佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 55

Column

生まれ育った京都で活動しているシンガーでラッパー、Daichi Yamamotoという新しい才能に注目!

生まれ育った京都で活動しているシンガーでラッパー、Daichi Yamamotoという新しい才能に注目!

【ライブ・ドリアード2018~音楽が社会に果たす役割・教育がつくる日本の未来~】というイベントに、パネリストの一人として出演させていただいたのは7月11日のことだった。

イベントの企画者である「創造再生研究所」代表理事の小見山將昭さんは、1980年代にチェッカーズのマネージメントを手がけた後、地方活性化・環境・食に関するプロデュースなどで活躍している。
小見山さんがその時、ライブ・ドリアードを始めた10年前にぼくが主張していた考え方を、あらためて来場者に紹介してくれた。

インターネットで人々がつながっているのならば、東京ではなく地方を拠点に生活しながらでも、音楽業界や芸能界という外圧に作品性を歪められることなく、世界に向けた音楽を創造して発信していくことが可能になります。
ということは歴史的な伝統文化を残してきた地方、あるいは辺境だと思われている場所から、新しい才能が生まれ育って世界に発見されるということが、この先はいつだって起こりうるはずなのです。

小見山さんが紹介してくれた自分の言葉を聞きながら、ぼくは「そうか、もう10年が過ぎたのか」という感慨とともに、「なかなか思ったようにはならないなぁ」という、もどかしさを感じていた。

ところがその数日後、京都で生まれ育って活動しているシンガーでラッパーのDaichi Yamamotoという、まさに新しい才能に出会ってしまったのである。

個人的にはこれまで聴いたヒップホップのなかで、声そのものが自然でいちばんなじみやすいし、日本語でも英語でもDaichiならではのグルーヴを感じた。
しかも語っている言葉には、彼にしかない「歌」があった。

さらには多くの人に知ってほしいという「思い=訴え」が、言葉ではなく「歌」としても伝わってきたのだった。

もちろん今の時点では、ぼくの買いかぶり、あるいは錯覚に過ぎないかも知れない。
だが20年前の夏に、まだマスタリング前だった「Automatic」のカセット・テープ音源で、宇多田ヒカルに出会ったときの驚きにも通じるものだったことは間違いない。

Daichiのことを最初に知ったのは、桑原あいのアルバム『To The End Of This World』で、「MAMA」という曲に参加していたからだ。
世界的なレジェンドたちとの出会いを経て、桑原あいが多彩な才能を集めた新プロジェクトによる作品のなかで、「MAMA」には聴けば聴くほど惹かれて、今では特別な曲のひとつになっている。
2018年の日本におけるジャズとラップによる金字塔と言ってもいい「MAMA」は、8月22日にリリースされる予定だ。

そんなDaichiのことが気になって調べていたら、ぼくがジャマイカでレコーディングの仕事をしたときには、必ずサポートしてもらっていた友人の明比くんという人物が、日頃から何かとお世話になっている方の息子だったことが判明して驚かされることになった。

ぼくが本コラムで3週間前に発表した石田昌隆による写真集「JAMAICA 1982」の感想を綴った明比くんからのメールによれば、ジャマイカでの仕事を始めた時に働いていた会社の社長が、友人のひとりであるニック山本(日本人)さんという、団塊世代の有名な人物のことをよく話してくれたというのだ。
その社長が初めて企画したジャマイカへのツアーに参加したニック山本さんは、それまで勤務していた関西電力を辞めての参加だったそうだ。 日本から一緒に行ったメンバーたちは、ツアーの行程に合わせて誰もが予定通りに帰国した。ところがニック山本さんだけはチケットを変更し、しばらくジャマイカに滞在した後に、今度はNYへと足を向けた。

そしてレストランでアルバイトをしながら、隆盛を誇っていたN.Y.のクラブカルチャー・シーンを体験し、ジャマイカとNYを行ったり来たりするようになっていく。
ジャマイカ人の奥さんとともに帰国したのは、1985年の年末のことである。

