
音楽、映画、ゲームなどを総称するエンタテインメントは、人類の歴史とともに生まれ、時代に愛され、変化と進化を遂げてきました。 そこには、それらを創り、育て、成熟へ導いた情熱に溢れた人々がいます。この偉人であり、異人たちにフォーカスしインタビュー形式で紹介するエンタメ異人伝。
ゲーム音楽が変わったのはいつからだろうか。個人的に強い印象は『ドラゴンクエスト』だったと思う。エニックスが開発したゲームにすぎやまこういち氏が作曲した交響楽がゲームにマッチした記憶がある。『ドラゴンクエスト』の音楽を初めて聴いたときの印象は、今までのゲーム音楽とは何かが違うことがわかった。その何かの定義は未だにはっきりしない。でも、言い換えれば当時のドット画面に似つかわしくないほどの荘厳さや華麗さをもった旋律だったからと言えば適切だろうか。
そして、私が感じるゲーム音楽に革命をもたらした人物は植松伸夫だ。彼の作品は斬新であり、力と情念を感じる旋律を我々ゲームプレイヤーに届け続けてくれる。そして、『FFⅦ』を境に訪れたゲームグラフィックの革命もまた彼に味方したと思う。
今回の「エンタメ異人伝」は、株式会社スクウェアの黎明期から『FF』の世界観を音楽として醸成したサウンドクリエイター、アーチストの植松伸夫にスポットを当てたものだ。
植松伸夫が何を感じ、何を想い、それぞれの作品に向かい合い、人生を生きてきたのか、今回のインタビューは、植松伸夫を形成するもの、彼を動かすモチベーションに迫るものである。
※本記事は3回にわたってお届けするインタビューの第2回です。第1回(上)はこちら
インタビュー取材・文 / 黒川文雄
※9月20日に植松さんがご自身のブログで活動休止宣言をされました。 本インタビューは活動休止宣言前に取材したものです。
田舎から田舎に行ってどうするよって(笑)
高校を卒業して神奈川大学に入られますが、やはりさきほど言われていた親元から離れたいという強い気持ちがあったのでしょうか。
植松 ありました、ありました。もっとも神奈川大学に入ったのは、そこしか受からなかったからです、ハッハッハ。

いやいや、そんなことはないと思いますけど。神奈川という場所を選んだことに何か意味はあったんですか?
植松 ないです、ないです。高知から都会の大学に行くのであれば首都圏か関西圏のどっちかしかないわけですよ。他の県にいってもしょうがないですからね。田舎から田舎に行ってどうするよって(笑)。いや、もちろん学びたいことがあれば全然別なんですけどね。
では、なぜ関西ではなく関東だったんでしょうか。
植松 僕はなんとなく英語とかが好きで、海外で仕事をしてみたいなってぼんやり思っていたんです。大阪に行っちゃうと海外に行く前に1度首都圏に出なきゃいけない。ワンクッションあるなあと思ったんで、首都圏に行った方が早いかなというのはありましたね。最初から首都圏なら、すぐ(海外に)行けるじゃないですか。
なるほど、確かに。実際に大学に入られてみてどうでしたか。ご自身がイメージされていた学生生活みたいなものもあったと思いますが。

植松 それが、ぜんぜんダメで。大学ってこんなに勉強しなくていいところなんだと思いましたね。授業も出なくてもいいし。文系だったというのもありますね、理系の人は別だと思います。まあ、この考えのせいで、あとでツライ思いをしました(笑)。
アメリカ密航前に、最後に親にひと目だけ会っとこうと帰省
ハハハハ。
植松 僕が大学に入った頃って、東京ではもう学生運動なんかとっくに下火になっていたんですけど、神奈川大学だけ拠点がまだ残っていたんですよ。朝、学校に行ったら、お巡りさんがバア~ッていたりとか、雪の降った日に行くと白い雪の上に血がタンタンタンって落ちていたりとか、そういう時代でした。だから、僕が1年生のとき、そのゴタゴタで試験がなかったんですよ。レポートを出したら単位がもらえるんですが、そのレポートをどうするかっていうと、みんな先輩から借りてきて、それを写すんです。それで、単位がもらえる。

うわ~。
植松 「え、なんだ、これ?」って思いましたね。大学ってこういう状況なんだって、ちょっとガッカリした面もあって、だったらもう海外に行っちゃおうかなあって。でも、パスポートも持ってないし、カネもないんで、じゃあ密航しようと(大笑)。
密航しようとしたって(笑)。どうやってしようと思われたんですか?
植松 当時のことだから、あまりよく覚えてないですけど、横浜からアメリカに行く船が出るっていうんで、それに潜り込んでアメリカに行こうと。本気だった証拠にね、アメリカに行ったらもう高知に帰れないかもしれないなあと思って、最後に親にひと目だけ会っとこうと帰省したんですよ。
1回帰られたんですか。

植松 はい。それで、高知に戻っていたとき、一緒にバンドをやっていた先輩から手紙が来まして。僕は「アメリカに行きます」って、周りの先輩なんかにも言っていたんですよね。そうしたら「アメリカに密航しようとしてるっていう話を聞いたよ。そんなに人生甘いか?」って書いてあるんです。「オレは来年卒業だけど、やっぱりプロを目指してみたい。1年頑張ろうと思っているんで、つき合ってくれないか」って、けっこう長~い、熱烈な手紙がきまして。「しょうがねぇなあ、1年この先輩につき合ってやるかっ」ってことで、密航するのはやめたんです。だから、あのとき先輩の手紙がなかったら……。
行っていたんですね。
植松 行っていたっていうか、港で捕まってるでしょうね(爆笑)。
アハハハハハ、完全に潜り込んじゃおうと思っていたんですか。
植松 思ってました、ハッハッハッハ。
それは、けっこう危険かもしれませんね。いやでも、それはすごいなあ。

植松 もう、なんかバカですよね。
バンバンの「いちご白書をもう一度』みたいな感じですよね。それで、その先輩にお付き合いして、1年間音楽活動をされたんですか。先輩がプロになるという前提で。
植松 そうです、そうです。
それで、やってみてどうでしたか?
植松 うまくいかなかったですね。ボーカルの女の子だけ引っかかって……引っかかったけどデビューまではいかなかったのかな。