黒川文雄のエンタメ異人伝  vol. 18

Interview

ファミ通表紙 松下進氏(中)イラストレーターとして独立、そして独学の下積み時代

ファミ通表紙 松下進氏(中)イラストレーターとして独立、そして独学の下積み時代

音楽、映画、ゲームなどを総称するエンタテインメントは、人類の歴史とともに生まれ、時代に愛され、変化と進化を遂げてきました。 そこには、それらを創り、育て、成熟へ導いた情熱に溢れた人々がいます。この偉人であり、異人たちにフォーカスしインタビュー形式で紹介するエンタメ異人伝。

1976年、私がまだ高校生だった頃、平凡出版株式会社(※)から雑誌「POPEYE」(ポパイ)が創刊した。その当時、アメリカンカルチャー、ファッション、クルマ、ホビーなどを総括した雑誌はほとんどなく、瞬く間にポパイは少年たちのココロを鷲掴みにした。(※現在のマガジンハウス)

私もそんなポパイを創刊号から読んでいた。

ある号のことだ、表紙に“Baseball USA”とタイポグラフィーが綴られたアメリカンベースボール特集号が発売された。その表紙イラストはカラフルにデフォルメされた野球選手がフルスイングする姿が描かれたもので、アメリカナイズされたものだった。そして、その表紙のイラストを手掛けた人物が松下進であることを私は後に知った。

その後の松下進の活躍は言うに及ばず、様々なメディア、プロダクツ、ゲームソフトなどで彼の描く松下ワールドとキャラクターが躍動している。

今回の「エンタメ異人伝」は、エアブラシを使ったイラスト手法で日本におけるイラストの概念を大きく変革し、その後も常にアグレッシブな活動と作品発表を行うイラストレーター松下進にフォーカスする。今回のインタビューは、松下進を形成するもの、彼を動かすモチベーションに迫るものである。

※本記事は3回にわたってお届けするインタビューの第2回です。第1回(上)はこちら

インタビュー取材・文 / 黒川文雄


音楽を失ったときに、自分に残っていた才能は絵しかなかった

音楽への気持ちが折れてしまわれましたが、それを救ったのが絵というかデザインだったわけですよね。

松下 こういう言い方すると、ぜいたくだとか言われるんですけど、自分に残されたもので、人よりちょっとでも秀でているものはもう絵しかない。それしか残ってないなって思って、そっちに少しでも近い方向性ということで。まだイラストレーターという地位は確立されていなかった時代で、イラストレーションっていう言葉もなかったと思います。当時はまだ挿絵とか言っていたのかな。

そうですよね。

松下 はい。それで、グラフィックデザインの会社に入ろうと。父親からはウチの店を継げばいいじゃないかとかも言われたんですけ、とてもじゃないけど、そんなのヤダよと。結局、ウチの兄貴も継がなかったですけど、それでよかったと思います。ウチの父親も街の電気屋が今みたいになると予見していて、秋葉原の電気街なんかの大きな問屋とかが、そのうち値段をボーンと下げて売り出すようになるだろうから、あまりこの商売は長続きしないなって言っていたんですよ。だから、継ぐにしろ継がないにしろ、どっちでもいいよみたいな言い方でした。

それで会社に所属されたわけですよね。それは、どういう会社だったのでしょうか。いわゆるイラストのデザインなどを手がける代理店みたいな感じですか?

松下 一番最初に入った会社は、そういう代理店の下請けのデザインプロダクションっていうか制作会社です。当時はまだロットリング(注14)なんかもなくてですね。丸ペンってあるでしょ、ペン先にインクをつけるやつ。あれで版下の表ケイ(注15)とか、0コンマ何ミリの線を引いていたんです。でも、丸ペンって、ちょっと力加減を間違えると線が太くなっちゃうんですよ。だから、同じ細さで30センチ以上引くとか、そんな訓練もしました。今にしてみたら、何のためにやったのって思っちゃうんですけど。

注14:ドイツのロットリング社製の製図用筆記具。正確な細い線が引けるので、現在も多方面で使用されている。

注15:印刷で使用される極細の罫線のこと。

すごい時代だったんですね。

松下 でも、そこで変な集中力とか、手技の大切な部分が身に付いたといいますか。人間ってここまで機械じみたことができるんだ、みたいなことを覚えました。その会社の社長がすごい厳しい方でね。小さい会社で社長自らそういうことをする人だったんで、ずいぶん鍛えられましたよ。

その会社ではチラシを作るみたいな仕事がメインだったんですか?

