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北原里英の醸す“エロス”に小松準弥&松村龍之介らの“愛”が絡み合う。夏空を“つかこうへい”色に染める「『新・幕末純情伝』FAKE NEWS」上演中!

北原里英の醸す“エロス”に小松準弥&松村龍之介らの“愛”が絡み合う。夏空を“つかこうへい”色に染める「『新・幕末純情伝』FAKE NEWS」上演中!

7月7日の七夕より、つかこうへい生誕70年記念特別公演「『新・幕末純情伝』FAKE NEWS」が上演中だ。1989年に初演され幾度となく変化を遂げてきた、劇作・演出家の故・つかこうへいの代表作『幕末純情伝』。本作が装いも新たに、つかこうへい所縁の地“紀伊國屋ホール”で甦える。そのゲネプロと囲み取材が行われた。

取材・文 / 竹下力 撮影 / 岩田えり

人を愛し、人に愛されることの大切さ

終演後の紀伊國屋ホールは、北原里英(沖田総司)の呼吸で小刻みに震える肉体から発する濃密なエロス──生への執着といえばいいのか、小松準弥(土方歳三)や松村龍之介(岡田以蔵)ら役者たちから滴る汗のにおい、そして彼らが腹の底から叫び続けた言葉が脳内にヘビーなビートで反復し、凄まじい音の残響と熱気が充満していた……。

舞台はほぼ素舞台で、奥にスクリーンがあるのみ。役者は肉体ひとつで感情、表情、仕草を表現する。まるでサッカー場のピッチのよう。己のパフォーマンスだけがすべてだ。そんな舞台で彼らが全身全霊をかけて表現したのは、自由への喜び、希望、平和、平等、愛。それらを高らかに謳い上げる壮大な“ゴスペル”だった。今の殺伐とした社会に、こんちくしょうと顎にパンチを一撃食らわせるつかこうへいの、死してもなお現代に根づく“人間みな平等”の強い意志がカンパニーの力によって高らかに空を舞い、七夕の空に瞬いた。在日2世という宿命を図らずも生まれながらに背負ったつかこうへいの願いは、どこでも“自由、平等、平和、無償の愛”がある世界だったのではないだろうか。“つかこうへい”の抱く思想、情愛、願いすべてが一滴残らず板の上に絞り出された舞台。

時代は幕末、徳川幕府は今まさに終わりを告げようとしていた。そこに、燕尾服を着た桂 小五郎(田中涼星)が、ボロを纏った土方歳三(小松準弥)に話しかけていた。「明治がきたが、時代は変わらなかった」という意味の言葉を嘆くように言い放つ。そして、ボロをまとった土方は、すでに肺病(結核)を患っており、喀血しながらこんなふうな言葉を呟く。「沖田と同じ血が俺には流れているんだ……」と。

シーンは変わり、岡田以蔵ら肺病を患った人たちが人知れず住む、二ツ川の河原に名刀・菊一文字宗治とともに捨てられた赤子がいた。その子は、勝 海舟(細貝 圭)に拾われ、女性にもかかわらず、沖田総司(北原里英)と名付けられ、男として育てられた。そして、二ツ川の集落で育ったせいで結核を患いながらも、無敵の剣の達人として美しく成長した。

そんな総司は16歳になった年、兄と慕う勝 海舟の身代わりに“父殺し”の罪をかぶり、京都に逃げることになる。その道すがら、土方歳三や新撰組隊士・二宮(増子敦貴)に出会い、土方から「百姓なら肺病はうつらない。俺の女になれ」といった大胆不敵な告白をされ、驚いた総司だったが土方に恋をする。そして、近藤 勇(久保田 創)率いる新選組に入隊、新撰組のため、土方のため、兄のため、“人斬り”に身を落とすことになった。

総司は、人斬りの名が高くなるさなか、自由で平等な時代を説く自由奔放で豪放磊落な坂本龍馬(味方良介)と出会う。“大政奉還”や“無血革命”のために、危険をかえりみず岡田以蔵とともに奔走し、そして、沖田を将来の伴侶として熱心に口説き出す坂本の姿に、総司はいつしか心惹かれていった。

時代は風雲急を告げ始める。大政奉還の実現のため朝廷に働きかけ、時代の闇を渡り歩いた勝 海舟。「幕府転覆はどうでもいい」とゲームのように勝 海舟を弄ぶ公家の岩倉具視(『北の国から』でプロデューサーを務めた山田良明71歳初舞台!)。様々な人間たちの、ロマン、希望、大義、野望、野心が入り乱れ、ついに、夢見た“自由元年”という名の大政奉還がなされたとき、勝 海舟から、沖田総司へ、すなわち新撰組へ、とある命令が下されるのだが……。