まだ生まれていなかったDaichiが「MAMA」の冒頭で、その時の母について次のように歌っていることが、ぼくにはかなりの衝撃だった。

MAMA
(Daichi Yamamoto / Ai Kuwabara)

33年前 雪とともに降りた
言葉も分からずに lost in translation
電車
隣はいつも空席

They sayin 見た目weird って
親戚は将来が心配だねぇって
他人事なのさ
Daddy made a reggae bar so she won’t feel lonely
今は開く2人の距離
唯一の救いSandra
Real sis みたいに飲みあるいた三条
冷めた目をduckして、あっそう、
音にのってからfeeling fine like May wine
Missing dat 常夏 coconuts の香り
夏にcool Aid、pink lemonade sugar caneふく汗

Hey I know you like it
夏至の日
海風にのるレゲエ、思い出す、ふいに、
街並み眺めてはまちに眺められてる
Who she isss

ニック山本さんは帰国してしばらくすると、京都市内に「RUB A DUB」という、レゲエ・バー&レストランを開店させる。当時はまだバブルの真っ盛りで、関西でもユーロビートがブームになっていた時代だった。

ニック山本さんはその後、大阪にクラブディスコ「DYNAMITE」、塚口の西武つかしんにカリビアン・バー&レストラン「CAPTAIN AMINGO」、大阪の土佐堀にクラブディスコ「PARANOIA」と、話題になった店舗を次々に展開させていった。

そして自分が体験したレゲエカルチャーとN.Y.のクラブカルチャーがひとつになった、新しいタイプの「KYOTO CLUB METRO(メトロ)」を始めたのが1990年のことで、「メトロ」は音楽を中心にしながらも、映像、アート、ペインティングなどのカルチャーを発信し続けてきた。

「メトロ」は日本で最も古く、かつ革新的なクラブとして知られている。

明比くんは京都で音楽関係の人と話してみて、「ニックさんを知らない人にはまだ会ったことがない」という。
いつ会っても親身に話を聞いてもらえるし、人の悪口は決して言わず、自慢話もしない。
「お金はないで!」という言葉が口癖だそうだが、いつもよく笑う方らしく、何一つ暗い話はせず、人望はとても厚い。

そんなニック山本さんを父に持つDaichiは、美術に関心があったので京都市立芸術大学を受験したが、2回とも落ちてしまう。

そのときに父から「アートをやるなら、海外行った方がええわ」と言われて、イギリスにわたってインタラクティブアートに出会い、専門的に学んだという。

音楽に関してはイギリスに行く前から、「言われなくてもそのうち真剣になるだろうな」と、すでに覚悟とでもいうものが自分のなかにあったらしい。

そしてそのとおりに、はじめてのアルバム『WINDOW』が1週間前の7月25日にリリースされたところである。

これは8曲収録のアルバムで、そのすべての曲をパプア・ニューギニア出身のAaron Choulai(アーロン・チューライ)がプロデュースしている。
そうした情報を知ったのがここ数日のことなので、昨日の夜にAMAZONで購入したアルバムが届いた。
したがってまだ聴き込んではいないが、ジャンルをこえた斬新でクールなサウンドとともに、Daichiのラップやヴォーカルが言語の壁をこえて、変幻自在といった余裕をもって響きわたってくる。

21世紀の日本に現れるべくして登場してきた才能が、どんな人たちと音楽を作っていくのか、未来に注目せずにはいられない。

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。
「マイ・ラスト・ソング」では構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

ウェルカム!ビートルズ 1966年の武道館公演を実現させたビジネスマンたち

著者:佐藤剛
ボイジャー

ビートルズ来日をめぐる人間ドラマを丹念に描く感動のノンフィクション。

1966年のビートルズ来日公演、それは今になってみれば、奇跡的といえるものだった。いったい誰が、どのようにしてビートルズを日本に呼ぶ計画を立てて、それを極秘裏に進めて成功に導いたのだろうか? これは日本の経済復興の象徴だったリーディング・カンパニーの東芝電気と、その小さな子会社として生まれた東芝レコードにまつわる、歌と音楽とビジネスをめぐる物語である。

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