佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 50

Column

ギャランティーク和恵~歌謡曲をうたい継いで次の世代に伝えたいという想い

ギャランティーク和恵~歌謡曲をうたい継いで次の世代に伝えたいという想い

ギャランティーク和恵さんが2003年から2013年まで、自らのHPに書きつづけた「夜の七変化」というタイトルのコラムには、アルバイト生活をしながら歌手活動を始めたころからの様子が、簡潔な文体で忌憚なく綴られている。
たとえば初めの頃はこんな状況に置かれていた。

アタシの今のバイト先はホテルの掃除なんだけど、
個室には必ず有線があるじゃない?
で、ベッドメイキングや清掃の合間に好きなチャンネルを付けて、
普段出せないくらいの大きな声で唄ったり、
なりきって激しく踊ったりしてるの。唯一の楽しみ。

一番欲しいのは「物干し台」。
国分寺のオリンピックに3,800円で売ってたけど、買えない…。
そして次に欲しいのは靴下。そしてボディーシャンプー。
その次にトイレットペーパーかな。ハコティッシュでまかなえるけど。

いつになったら普通の人みたいに生きていけるのかな。
仕事は見つかったけど、毎日お腹を一杯にすることがとても重要だから、
無駄に買い物出来ない。もう一個バイト探さないと。

ビルの階段で道行く人たちを見ながら、
押し殺すように歌を唄っていたら、
どうしてもピアノが欲しくなった。

そのコラムのなかには時おり、福岡に住んでいる両親への思いと確執出てくる。

和恵さんはゲイであること、そして女装癖があること、さらには歌手という普通ではない職業を選んだこと、そのいずれも両親には理解してもらえないだろう思って、故郷の福岡に帰っても実家には立ち寄らず、接触を避けて心を閉ざしていた時期があった。

かたくなだった心が溶けていったのは、2005年に結成された「星屑スキャット」に参加し、新たに始まった音楽活動によるものだった。

ミッツ・マングローブとメイリー・ムーの3人による「星屑スキャット」は、エンタテインメント性の高いグループを目ざして、新宿2丁目を中心とした活動のほかに全国各地のイベントやコンサートへも出演し、個性豊かな歌声と洗練されたハーモニーで歌謡曲を聴かせていった。

歌手を始めて10年が経ったころでしょうか。ワタシが参加するユニット「星屑スキャット」のメンバー、ミッツ・マングローブさんがテレビに出演することが多くなっていき、それに合わせて星屑スキャットもテレビ出演することが増えていきました。

わたしがテレビ番組に出演しているところ偶然見ていた母が、女装して歌っているワタシの姿を見て、「この声はワタシの息子よ! 私には分かるわ。だって、私が産んだ子ですもの!」と、母親の本能で見抜いてしまったのです。

ワタシがゲイとして目覚めた12歳くらいから、かれこれ25年くらいものあいだ、親を悲しませたくないという想いで、自分の素性がバレることを恐れて生きてきたはずだったのですが、星屑スキャットでのワタシの活動を知ってから母親は、悲しむどころか「ミッツさんに会いたい」だの、「女装すると私に似てない?」だの、こちらの心配をよそに結構楽しんでくれていて、ずっと悩んでいたカミングアウトが思っていた以上にすんなりと受け入れられ、これもミッツさんが有名になってくれたおかげだな……と、いつも揉めてばっかりの彼女にも、このときばかりは神様のように思え、天に向かって手を合わせたものでした。

2012年に「マグネット・ジョーに気をつけろ」でメジャー・デビューした星屑スキャットは、今年の4月21日には6年越しとなるファースト・アルバム『化粧室』を発表している。

和恵さんはそれまで全く出来なかった親孝行というものを実行すべく、年に3回ほど実家に帰るようになったという。

和恵さんの音楽活動は1999年に「真夜中のギャランとハローロマンチカ」という歌謡集団を主宰し、ヴォーカルを務めたところから始まった。
その後、作家でシャンソン歌手の戸川昌子が経営する渋谷「青い部屋」のオーディションを受けて、2002年にソロ歌手「ギャランティーク和恵」としてデビュー。
その後は都内のライヴハウスやクラブなどで、1960年代から80年代の歌謡曲黄金時代の楽曲を中心としたライブを行ってきた。

そして歌謡曲を懐メロとしてではなく、日本の新たなスタンダー・ソングトとして、有名無名を問わず独自の解釈と感性によって選曲し、自ら歌って演じるというスタイルを確立していった。

2007年9月には歌手活動をしながら新宿ゴールデン街で、Snack「夜間飛行」をオープンさせて今も続けている。

2016年から始めた「ANTHOLOGY」シリーズは、和恵さんが今までに歌ってきた歌謡曲の隠れた名曲を、新たに3曲づつCD化した作品集だ。

これまでに第5集まで発表しているが、第1集には太田裕美の「煉瓦荘」が収められている。
この曲はシングルではなかったために一般にはあまり知られていないが、切なくもまぶしい青春と再び出会う物語が展開する名曲だ。

和恵さんはこの歌との出会いについて、自分のコラムこんな文章を書いている。

この曲は2014年に行われた太田裕美さんの歌手生活40周年のコンサートでも歌われていたのですが、そのコンサートを観に行かれた作詞家の松本 隆さんが、ご自身のツイッターで印象的な発言をされたことがきっかけで、ワタシも大好きになりました。

そのツイートとは、コンサートで太田裕美さんが「煉瓦荘」を歌い出すまで、松本さんはご自身が書かれたその詞の内容を忘れていたそうなのですが、歌に聞き耳を立てていると、いつの間にか目から透明な水が流れていた、というものでした。

この「煉瓦荘」の歌詞の主人公である「詩人」は、まだ詩人として売れていなかった若かりしころに、「デザイナーの卵」だった恋人と付き合っていたのですが、あるとき何かのきっかけで、その恋人が当時住んでいた井の頭(東京・吉祥寺)を訪れることになります。

松本さんのツイートがきっかけとなって、和恵さんは「煉瓦荘」を自分のレパートリーとして歌うようになった。

あれからは詩を書き続けた
哀しみにペン先ひたして
想い出で余白をつぶした
君の名で心を埋めた

井の頭まで行ったついでに
煉瓦荘まで足をのばした
運良く君が住んでた部屋が
空室なんで 入れてもらった
煉瓦荘 売れない詩人とデザイナーの卵
煉瓦荘 窓まで届いた林檎の木の香り
倖せの形は見えない
でもぼくは心に描ける
椅子の影 シーツの襞にも
倖せの尻尾が覗いた

学生時代に東京のアパートで暮らし始めた美術大学に通う「デザイナーの卵」は、そのまま和恵さんに重なるので、シンパシーを感じずにはいられなかったという。

そもそも和恵さんが歌謡曲を好きになったのは、幼少期にテレビで「懐かしの歌」として流れていた、山本リンダの「狂わせたいの」がきっかけだった。

そのときに歌だけではなく衣装やサウンド、空気感によって作り出された、トータルな世界観に魅了されたのだ。

歌謡曲をうたい継いで、次の世代に伝えたい‥‥
そうした想いを原動力にして音楽活動を続けて、着実に成長してきた和恵さんの今後に期待したい。


ギャランティーク和恵さんの楽曲はこちら
星屑スキャットの楽曲はこちら

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。
「マイ・ラスト・ソング」では構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

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