黒川文雄のエンタメ異人伝  vol. 19

Interview

ダービースタリオン 薗部 博之氏(上)ゲーム作りに出会うまで

ダービースタリオン 薗部 博之氏(上)ゲーム作りに出会うまで

音楽、映画、ゲームなどを総称するエンタテインメントは、人類の歴史とともに生まれ、時代に愛され、変化と進化を遂げてきました。 そこには、それらを創り、育て、成熟へ導いた情熱に溢れた人々がいます。この偉人であり、異人たちにフォーカスしインタビュー形式で紹介するエンタメ異人伝。

賭けごとに興味がない私は、今まで公営ギャンブルというもの、それらを展開する場所に行ったことがない。しかし、そんな私でも、地方競馬で頭角を現し、中央競馬で戦歴を伸ばし続けた「ハイセイコー」の活躍は覚えている。その「ハイセイコー」は1975年主戦騎手の増沢 末夫の歌う「さらばハイセイコー」に送られて引退した。それがいわゆる、第一次競馬ブーム。

続く第二次競馬ブームを牽引したのは、やはり地方競馬から登場して中央競馬で戦績をあげ、劇的なフィナーレを飾った「オグリキャップ」だ。感動的なラストランに騎乗したのは若干21歳の天才騎手、武豊であった。さらに、映画『優駿 ORACION』がヒットし、競馬そのものが身近なテーマとして漫画やゲームの題材になった結果、競馬ファンはさらに増加した。

そして、その競馬ブームをゲーム面から支えたソフトが『ダービースタリオン』である。プレイヤーは生産者であり、馬主であり、調教師となる。馬を生産し、調教し、そして出走を重ね、競走タイトルを競うシステムに魅了された。つまり従来の単なる競馬ゲームではないものがそこにはあったのだ。

今回の「エンタメ異人伝」は、その『ダービースタリオン』をたったひとりで開発したゲームクリエイター、薗部博之にスポットを当てる。薗部が何を想い、どのような状況で、どのようにゲームを作り上げたのか、今回のインタビューは、薗部博之を形成するもの、彼を動かすモチベーションに迫るものである。

インタビュー取材・文 / 黒川文雄


売るんじゃないですか?(笑)

薗部博之さんが手がけられた作品の大ファンという編集長。今回の対談は、彼が所持している薗部さんのゲームソフトにサインをしてもらうところから始まった。

編集長 すみません、ありがとうございます! パッケージとカートリッジのどちらに(サインを)もらうのがいいか、散々編集部のメンバーと話をしまして、ぜひカートリッジの方にいただければ。

貴重ですね、素晴らしいですね。

編集長 一生の思い出になりました。これはこのまま指紋もつけません!

それじゃあ、遊べないじゃないですか(笑)。

編集長 いいです。遊ばないです!

薗部 売るんじゃないですか?(笑)。

編集長 売るなんて、とんでもないです!!

本気で将棋指しになるって言っていました

ハハハ。今日は薗部さんのご誕生から今にいたるまでのお話をお聞きしたいのですが。

薗部 とくに面白いエピソードはないですよ。

いやいやいや、そんなことないと思います。61年生まれで茨城県のご出身とうかがっていますが、茨城のどちらのほうになりますか?

薗部 茨城県の下妻市っていうところです。

映画の舞台にもなりましたよね、『下妻物語』とか。あの下妻ですか?

薗部 そうですね、はい。

当時はどんな環境でしたか?

薗部 完全な田舎です。田んぼしかないところです。平地で有名な山とかもないですし、観光地感もまったくない。ほんとに、なんにもないところです。

では、娯楽もあまりなかった感じですか。

薗部 ないですね。田んぼしかないです、本当に。

その下妻時代と言いますか、小学生や中学生のときに、薗部さんのクリエイティブに影響を与えたものはおありになりますか?

薗部 う~~~ん、そうですね……最初はやっぱり将棋ですね。将棋指しになりたかったんです。全然お話にならないレベルだったんですけど、その頃は本気で将棋指しになるって言っていました。

僕は薗部さんとひとつ違いで60年生まれなんですけど、確かに小学生ぐらいの頃は、みんなマグネットの将棋盤とか持っていました。

小学校の修学旅行にて

薗部 ゲームっていったら、そういうものしかなかったですからね。テレビゲームとかない時代ですから。

男の子の通過儀礼みたいになっていましたよね。かなり将棋には、のめり込まれたんですか?

薗部 そうですね。昔は将棋指しというと師匠に弟子入りして、みたいなイメージだったですよね。だから、高校も行かない、中学を卒業したら弟子入りするんだ、みたいなことを言って親を困らせたりしていました。

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