黒川文雄のエンタメ異人伝  vol. 18

Interview

ファミ通表紙 松下進氏(上)路上に絵を描く少年が、音楽と出会いバンドマンへ

ファミ通表紙 松下進氏(上)路上に絵を描く少年が、音楽と出会いバンドマンへ

とにかく絵が上手いヤツはデザイナーになるといいよ・・・って

中学時代は音楽にハマったわけですが、高校時代はどうだったんでしょうか。普通の高校に行かれたんですか?

松下 高校はね……教育問題になっちゃうんですけど、美術の成績がいいと誰でも彼でもデザイナーになれ、みたいな時代だったんです。「お前、デザイナーがいいんじゃないの」みたいな。当時の中学の教師っていうのが、いかに適当だったかってことですよ。一口にデザインっていっても、いろんなデザイナーがいるわけでしょ? でも、そんなことも先生は分かっていなくて、とにかく絵が上手いヤツはデザイナーになるといいよ・・・って。

はあ~。

松下 で、僕は鷺ノ宮のほうの中学に通っていたんですけど、その近くに外国人の経営する5年制の工業専門学校っていうのがあるんだ・・・・・・と。優秀な人材をいろいろ輩出しているところで、工業デザイン科っていうのがあるから、そこに入ればいいよって言われて。それで、よせばいいのに見学会に行ったんですが、その学校は製図の部屋とかが全部キレーイに分かれていて、ものすごく合理的にできてるんです。部屋のデザインも良くて、当時の最先端のドラフター(製図台の一種)がダーッと並んでたりしていてね。こんなところで勉強できるのか、いいなあとか思っちゃったんです。ドラフターなんて絵に全然関係ないのにね。

ハハハハ、確かにそうですね。

松下 それで、「よし、ここを目指そう」と。一生懸命勉強して、かなり倍率は高かったんですけど、どういうわけだか受かっちゃったんですよ。

それは実力があったということではないですか?

松下 いや、美術的なことはあまり関係なかったんです。その学校の試験はどっちかっていうと理数系だったんですよ。理数系って僕の一番不得意なジャンルなんです。僕はどっちかっていうと文化系ですから。それなのに、そのときたまたまうまくいったのか分かりませんけど、なぜか受かっちゃってね。それでも、入学して最初の1年ぐらいは基礎課程だったから美術の授業もあって、石膏のデッサンとか絵に必要な基本的なことをやるわけです。だから、ああこういう学校に入れてよかったって思ったけど、そのうちに工業デザインって僕がやってきたような絵とは全然違うってことが見えてきたんですね。

ああ~なるほど、なるほど。

松下 途中から、計算尺(注13)とかが出てきたりして、なんのことだかさっぱり分かんない。で、僕はそういうのがやりたいわけじゃなかったから、学校はただ単に通うだけになってね。勉強なんかほとんどしないで、音楽活動の方に没頭していました。だから、先生ともソリが悪くて、いっつも追試でしたよ。これでお前はもう今季は落第だろとか言われてね(笑)。そうやって脅迫されながらもギリギリのところで、なんとか踏みとどまったみたいな感じでした。

注13:複雑な掛け算や割り算などができる物差し型のアナログ計算器。三角関数や対数などの計算も可能で、電卓の登場以前は電気や建築など多方面の分野で利用されていた。

そうだったんですか。卒業はされたんですよね。

松下 はい。ただね、その学校は工業デザイナーになりうる生徒たちを育てているわけですから、日立製作所とか東芝とか、そういう一流企業からいろいろ求人が来るんですけど、僕はそういうのに一切興味がなくてね。先生も先生で僕に斡旋とかしなかったです。「君はバンドかなんかやるんでしょ?」みたいに思われていましたからね。不良ですよ。当時はエレキのギターケースを持って歩いているだけで、不良だって言われましたからね。

当時はそうでしたよね。グループサウンズの前ですもんね。

松下 「ろくでもない息子だよね、あそこの次男」って、ハハハハ。

バンドでプロを目指すという決意だったが

では、バンドはその頃からプロ志望のつもりで?

