佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 49

Column

日本が誇る編曲家のレジェンド、萩田光雄の「仕事人」と「音楽家」の両面を読む

日本が誇る編曲家のレジェンド、萩田光雄の「仕事人」と「音楽家」の両面を読む

萩田光雄さんは慶應義塾大学の工学部に在学中は、クラシック・ギターのサークルで活動していた。
だが好きだった音楽の道に進むことを決意し、そのために電子部品を作る仕事をしていた会社を継がなかった。

退路を断って恵比寿にあるヤマハの作・編曲家教室に入門したのは24歳の時で、目標を定めたことで「音楽家」への道が開けていった。
そこからヤマハ音楽振興会のスタジオでアルバイトをするようになり、ポプコンの応募作品のアレンジを手がけ始めた。

そして嘱託のような形の勤務になって、1973年から74年にかけて編曲した作品がレコード化されていった。

編曲家になってからまもなくして太田裕美のデビュー曲「雨だれ」や、岩崎宏美のデビュー曲「二重唱(デュエット)」のヒットで評価が高まり、1975年には布施明の「シクラメンのかほり」がレコード大賞を受賞した。

翌76年には梓みちよの「メランコリー」で、日本レコード大賞の編曲賞を受賞した。
またトップスターになっていた山口百恵の「横須賀ストーリー」、「イミテーション・ゴールド」、「プレイバックPart2」などのヒットにより、斬新なアレンジで名声が一気に高まった。

久保田早紀の「異邦人」はシルクロードの映像を使ったカラーテレビのコマーシャル・ソングだったが、CMとの連動による相乗効果から大ヒットにつながった。
ぼくはその当時、これでもかとばかりに中近東風のサウンドを強調した萩田さんの、ダイナミックなアレンジに圧倒された覚えがある。

しかし心優しい萩田さんは、「仕事人」としてではなく「音楽家」として、本書の中でこんな言葉を残している。

「異邦人」は大ヒットしたが、私のアレンジに関しては、久保田早紀さん本人からは疎まれているかもしれないと、今も思っている。そもそもの楽曲がああいうものではなかったのだから。「あれで良かったのです」と言ってもらえるのは夢で終わるだろうな。

1970年代から80年代の歌謡曲⻩⾦時代を彩った編曲家の第⼀⼈者として、萩⽥さんはまさに⽣きるレジェンドと⾔える存在だった。

ところが本書によると、作品が誕生したときのことやそこに至るプロセスを尋ねられても、ほとんど答えられなかったという。
それは忘れてしまったのではなく、そもそも最初から憶えていなかったのだと、あとがきでこう述べている。

最も忙しかった日々、おわかりいただけるだろうか? 前日やった曲のことは、もう今日は白紙にしていなければならなかった。脳のヒダに刻み込む余裕はなかった。

記憶に刻まない日々は、良くも悪くも「うしろを振り向かない」性癖を形成する。驚くなかれ、手書き時代のアレンジ・スコアはほとんど残っていない。レコード・CD化されたものは音として残っているが、その他は何も残っていない。

そんな萩田さんが明らかにしているエピソードを二つ、三つ、簡潔に紹介したい。
まずは作品に感激しすぎてしまって「仕事人」になりきれなかった話で、アレンジという仕事の本質とともに、ここでも「音楽家」としての人となりが浮かび上がってくる。

ショックなことだが、私のアレンジがNGになったこともある。岩崎宏美さんの「思秋期」(77年)だ。私のアレンジは採用にならなくて、作曲の三木たかしさんが改めてご自身でアレンジしたものがシングルになった。

こういう事は極めてまれなのだが、アレンジを考えている時、あまりにいい曲であることに感激してしまい「仕事人」になれなかった。確か、メロディーを口ずさみながら涙したと思う。これは余計なことを何もしない方がいいのではないか、してはいけない……と、気持ちが後ろ向きになってしまったのだ。

次にアメリカの名プロデューサー、クインシー・ジョーンズの世界的な⼤ヒット曲から、萩田さんの考えたイントロとそっくりなフレーズとサウンドが聴こえてきたときの話を紹介したい。
もとになったのは1980年1月に発売された小柳ルミ子の「来夢来人」(作曲:筒美京平 作詞:岡田冨美子)である。

これはイントロをクインシー・ジョーンズにパクられた!と思っているのだ。「愛のコリーダ」(81年)の出だしは「来夢来人」とクリソツなのだから! イントロの音階は完全にジャパンな感じで作っているので、外国人には新鮮で、オリエンタルな感じに聴こえるはずだ。その後に続いていく感じはロッド・スチュワートとかその辺りだろう。クインシーも絶対にジャパンを研究していたはずだから、ジャパンといえば誰か? それはやはりキョウヘイ・ツツミだろうとなるはずだ。何しろ京平さんは怪物のようにヒットを出し続けていた頃だから、これも資料として聴いているはずだ、と私は直感したのだ。

もちろん、萩⽥さんはここでクレームを⾔ってるのではない。逆に「仕事⼈」として認められて、おおいに喜んでいるのだ。

なぜなら、私らも洋楽をいっぱい参考にしているから。知らない間に聴いていたなどということもあるだろうし、カッコよくインスパイアしたものなら直感的にわかるのだ。その辺はお互い様である……いや、もちろん嬉しいことだった!

山口百恵のレコーディングの時だったらしいが、考えてきた譜面をもとにしてスタジオで演奏を始めたら、担当ディレクターから「萩田さん、そのフレーズは一昨日、船山さんがやっちゃったんだよね!」と言われたことがあったという。
その当時は海外の新しいサウンドやフレーズを、誰もが勉強してよく聴いていた。
だから、「おっ、このフレーズは使えるぞ」とアレンジャー同士で、似たようなことを考えてしまったとしても不思議はない。

最後にもうひとつ、萩田さんらしい言葉を紹介しておきたい。

安田成美さんの「風の谷のナウシカ」(84年)は、細野晴臣君の曲だが、これはもうすでにイントロのメロディーと、サビの直前に入るチャカチャカチャ、というドラムの音は細野君のデモにあった。彼女の歌はいろいろ言われるが、可愛らしいではないか。今どきの、これ見よがしに歌い上げる女性歌手よりよほど好きだ。

歌と⾳楽の関係、歌⼿とソングライターたち、そして編曲という仕事について、実に学ぶところが多い好著だったと思う。
なお、編者の⾺飼野元宏⽒による「萩⽥アレンジの⾳楽的特徴と歌謡界への貢 献」が、読み応え⼗分の論考で、ぼくにはとても勉強になった。


ヒット曲の料理人 編曲家・萩田光雄の時代

萩田 光雄(著) / リットーミュージック

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。
「マイ・ラスト・ソング」では構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

美輪明宏と「ヨイトマケの唄」 天才たちはいかにして出会ったのか

著者:佐藤剛
出版社:文芸春秋

三島由紀夫、中村八大、寺山修司・・・・・・

時代を彩った多くの才能との邂逅、稀代の表現者となった美輪明宏の歌と音楽に迫る、傑作ノンフィクション!

「自分以外の人によって、己れの人生を克明に調べ上げ語られると、そこには又、異なる人物像が現出する。歴史に残る天才達によって彩色された果報な私の人生絵巻が、愛満載に描かれていて、今更ながら有難さが身に沁みる」――美輪明宏

vol.48
vol.49
vol.50