黒川文雄のエンタメ異人伝  vol. 19

Interview

ダービースタリオン 薗部 博之氏(上)ゲーム作りに出会うまで

ダービースタリオン 薗部 博之氏(上)ゲーム作りに出会うまで

一人暮らしがしてみたかったので東京の大学に進学

大学ですが、なぜ早稲田の機械工学科に行かれたんですか?

薗部 いや、特に理由はなくて。一人暮らしがしてみたかったんで、東京の大学に行きたいなとは思っていたんですけどね。

でも、優秀ですよね。

薗部 いやいや。将来何かになりたいとか、そういうのは全然なくて、たまたま……ほんとは建築を受けようと思っていたんですよね。絵はヘタなんですけどデッサンは得意で、建築は受験科目にデッサンがあるっていうんで、じゃあ受けようと思ったんです。ところが、建築は試験日が2日間にまたがっていたんですね。で、面倒くさいので建築を受けるのはやめて、オモチャとか好きだったから機械工学科でいいやとなって(笑)。それで、まあ受かっちゃったという感じです。建築だったらレベル的に絶対受かってないです。

でも、十分レベル高いと思いますよ。

薗部 いやいや、偶然受かったっていう感じです。

偶然でも早稲田ですからね。それで、そのとき初めて東京に出てこられたんですよね。やっぱり早稲田の近辺に住んでおられたんですか?

薗部 そうですね。阿佐ヶ谷です。

ジャンピューターに感じた「コンピューター感」

なるほど。話を戻しますが、それで授業の一環でプログラム電卓を買わされて、そこから何かトビラが開いたといいますか、薗部さんがやりたいことは、もしかしたらこういうことではないかと思われた感じですか。

薗部 いや、最初の頃はそんなことはまったく思っていませんでした。大学3年生ぐらいのときですかね。もうゲームセンターに行くようになっていて、『パックマン』とか『ギャラクシアン』とか、そんな時代ですけど、ちょうどその頃に『ジャンピューター』(注3)が出たんですよ。

注3:コンピューターと1対1で対戦するアーケード向けの麻雀ゲーム。麻雀を題材にした初めてのテレビゲームと言われている。

ああ~『ジャンピューター』。

薗部 この『ジャンピューター』で、相手にコンピューター感が出てきたといいますか。なんか向こうも考えているというか、コンピューターが相手だぞ、みたいなことを感じるようになったわけです。それで、コンピューターにちょっと興味持ったっていう。だから、『ジャンピューター』が最初ですね。

なるほど。コンピューターが考えて人間の相手をしているように思えたと。

薗部 今考えたら、全然そんなことはなかったんですけどね。ただツモ切りしているだけ、みたいなプログラムだったんでしょうけど。

それで、コンピューターというものや、それがどう動いているのかみたいなことに興味を持たれたわけですか。

薗部 そうですね。それで、コンピューターを持っている友達に、そのことを話したら「そんなのウチのコンピューターでもできるよ、そういうソフトがあるよ」みたいなことを言われまして。少し興味を持って、パソコンが欲しくなったんですけど、当時は高かったですよね。本体だけで20万円ぐらい、モニターとか全部一式揃えると4~50万円ぐらいしたんですけど、ちょうどその頃に安いのが出てきたんです。

『ログイン』のプログラムコンテストに応募

FM-7(注4)ですね。

注4:富士通が1982年に発売した8ビットのパーソナルコンピューター。定価12万6千円という当時としてはかなりの低価格ながら、同時代の最新マシンに劣らない性能を有していたことからホビーマシンとして人気を博した。

薗部 そうです。FM-7っていう、なんか安いのが出たぞっていうんで、これだったら買えるかもしれないと思ってバイトして手に入れたんです。それが大学3年の終わり頃だったんですけど、買ったからには元を取ろうと思って、とにかくプログラムを……とはいっても雑誌を買ってきて打ち込むだけなんですけどね(注5)。それをずっとやっていたんですけど、ちょうどその頃にエニックス(現:スクウェア・エニックス)のゲームコンテスト(注6)の第1回があって、テレビかなんかで特集をやっていたんですよね。それで、これに応募しようと思ったんですが、パソコンを買ってまだ1カ月ぐらいで、当然間に合うはずもなく。

注5:『I/O』や『月刊マイコン』など、当時のパソコン雑誌にはゲームをはじめとする、さまざまなソフトのプログラムが掲載されており、それを直接打ち込んで利用するのが一般的だった。

注6:80年代にエニックスが主宰したゲーム・ホビープログラムコンテストのこと。1982年に開催された第1回では、『ドラゴンクエスト』シリーズの生みの親である堀井雄二氏や『トルネコの大冒険』シリーズなどを手がけた中村光一氏らが入選を果たした。

つまり、雑誌の付録とかを見ながらプログラムの練習というか勉強をしていたと。それで、そのコンテストに応募してみようと思ったわけですね。

薗部 そうですね。結局間に合わなかったんですけど、一応ゲームは作ったんで、それをどうしようかっていうことになりまして。ちょうどその頃に『ログイン』(注7)という雑誌がアスキーから創刊されたんです。まだ創刊したばかりでプログラムの募集とかしていたんで、そこに送ってみたら採用されたんですね。

注7:アスキー(のちエンターブレイン)より刊行されていた1982年創刊のパソコン雑誌。企画記事が充実しており、パソコンやゲームカルチャー発展の一翼を担った。

ちなみに、どういうゲームを作られたんですか?

薗部 『タンクバトル』(注8)っていうゲームです。今考えても、なかなかいいゲームだと、斬新なゲームだったと思います。

注8:戦場のフィールドをコマンド入力方式で戦車が突破するゲーム。敵の動きを読んで一度に複数のコマンドを入力できる。短いコマンドなら確実に前進できるが、4回以内に一定の距離を進まないとダメージを受けるのでそこがジレンマ。アメフトが発想のヒント。

その作品は商品化されたんですか?

薗部 そのあとしました。

それは失礼しました。かなり反響とかはあったんでしょうか。

薗部 いや、その頃は1本単独で商品化されるってことはまずなかったんです。何本かカセットに入っていますよ、みたいな形だったんですね。それで、BASIC(ベーシック)(注9)で作ったゲームだったんですけど、雑誌に載せるときにスクロール部分がちょっと遅いから、そこをマシン語(注10)にしてよとか言われたんですよ。ちょうど新入社員だった塩崎(剛三)さん(注11)っていう人に(笑)。でも、マシン語なんて全然やったことなくて。

注9:1960年代に開発された初心者向けのプログラム言語。70年代後半~80年代前半のパソコンブーム時にゲームをはじめとするさまざまなソフトのプログラミングに使用され、一般のユーザーがプログラムを覚えるきっかけとなった。

注10:16進数で表現されるデータ列のこと。コンピューターが直接解読して実行できるのでBASICよりもはるかに実行速度が早い。しかし、内容が少し複雑なため、当時の子供たちの多くが、ここでプログラミングの修得を断念した。

注11:「週刊ファミ通」の2代目編集長。東府屋ファミ坊のペンネームでも知られる。

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