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関ケ原の戦いは「天下分け目」ではなかった!? 「学校では教えてくれない日本史の課外授業」歴史作家・井沢元彦×歴ドル・小日向えり

関ケ原の戦いは「天下分け目」ではなかった!? 「学校では教えてくれない日本史の課外授業」歴史作家・井沢元彦×歴ドル・小日向えり

先月、都内で開催された歴史作家・井沢元彦さんと歴ドル・小日向えりさんによる、電子書店Reader Store限定イベント「学校では教えてくれない日本史の課外授業」。二人の著書6作品の電子化を記念して開催された同イベントには、約100名の歴史ファンが詰めかけました。トークショーでは、幕末佐賀藩最強説や戦国武将・幕末志士イケメンベスト5など、歴史ファンにはたまらない、ここでしか聞けない話が満載。今回、エンタメステーションではその一部を特別レポート! あの「関ヶ原の戦い」は天下分け目ではなかった⁉ 教科書では教えてくれない”歴史の真相”とは――?

あの関ヶ原の戦いは、「天下分け目」ではなかった!?

井沢 歴史作家の井沢元彦です。今日は歴史好きな方がお越しくださったということなので、きっと楽しんでいただけると思います。

小日向 誰だ? と思っている方も多いと思いますので、私も自己紹介をさせてください。ひすとりーっス! 好きな大砲は24ポンドのカノン砲。歴史アイドルの小日向えりです。

小日向 今日は、「学校では教えてくれない日本史の課外授業」ということで、井沢先生には、本にも書けない、ここだけの話をたっぷり聞けたらと思っています。ではさっそく、今回のテーマはこちらです。「天下分け目ではなかった『関ヶ原の戦い』」。

「関ヶ原の戦い」とは?
関ヶ原の戦いは、1600年に関ヶ原で、徳川家康を大将とする「東軍」と、石田三成を中心とする反徳川勢力の「西軍」との間で行われた合戦。西軍は総勢10万、東軍は総勢7万が関ヶ原に陣を構えた。濃霧の中で睨みあいが続くが、霧が晴れたところで福島正則の部隊が、宇喜多秀家隊に鉄砲を撃ち掛け、火蓋が切られた。西軍は多くの将が様子見で戦に参加せず、戦闘したのは3万程度だったが、地形的有利が働き、当初は西軍が有利に展開。しかし、東軍の黒田長政らが、事前に西軍の小早川秀秋らに、東軍に寝返るよう調略していた。戦いが始まるも、東軍に寝返るか決め兼ねていた小早川秀秋にしびれを切らした徳川家康は、秀秋の陣を目がけて大砲を撃ち掛けた。それをきっかけに小早川秀秋は、西軍を裏切り大谷吉継らの陣に突撃を開始。さらに他の武将らも次々と西軍を裏切り、東軍として戦いに加勢した。徳川勢の調略が功を奏し、西軍は総崩れとなり、東軍の大勝利となった。

井沢 これはね、最近、私いろんなところで言っているんです(笑)。キーポイントになる合戦だったことは間違いない。だけど、あの時、真田幸村のお父さん・真田昌幸とか、黒田官兵衛は、もっと長引くと思っていたんだよね。

小日向 そうですよね。

井沢 黒田官兵衛なんかは、一日で終わっちゃったの? って感じで。

小日向 真田一族もそうだったと思います。

井沢 だから現代の解釈のように、真田昌幸も黒田官兵衛もこの戦は見通しがよくないなと思ったというのは間違いで、当時の常識で言ったら、あれは一日で終わるはずないんですよ。関ヶ原の戦い自体は一日で終わったとしても、東軍と西軍の戦いは、もっと長く続いたはず。というのは、まず西軍の総大将は石田三成ではなくて、毛利輝元ですよね。毛利輝元は大坂城に無傷の2万ぐらいの軍勢とともにいる。しかも、秀頼という錦の御旗があるわけだよね。

小日向 そうなんですよね。もし秀頼が出てきていたら――歴史にifはないんですけど……。

井沢 秀頼が出てこなくても、家康は豊臣家のために戦うと言っている以上、大坂城は絶対に攻められない。仮にもし攻めたとしても、大坂城が1615年に落ちるのはなぜかといえば、堀を埋められたからですよね。堀を埋められないかぎり、絶対に落とせない。

