck”で挿入歌の作詞、歌唱を担当するなど、活動のフィールドを確実に広げてきた。

“美しい大人の女性”を生々しく喚起させるボイスに加え、ジャズ、フォーク、R&Bなどに造詣が深く、英語の発音は完璧。才媛としか言いようがない彼女が本名の“市川愛”として始動したのは2017年。シンガーソングライターの浜田真理子に憧れていたという彼女は、本人から楽曲「あこがれ」を提供され、これまでのスタイルを一新。「あこがれ」をアコギ1本でフォーキーに歌うデモ音源が菊地に渡ったことをきっかけにして、アルバムの制作が始まった。リリースは菊地が主催するTABOO LABEL。前述したヘアスタイルを含め、プロデュースはもちろん菊地成孔その人である。

アルバムの「My Love, With My Short Hair」は、フォーキーな楽曲とオルタナR&B的な楽曲に大別することができる。フォーキーサイドを象徴する楽曲はやはり「あこがれ」。最初のデモ音源のテイストを活かしたであろうこの曲は、名手・今堀恒雄のアコースティックギターと市川の歌だけで構成されている。切なさと憂いを帯びたメロディライン、歌を際立たせながら、ヒリヒリとした情感を描き出すギター、そして、“不意打ちみたいに”出会った“あなた”によって、本当の寂しさを知った女性を主人公にした歌詞。繊細な感情の揺れを伝える「あこがれ」は、“シンガー市川愛”の原点であると同時に、彼女の本質をしっかりと射抜いていると言えるだろう。「青い涙」もフォークの側面が強く表れたナンバーだ。作詞は市川、菊地の共作。特に“君も知らない君を 僕だけに聞かせて”というラインを抑制の効いた歌声で紡ぎ出すパートは絶品だ。

オルタナR&Bサイドを代表するのは1曲目に収録された「二重生活」だろうか。作曲をSWING-O、編曲を菊地が担当、坂田学(Dr)、知念輝行(G)、宮川純(Key)、鈴木正人(Ba)という凄腕ミュージシャンが参加したこの曲は、クールかつドープなグルーヴを軸にしたミディアム・チューン。諦念と情念をギリギリのラインで抑え込んだボーカルからは、ゾクッとするような興奮が確かに感じられる。タイトル曲「My Love, With My Short Hair」も素晴らしい。ヒップホップ、ジャズ、ソウルが混ざり合うトラック、そして、心地よいラップ/ボーカルとともに“不安的な恋の気分”を映し出すリリック。大人になり切れず、恋愛にも仕事にも振り切ることができず、いつも中途半端なまま宙に浮いている人々(つまり現代の日本に生きるほとんどすべての人)のメンタリティを捉えたこのアルバムをもっとも端的に示しているのは、やはりこの曲なのだと思う。

5月13日(日)に新木場Coastで開催されたイベント『TABOO LABEL Presents GREAT HOLIDAY』のステージに立った市川愛。「菊地さんのラジオ(TBSラジオ『菊地成孔の粋な夜電波』)でアルバムの特集をしてもらったんだけど、なぜか私はスタジオに呼ばれず、自宅待機。嫌われてるのかな(笑)」などと笑いを誘いつつも彼女は、シンガーとしての類まれな才能を(自然体としか言いようがないステージングとともに)証明してみせた。思春期はとっくに過ぎたが、すべてを諦めるまでにはまだ十分に時間がある。そんな人たちの生活に憂いと美しさを与えてくれる、きわめて稀なシンガーだと思う。

文 / 森朋之

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オフィシャルサイト
http://ai-ichikawa.com

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