Interview

幼い姉弟の餓死事件…「この残酷な事実から生まれたのがスパイ小説だった」吉田修一の最新作『ウォーターゲーム』

幼い姉弟の餓死事件…「この残酷な事実から生まれたのがスパイ小説だった」吉田修一の最新作『ウォーターゲーム』

作家生活20周年を迎えた吉田修一がこのたび、『ウォーターゲーム』を上梓した。本作は、アジアを舞台に活動する産業スパイ・鷹野一彦を主人公としたシリーズで、『太陽は動かない』『森は知っている』に続く三作目。水道事業民営化の利権をめぐる国内外の企業や政治家の攻防、ダムの爆破事件をきっかけに蠢き出す人々の欲望。鷹野は“35歳定年”を間近に、最後のミッションに挑む――怒涛の展開に読む手の止まらないスパイ・エンタテインメント大作だ。同シリーズで初めて本格的なエンタテインメント作に挑んだという吉田に、三部作へ込めた思いと、執筆の源について話を聞いた。

取材・文 / 四戸咲子 撮影 / 宇壽山貴久子 


©吉田修一/幻冬舎

まず、三部作のシリーズにしようという構想は、最初からあったのでしょうか。

一作目『太陽は動かない』を書き終えてから、二作目のことを考えていった感じでした。ただ、大きな構えの物語にしたいとは思っていました。僕は時系列で書くつもりでしたが、担当編集者に「過去に一回戻るのも面白いですよね」と言われて、二作目『森は知っている』では主人公の青春時代を描いてみたいと思いました。

『太陽は動かない』では、アジアのエネルギー開発をめぐって繰り広げられる情報戦をテーマに産業スパイ・鷹野一彦の活躍が描かれます。スパイ小説を書こうと思ったきっかけは?

大阪で幼い姉弟2人が母親に閉じ込められて餓死してしまった事件がありました。その事件を書こうと思ったのがきっかけです。編集者に「かなりシリアスな話になります」というところまで相談して、書き進めていたんですが、執筆途中で、その子供たちのことを部屋の外側からしか見ていなかったことに気づいたんです。なので、徹底的に子どもたちの気持ちになってみようと思って、執筆を一旦中止していたんですが、あるとき、ふと子供たちと同じ部屋の中にいるような感覚になったんです。そしたら、とにかく「外に出て遊びたい」っていう声しか聞こえなくなってしまった。これを、この思いを形にしたいと思いました。スパイ小説という物語のなかで子たちができなかったことをやらせてあげよう、と。

そうだったんですね。そして二作目は、一作目の前日譚にあたる、鷹野の高校時代のエピソード。彼がスパイとしての一歩を踏み出した背景や、南の島の高校での友情や初恋なども描かれています。

舞台になっている南蘭島は架空の島なのですが、この島、実は、十年近くも構想していた青春小説の舞台としてイメージしていたものでした。その場所がずっと自分の中に残っていて、「過去に戻ったらどうですか」と編集者に言われた時に、パチッとはまった。「あ、あの島にいたのが彼らなんだ」って。

吉田さんは作品を書かれる際、テーマや内容よりも場所が先行することが多い、という話を読んだことがありますが、まさにそういうことですか?

まさにそうですね。場所に物語が呼ばれた感じです。書いていると、こうして何かがパチッとはまることってあるんです。うまい具合に転がる時って、いろんなものがパチパチッて、パズルのピースのようにはまっていくんです。それが多ければ多いほど気に入った作品になりますね。

場所だったり事柄だったり、吉田さんが持っているいろんなピースがつながる。それは作り手として、楽しい体験ですか。

楽しいですよ。自分が進んでいる道が間違っていないと思えますし。

彼らの疾走感というか、今生きている感じが出せればと思って書きました。

今回の三作目『ウォーターゲーム』は、一作目の4年後の設定です。31歳だった鷹野は、エージェントの規則である“35歳で定年”を間近に控え、最後となるかもしれないミッションに挑みます。前作からさらにスケールが壮大になり、アクションシーンも展開もパワーアップしていて、大興奮でした。

一作目、二作目を今読むと、どこかちょっとシリアスというか、重いところがあるんですが、そういうのを一回取り外して、彼らの疾走感や今生きている感じが出せればと思いました。シリーズものですが、三作とも書き方も、自分の思い入れも違うし、本当にタイプの違う三作ができたなと思います。

鷹野は闇を抱えているけれど、一作目では寡黙で男らしく、少し優しい部分もあり、二作目の青春時代は、ごくごく普通の朗らかな少年、今作では、経験や年齢を重ねて一作目よりもさらに頼もしく、とても魅力的な男性になっていますよね。多くの女性は好きなタイプなんじゃないかな、と(笑)。

一作目と二作目は鷹野が自分の人生で何かを失った話なんです。でも、三作目だけは、鷹野が何かを得ていく話になっているので、そう言っていただけると、うれしいですね。

三部作通して、魅力的で個性的なキャラクターばかりでしたが、特に思い入れがある人物はいますか?