小日向 はい。

井沢 となると黒田官兵衛も真田昌幸も、第一ラウンドの関ヶ原では西軍が負けたみたいだけども、次は大坂城の決戦があって、大坂城は一年や二年で落ちるわけがないから、しばらく戦は続くだろうな、と当時の人間だったら思うはずなんです。ところが、我々は結果を知っているので、司馬遼太郎さんもすべて関ヶ原で終わっちゃったように書いておられるけど、それは、私は違うと思う。

小日向 それは結果論ということですね。

石田三成の最大の敗因は、負けることを想定していなかったこと。

井沢 やっぱり……申し訳ないけれども、石田三成がアホです。

小日向 ……あのー、私、石田三成が大好きで(笑)。

井沢 ごめんなさいね、石田三成さん、あの人、戦争が下手でしょ。『のぼうの城』って話があったじゃないですか。忍城でも散々やられましたよね。

小日向 でも、賤ヶ岳の戦いとか、まあまあ活躍してますけど……。

井沢 うーん。石田三成は、最後、関ヶ原の一番終わりのときに、手持ちの兵を全部使っちゃって、鎧脱いで山の中に一人で逃げちゃうよね。あれがそもそも間違いであって、ちょっと地図を見てもらっていいですか。

地図データ ©2018Google、ZENRIN

井沢 これは何の地図かというと、関ヶ原は岐阜県にあるんだけど、彼の当時の本拠であった佐和山城までどのくらいで行けるかといえば、現代の人の足でも5時間半くらいで行ける。馬を飛ばせば、すぐ行ける。

小日向 馬だとどのくらいで行けるんですか?

井沢 馬だったら、1時間くらいで行けるんじゃないかな。

小日向 へえ~! 馬って早いんですね。

井沢 佐和山城には、本軍は出ているけれども、必ず留守居の兵がいるから、おそらく500人くらいはいるはずなんだよね。佐和山城まで撤退して、城は火をつけてもいいけど、その500人の兵を連れて大坂まで帰ればいい。そうしたら第二ラウンドがあるでしょ。しかも、関ヶ原の少し先、大津には、西軍最強の武将と言われた立花宗茂が来ていた。東軍の家康の息子・秀忠の軍勢を、西軍の真田親子が信州上田で釘付けにしたというのは、よく言われる話なんだけど……。

小日向 有名な話ですよね。

井沢 そう。でも実は、東軍にもそういう話があって、浅井三姉妹の二女・初の嫁いだ京極高次が大津城主で、戦国最強と言われて大砲まで持っていた立花宗茂の軍をそこで釘付けにしたんです。

小日向 なるほど。

井沢 で、大津から関ヶ原って半日で行ける距離なんだけど、結局、立花宗茂の軍は大津城を落とすのに手間取ってしまって関ヶ原まで行けなかった。逆に言うと、三成は大津まで行けば……。だって、関ヶ原から大津までの距離って、東京から横浜くらいですよ。

小日向 それは、近いですね。

井沢 大津の城は取ったわけでしょ。しかも西軍最強の部隊がいるわけだから、佐和山城まで撤退しなくても、そこへ合流してもよかった。

小日向 たしかにそうですよね。

井沢 ひょっとしたら家康が、手回しよく退路を封鎖していたとしても、近江の山の中へ逃げちゃえば、生まれ育った場所なわけだからいくらでも行き場がある。まあ、実際逃げたんだけど。

小日向 そこに行けないように先読みされて封鎖されていたとか?

井沢 でも、そんな余裕は家康にはなかったと思うし、仮にそうだったとしても、近江は彼の庭みたいなもんなんだから。つまりね、石田三成の何がいけなかったかというと、関ヶ原で負けることを想定していなかった。勝つと思っていた。家康はそんなこと絶対にありませんよね。どんな戦でも負ける可能性はあると思って手配りしている。

小日向 そうですよね。

井沢 三成は、負ける可能性を考えていなかった。だから気がついたら、周りに兵が一人もいない。馬さえいない。じゃあ、もう、裸になって逃げるしかない。しかも、これを言ったら可哀想かもしれないけど……お腹壊したらいけないでしょ、大決戦の前に。神経性の胃潰瘍とかだと思うけど。

小日向 でも、お腹痛くなっちゃうときあるじゃないですか~!

井沢 うん、でも天下一の大戦をするんだから、医者を用意しておくなり、普段から持病として薬を用意しておくなりして、この戦いは負けだなと思ったら、8割、9割のところで見切って、大坂へ撤退する道を選べば、第二ラウンドがあったんです。

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