ここで、初めてつかこうへい舞台に触れる人に、3つほど“つか舞台”の注目点を挙げておきたい。ひとつ、今作にかぎらず多くの舞台で、衣装はジャージや燕尾服、Tシャツなどで、側という時代背景に囚われることはない。ふたつ、愛を叫ぶ言葉、甘い誘惑、時には入り乱れる新聞にさえ載せられないようなダークな時事ネタ、ブラックユーモアなどの言葉の妙技が、シリアスとエロスとユーモアを生み出している。そして、それらを生み出す理知的であり、狂気を孕んだ言葉の乱射が、渦になり客席に押し寄せると圧倒的なカタルシスが心に巻き起こる。3つ、ひたすら熱い、熱すぎる。この3つを胸にしまえば、客席で何が起こっても、びっくりすることなく、すんなりと舞台にのめりこめるだろう。

沖田総司の北原里英は、舞台で唯一のミューズだ。赤い上下の白のラインが入ったジャージを着ているが、ジャージは、彼女の体にはやや小さくタイトで、胸の膨らみやお尻のラインがしっかり見える。「俺」や「僕」と“男”を振る舞うのに、誰が見ても“女性”であるという倒錯性を、舞台上でいやらしくなく発揮。「男だろうが女だろうが知ったことか」と男たちに容赦なく蹴りを入れる凛とした佇まいが清々しい。そんな彼女は、颯爽と殺陣を披露し、時に妖艶にダンスし、男に胸を鷲掴みにされようが、肺病を患おうが、それでもなお激動の時代を強く生きる様が心を打つ。彼女は“つか舞台”の『新・幕末純情伝』、10代目・沖田総司に恥じぬ演技で、周囲の男たち(観客席も)を黙らせる圧巻の存在感を放っていた。

坂本龍馬 役の味方良介は、分厚い辞書を暗唱できるほどのセリフ量を淀みなくこなしながら、飄々とした仕草でどこまでも自由に舞台で生きていた。彼の行動理念は、“平等”と“愛”。そんな一本気の演技に男子なら間違いなく憧れるかっこよさ。歌舞伎のように思わず「よっ、味方屋!」と合いの手を入れたくなった。

土方歳三を演じた小松準弥は、「卑屈な役」とインタビューで答えていたけれど、最初は自分のものだと思っていた沖田が、次第に坂本龍馬になびいていく姿に嫉妬する様子は、世の中における“愛”の喜びの裏にある“切なさ”や“悲しさ”といった普遍的な感情を実によく表現していた。「一番感情移入しやすい」とも言っていたが、これから観劇する男子は、“あるある”と唸ってしまうはずだ。

桂 小五郎 役の田中涼星は、坂本のような自由奔放さに憧れつつも、そうなれないもどかしさを抱えつつ、権力を乱用したゆがんだ愛で無理やり沖田を自分のものにしてしまおうとする。彼の足が長く、ほっそりした体躯が、桂のやるせない“業”を一層際立たせてもいた。どこか彼の行動が現代の政治のカリカチュアに見えてしまうのは、おそらくつかこうへいが抱いていた“時代に対する憤り”なのかもしれない。

新撰組隊士・二宮を演じる増子敦貴は、将来時代が変わり、身分制度がなくなった折には、教師になりたいと夢見る少年。イノセントでありながら、次第に沖田総司に惹かれ、恋をし、大人になり、強くなっていく様を丁寧に演じていた。

岡田以蔵 役の松村龍之介は、まず、司馬遼太郎の小説名から名付けられたという「人斬り以蔵」の名のとおり、『戦国BASARA』シリーズで鍛えた素早い殺陣が見事だった。「すべての“愛”は龍馬と総司に向かっている」とインタビューで答えてくれたが、彼は自分の身を顧みず、龍馬と総司のために生きる。いや、生きなければならないという強迫観念がひしひしと伝わってきた。そんな彼の無償の“愛”を感じれば涙腺が緩んでしまうことこのうえないことだろう。

瞼にアイシャドウを施した勝 海舟 役(細貝 圭)はどこかピカレスクで、坂本龍馬とは正反対の性格として存在する。つまり、たとえ自由で平和な時代がきたとしても、何ひとつ変わらないという現実的で悲観論者でもある。ある意味、つかこうへいの心の奥底に根づく現実の世界に落胆したダークな思想の象徴でもあるのだろう。ただ、ひとつだけはっきりわかるのは、彼は自分の妹(弟!?)を愛している、ということ。そのダークな性格と、妹(弟)を愛する禁忌を冒したくない理性の間で揺れ動く身悶えせんばかりの演技がエロティックで、大きな体躯と相まって、怪しげで不気味なオーラを纏っていた。

演出の河毛俊作は、まるで今でもつかこうへいのアドバイスを受けているかのように、彼の“意志”や“魂”を舞台上に緻密に再現していた。

この舞台で何を感じたらいいのか、答えは誰にもわからない。しかし、どうにでも解釈できる、空に手を伸ばせば掴めそうな“自由”がある。そして、終演後に誰にも“平等”に与えてくれる感動は、まさに“つかこうへい”が目指した演劇の面白さではないだろうか。つかこうへいは、これからだってずっと、空の上から見守りながら、我々を叱咤激励していくのだろう。

公演は7月7日から、つかこうへいの命日の10日(つかこうへい命日特別公演が実施される予定)を挟み、30日まで紀伊國屋ホールにて上演される。

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