難しいなぁ……。好きな人物はたくさんいるんですが、でもやっぱり三部作通して、結局最後まで謎のままなのは、アヤコですね。

折に触れて鷹野に接触してきますが、絶世の美女という以外に素性のわからない謎の女性ですね。

僕も書いていながら、本当に全然わからないんです(笑)。

鷹野のライバル的存在のデイビット・キムとアヤコは本当に神出鬼没で、敵なの? 味方なの? と、彼らの暗躍ぶりにみごとに翻弄されました。

それはよかったです。素性という意味では、デイビット・キムのほうは、まだなんとなく想像がつくんですけど、アヤコは諦めています(笑)。セオリーになるかはわからないですが、いわゆる“物語を読む”小説では、登場人物の背景を書き込んでいくことで魅力が増すのですが、一方で背景を知ることで魅力がそがれていく場合もある。そういう意味で言えば、アヤコって本当に何の情報もないので、逆にもう背景を考えるのをやめたんです(笑)。でもそうすると、書いていて楽しいんですよね。

人物の背景を書き込まない、というのは楽しいことなんですか?(笑)

何か一個背景が決まると、人物像は固まるものなんですよね。だから、ここまで“何も情報がない”という感じで書いた人物はアヤコが初めてかもしれないですね。いくら追いかけても捕まえられない感じです。

書いてる間も、もう疾走感ですよね、最初から最後まで。それは初体験でしたね。

今回、三部作通して、陸海空、あらゆる場所でアクションシーンが展開されていますよね。吉田さんの作品で、ここまで振り切ったアクションシーンは描かれていないと思うのですが、そういったシーンを書く楽しさ、または難しさはありましたか?

もともと、『007』シリーズなんかのアクション映画が好きなんですよ。ただ、それと自分が書く小説とは今まで繋がっていなかった。小説として書いたのはもちろん初めてでしたけど、難しいというよりは楽しいほうが大きかったです。簡単とは言いませんが、動きがあるものって書けるんですよ。動かないものを書く方が難しい。三作目は新聞連載で、連載時にはまだシリアスなテーマを持って書いていたけれど、書籍化するにあたってそういうものを一旦外して大幅に書き換えたんです。すると、途端に足取りが軽くなりました。いわゆる疾走感ですよね。初体験でした。ゲラを読む時にも、推敲というよりも、一読者として楽しく読んでしまって。

ちなみに、作中に出てくる中華料理がとってもおいしそうでした。鷹野と田岡が中国の片田舎で入るちょっとした食堂の料理とか、夜中に読んでいると、もう飯テロ小説的な感じで……。

このシリーズでは、アジアという場所を書きたかったですからね。それと、シリーズの世界観が非現実的な話なので、料理とか、そういった日常のディテールを、特にリアルなものにしようということは一作目から考えていました。二作目で鷹野が最初のミッションに挑む際、香港のホテルで、ルームサービスを過食気味に食べる場面を書いたのですが、もともとは餓死した子どもたちの話なんですよね。

このシリーズは吉田さんにとってどんな作品になりましたか?

人生で何かを得るという喜びってあるじゃないですか。三作目を書き終えた時、それを素直に感じられたんです。そういったものを描くのであれば、スパイ小説のような突飛な世界ではなく、日常の暮らしの中の話でもきっと成立すると思うんですよ。例えば、『パークライフ』のような話でも、このテーマは書ける。ただそれを、スパイ小説というエンターテイメントの世界で見たからこそ、この喜びがストンと心に落ちてきたんだと思います。もしかすると、これがフィクションにしかできないものの、何かヒントになるのかもしれませんね。

吉田さんが最初におっしゃっていた「外に出て遊びたい」と思っていたんじゃないかという彼らの願いは、叶えてあげられたと思いますか?