松下 そうですね、ちょっとしたデザインみたいなこと、まあレイアウトですよね。それと、版下作業。今では写植とかほとんどなくなっちゃいましたけど、当時は紙焼きしたヤツをラバーセメント(注16)でくっつけて。

注16:紙の切り貼りやパンク修理などに使用されるゴム糊の一種。当時、版下などの編集作業の際、このラバーセメントで写真や写植文字などを貼り付けていた。

川崎重工のパンフレット 重機をイラストで描いたら採用された

ラバーセメント、懐かしいですね(笑)。

松下 それで、出来上がってきたら誤字があったりして、アタマ痛い~みたいな。そういう時代を過ごしてきたわけですが、その会社にいた先輩がですね、「君はこういう会社じゃなくて、もうちょっとちゃんとしたトコに入ったほうがいいよ」みたいなことを言ってきたんです。白山下だから後楽園のちょっと先に、当時アダックっていう会社があって、そこは社員が100人ぐらいだったのかな。割と大きな会社だったんですが、ちょうど人材を募集しているから受けに行ってみたらって教えてくれたんですよ。すごい優しい、いい先輩だなと思うじゃないですか。でも、今にして思うと、きっと僕が邪魔だったんでしょうね。

ええっ、そうだったんですか?

松下 社長がすごく僕に目をかけてくれていたんですね。でも、その先輩はずっと前からその会社にいて、社長と一緒にやってきた人だったから、なんかそれがイヤだったのかなあという気がします。分かんないですけどね。でもまあ、彼のおかげで、その会社の試験を受けに行ってパスして。それで、そっちに移ったんですよ。

そうなんですね。

松下 その会社は5人ぐらいのチームが確か5つか6あって、各チームにそれぞれアートディレクターがいるんですね。で、最初に配属されたのが川崎重工とかの仕事をしているチームで、堅いとこに入っちゃったなあと思ってね。それで、デザイナーとして、いろんなことをやっていたんですけど、国際見本市みたいなのを晴海でよくやっていたでしょ? あれに出す川崎重工の一般人用のパンフレットみたいな仕事がきて、僕が重機のイラストを全部描いたんですよ。

重機をイラストで描いたんですか?

松下 ブルドーザーとかそういうのを、わざと線画のボソボソっとした感じの絵で描いてね。どうせ通んないだろうと思ってたんですけど、プレゼンに出してみたら、それが通っちゃったんですよ。そうしたら、それに目をつけた他のチームのボスが来て、「お前、絵でやっていけばいいんじゃないか」って言ってくれたんです。で、実は僕は絵を描きたくて、こういうデザイン会社に入ったんですって言ったら、じゃあ俺がコンバートしてやるからウチのチームに来いと誘ってくれまして。

そのチームはどういったお仕事をされていたんですか?

松下 もうちょっと柔らかいというかね。そこは計算機なんかがよく売れていた電気メーカーで・・・・・・。まだ計算機が、すごいデカかった時代ですけどね。で、モデルのお姉さんに水着を着させて、そのメーカーの計算機を持ってポージングさせてね。それでポスターを作ったりしていたので、こっちのほうがいいなと思ったんです(笑)。

アハハハハハ。

松下 それで、そっちに移ったんですよ。そうしたら、そのチームにはもうイラストレーターがふたりぐらいいたのかな。当時でいうと絵も描ける人ね。この人たちがすごいんです。芸大出の人とかいて、プレゼン用のカンプ(注17)とかスケッチでバァーッと描いちゃうんです。で、こういうアイディアで、こういうポスターを作りませんかっていう社内プレゼンで、必ずその芸大出のヤツに負けるんですよ。

注17:ポスターやカタログなどの仕上がりをイメージさせるための見本のこと。

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