モリコメンド 一本釣り  vol. 72

Column

坂口喜咲 自分自身のリアルな感情を優れた音楽に結びつけることができるシンガーソングライターだ

坂口喜咲 自分自身のリアルな感情を優れた音楽に結びつけることができるシンガーソングライターだ

そりゃ生きていればいろんなことがあるし、不安とか葛藤とか心配ごとから完全に逃れている人間なんて一人もいない(たぶん)。そんなモヤモヤした気分を共有したり、解消するきっかけになる表現の一つに音楽があるが、じつは筆者はシンガーソングライターの“等身大の歌詞”が苦手だ。要は“ありのままの感情をリアルに歌う”みたいなことだが、そんなもの聴きたくないし(SNSでも電車のなかでも、他者の感情に触れる機会はうんざりするほどある)、生の感情から生まれた曲であっても、客観的な視点や音楽的な技術をしっかり取り入れて、表現として洗練されたものであってほしいと思うからだ。これは私見だが、自分の感情を俯瞰し、そこにユーモアや皮肉を加えられることが優れたシンガーソングライターの条件。たとえば忌野清志郎がそうであったように。

坂口喜咲は、自分自身のリアルな感情を優れた音楽に結びつけることができるシンガーソングライターだ。女性2人組バンド“HAPPY BIRTHDAY”として活動した後(HAPPY BRITHDAYのドラマーだった“あっこ”は現在、フィーメールラッパー・あっこゴリラとして活動中)、本名の坂口喜咲としてのソロのキャリアをスタートさせた彼女。2015年6月に1stアルバム「朝が壊れてもあいしてる」を発表、翌年にはライブ会場限定の宅録アルバム「きいちゃんとひまわり」をリリースし、弾き語りでツアーを回るなど、DIY精神に溢れる活動を続けている。

バンド時代も“女子の本音を代弁”“自らのコンプレックスから生まれた楽曲”と評されるような作風だったが、その楽曲はさらに深み(もしくは軽み)を増している。その最初の到達点と言えるのが、約3年ぶりとなる2ndアルバム「あなたはやさしかった」。楽曲のもとになっているのは実体験であり、生の感情だと思うが、すべての音、すべての言葉がしっかりと精査、洗練されることで、まるで優れた短編小説か短編映画のような味わいが感じられるのだ。

アルバム「あなたはやさしかった」は「あいのうた」から始まる。優しさと穏やかさに溢れたメロディライン、シンプルなバンドサウンドとともに描かれるのは“あの子”に対する真っ直ぐで温かい思い。“あの子”が離れたところにいる友達なのか、かつての恋人なのかはわからないが(歌詞のなかで具体的な関係性はまったく触れられていない)、だからこそ聴き手は、それぞれの心のなかで“あの子”を思い浮かべ、後悔と愛情が混ざり合うような感情へと導かれる。最初から最後までしっかりと抑制を効かせ、ひとつひとつの言葉を丁寧に紡ぎ出すボーカルからもシンガーとしての成長を感じ取ることができる。

地下鉄のホームで彼氏(?)に抱っこされたまま移動するMVも話題の「地下鉄」は、後悔と諦めがじんわりと伝わるラブソング。勢いで恋愛できる年齢を少しだけ超えて、“初期衝動の演技じゃ泣けないね”と思いながら、恋人との関係を続ける女性を描いたこの曲は、アラサー女性を中心に強い共感を集めている。ロックンロールをベースにした軽やかなサウンド、切なさと愛らしさを共存させたメロディも魅力的だ。
“なんにもしなかった今日も”というフレーズから始まる「DECEMBER」も強く心に残る。

この楽曲の主人公は、夢の途中で挫折しかかっている女性。“まだ愛したい夢があるんだ”という思いを抱えながらも、実際はベッドから出ることすらできず、日がな一日、何もしないで時を過ごしている。かなりシリアスな状況ではあるが、それを彼女はまるで傍観者のように眺めながら“あたしはなんでこんなんだろ”と呟く。絶望や諦念を叫ぶのではなく、行間から滲み出るような思いを響かせる歌も素晴らしい。

もう1曲、アルバムの最後を飾るバラード「お花になりたい」にも触れておきたい。おおくぼけい(アーバンギャルド)によるクラシカルなピアノと彼女のボーカルが心地よく溶け合うこの曲からは、歌という表現に対するあまりにも深い思い、そして、“自分自身のなかにある悲しみを歌にしたい”という決意が強く伝わってくる。深淵なラブソングにも聴こえる「お花になりたい」は、現時点における“シンガーソングライター・坂口喜咲”の真骨頂だと思う。

リアルな感情から生まれた歌を幅広いリスナーが共感できるポップスへと昇華させる坂口喜咲。「あなたはやさしかった」に収められた楽曲は、リスナーの日々に寄り添い、少しだけ前向きな気持ちを生み出すきっかけになるはずだ。

文 / 森朋之

オフィシャルサイト
http://kisaofficial.tumblr.com

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