どうなんでしょうね……。でも、さきほど三作目の鷹野が魅力的だったと言っていただきましたが、自分でも、もう羨ましいレベルの人になっているんですよ。一作目は、やはりどこかで彼の生い立ちに対する同情があった。それが今では単純に彼の生き方が羨ましい。自分があの子たちをフィクションの中とはいえ、救えたかどうかはいくら考えてもやはり分かりません。ただ、鷹野が作者が羨むほど成長した、というのは間違いないと思います。

小説のために何かを探そうっていうのは全然ないんです。

作家生活が20周年を迎えられたということですが、今後、書きたい題材などはありますか? 約1年間の新聞連載を終えられたばかりですが……。

常に2つ、3つぐらいは、こういうのが書けたらいいなというテーマは持っています。ただ、小説のために何かを探そうという生活は相変わらずやってないですね。

この三部作しかり、吉田さんは実際に起こった事件をモチーフにされていることが多いですが、どうしてこの事件に注目したのかなといつも気になっていたんです。何か吉田さんの心に引っかかる基準はあるのだろうか、と。

10年ぐらい前に、雑誌の企画で写真家の森山大道さんと対談したんですが、森山さんって物事を、色っぽい・色っぽくないで分けていて、「吉田さんが選ぶものって色っぽいよ」と言ってくださったんです。シビれましたね。色っぽいさなのかどうかは分かりませんが、間違いなく何かの基準はあるんだと思います。

場所ありきで作品を書かれるということで、やっぱり場所にも色っぽさがあるということですか?

ありますね。森山さんとも話しましたが、町には性別があって、男町と女町がある、と。そうなると、僕が好きなのは、やっぱり女町なんですよ。例えば港町や繁華街。僕が港町出身というのもあるだろうけど、以前、ある方に「吉田さんが書く小説の場所は海抜が低い」って言われたんです。やっぱり海に近い部分があるんでしょうね。

私は、吉田さんは、「水」がお好きなのかなと思っていたんです。長崎のお話しはもちろん、初期の『Water』をはじめ、とにかく池や川、海が出てくる作品が圧倒的に多いですよね。それこそ今回の三部作もそうですし。

水は本当に好きですね。この世で一番好き(笑)。もちろん飲み物としてはもちろん、お風呂もプールも好きだし。実はちょっと恐怖症のところもあって、芝居とか映画に行く時、水を持っていないと不安になるんですよ。そのエピソードを、そのままこの「ウォーターゲーム」にも書いているんですけど(笑)。

吉田修一(よしだ・しゅういち)

1968年長崎県生まれ。法政大学経営学部卒業。97年「最後の息子」で第84回文學界新人賞を受賞。同作が第117回芥川賞候補となる。2002年『パレード』で第15回山本周五郎賞、「パーク・ライフ」で第127回芥川賞、07年『悪人』で大佛次郎賞と毎日出版文化賞、10年『横道世之介』で柴田錬三郎賞を受賞した。他に『怒り』『犯罪小説集』など著書多数。

書籍情報

シリーズ最新刊!
『ウォーターゲーム』

吉田修一(著)
幻冬舎

突如ダムが決壊し、濁流が町を飲み込んだ。死者97名、行方不明者50名を超える大惨事。被害を取材する新聞記者の九条麻衣子は、生存者の証言から、事故が大規模な犯罪によるものである可能性に気づき、決壊当夜に町を抜け出した土木作業員・若宮真司を捜し始める。一方で、産業スパイ組織・AN通信の鷹野一彦は、依頼を受けて、部下の田岡と共にダム爆破の首謀者を追っていた。さらなる爆破テロの噂もあるなか、若宮を発見し、事件の真相に近づいた九条のスクープが、政財界を揺るがす大スキャンダルを巻き起こす――。震えるほどの圧倒的展開と、度肝を抜く大どんでん返し。小説の無限の可能性を指し示す、超絶スパイ・エンタテインメント、誕生!!


手に汗握るスパイアクション第一作!
『太陽は動かない』

吉田修一(著)
幻冬舎文庫

新油田開発利権争いの渦中で起きた射殺事件。産業スパイ組織AN通信の鷹野一彦(たかのかずひこ)は、部下の田岡と共にその背後関係を探っていた。目的は、機密情報をいち早く入手し、高値で売り飛ばすこと。商売敵のデイビッドと謎の美女AYAKOが暗躍し、ウイグル過激派による爆破計画の噂もあるなか、田岡が何者かに拉致された。謀略、疑念、野心、裏切り、そして迫るタイムリミット……。それぞれの思惑が水面下で絡み合う、息詰まる情報戦の末に、巨万の富を得るのは誰か?


スパイ誕生秘話とは?シリーズ第二作!
『森は知っている』

吉田修一(著)
幻冬舎文庫

南の島で知子ばあさんと暮らす十七歳の鷹野一彦。体育祭に興じ、初恋に胸を高鳴らせるような普通の高校生活だが、その裏では某諜報機関の過酷な訓練を受けている。ある日、同じ境遇の親友・柳が一通の手紙を残して姿を消した。逃亡、裏切り、それとも――!?その行方を案じながらも、鷹野は訓練の最終テストとなる初ミッションに挑むが……。