松下 はい、完全にプロを目指していましたね。

それは松下さんが弾いて歌ってみたいな感じですか、それともインストタイプですか。

松下 インストがメインだったんですけど、歌もやったりしていましたね。

なるほど。つまり、高校卒業後もミュージシャンになることを前提で活動を続けられたと。

松下 そうです。でも、現実的な事情がいろいろ出てくるわけですよ。当時のメンバーには小学校からの竹馬の友がひとりいたんですけど、彼は商業高校だったのかな。だから、高校を出たら就職しなきゃいけないみたいなね。ベースのヤツもそうで、同じ高校だったんですけど、やっぱりちょっとできないと言って、結局僕とドラムをやってたヤツだけになって。彼も親が商売をやったりしていて、僕と似た境遇だったんですね。

ええ、ええ。

松下 これはもう、ふたりでやっていくしかないっていうことで、いろんなバンドに売り込みにいったりしました。このバンドはちょっとドラムとリードの音が弱いから、オレたちのほうがいいとか、ちょっと1回テストしてみてくださいとか、いろいろひんしゅくを買いながらね。それで、プロにちょっと近づいたっていうか、プロデビューできそうってところまでいったんです。

すごいですね。そこまでいかれたんですか。

とある有名人のバックバンドとしてデビュー寸前まで行った話

松下 そうなんです。それはあるメインになる方がいて、その方が自分の専属のバンドを募集していたんですよ。それで、僕らが候補に上がって。もう何月にデビューってところまで決まっていたんですけど、その話が土壇場でなくなっちゃったんです。

それは何があったんですか?

松下 その方は歌舞伎界の人だったんです。やっぱり歌舞伎のスケジュールは大変だし、ちょうどその頃にミュージカルとかもやり始めたんですよ。ちょっとお名前は申し上げられないんですけど。

そうなんですね。でも、それは大きなチャンスでしたね。

松下 そうなんです。ちょうどその頃って加山雄三さんがエレキを持って、若大将ですごい人気になったでしょ。それに対抗したってわけではないでしょうが、その方もご自身で作詞作曲したりしていて、第二の加山雄三みたいな感じだったんです。さらに僕が好きだったシャドウズが好きで、ご自分でもベースをされたりしていたんですね。それで、この人たちの音はいいからって言ってくださって、僕たちが候補になったんです。

けっこうとんとん拍子でそこまで話がいったんですけど、すぐにミュージカルの舞台に出ることが決まっちゃって。当時は、まだ日本の舞台で日本の人たちがやるミュージカルってあまりなかったんですね。だから、今後は日本もそういうものをエンタテインメントとしてやっていかなければいけないし、やっていきたいと。で、君たちみたいな若い人たちを僕の勝手なスケジュールで振り回すことはできないから、将来的なことを考えて、やめておこうって話になったんです。

そうだったんですか。

松下 はい。もうね、そこでガターンって気持ちが折れましたよね。

ここまでやってきたのにみたいなのがあったでしょうね。

松下 そうですね。でも、今の音楽事情とか、いろいろ大変じゃないですか。それを思うと、やらないでよかったです。


続きは第2回インタビューへ
7月17日(火)公開

ファミ通表紙 松下進氏(中)イラストレーターとして独立、そして独学の下積み時代

ファミ通表紙 松下進氏(中)イラストレーターとして独立、そして独学の下積み時代

2018.07.17

著者プロフィール:黒川文雄【インタビュー取材】

くろかわ・ふみお
1960年、東京都生まれ。音楽ビジネス、ギャガにて映画・映像ビジネス、セガ、デジキューブ、コナミDEにてゲームソフトビジネス、デックスエンタテインメント、NHN Japan(現LINE・NHN PlayArt)にてオンラインゲームコンテンツ、そしてブシロードにてカードゲームビジネスなどエンタテインメントビジネスとコンテンツの表と裏を知りつくすメディアコンテンツ研究家。コラム執筆家。アドバイザー・顧問。黒川メディアコンテンツ研究所・所長。株式会社ジェミニエンタテインメント代表。DMMオンラインサロンにて「オンラインサロン黒川塾」を展開中。
黒川塾主宰。ゲームコンテンツ、映像コンテンツなどプロデュース作多数。

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