Interview

高野 寛 デビュー30周年オールタイム・ベストと貴重なコラボレーションから紐解くデビューから現在まで。

高野 寛 デビュー30周年オールタイム・ベストと貴重なコラボレーションから紐解くデビューから現在まで。

今月デビュー30周年を迎えた高野寛が、3枚組ベスト・アルバム『Spectra ~30th All Time & Collaboration Best~』をリリースする。自身がセレクトしたオールタイム・ベスト30曲とレアトラックを含むよりすぐりのコラボレーション16曲が収録された本作は、彼がこの30年いかに真摯に情熱を持ち続け、音楽を紡いできたかが分かる濃密な内容になっている。彼の幅広い音楽性から生まれたコラボレーション曲の中には忌野清志郎との未発表音源も収録され、アニヴァーサリー・ベストを超えた貴重な記録を刻んでいる。ソロ・アーティストとして着実に歩を進めながら、プロデューサー、ギタリスト、作曲家としても活躍してきた高野寛。そのデビューから現在に至る道程をたっぷり語ってもらった。

取材・文 / 佐野郷子 撮影 / 古渓一道

「究極のバンド」オーディションの応募から掴んだソロデビュー

高野さんがシングル「See You Again」デビューしたのは、1988年10月7日。この日で覚えていることはありますか?

高野 確か六本木の「WAVE」に置いてあるか見に行きました。CDがようやく一般にも普及するようになった時期で、僕のデビュー・シングルはまだアナログだったと思います。

8cmCDシングルが登場したのも1988年でした。

高野 1stアルバム『hullo hulloa』は、CD、アナログ、カセットで発売されているんですよ。1988年、昭和最後の年は、そういう端境期の時代でした。

アルバムのキャッチコピーには「ポスト・ロック・ジェネレーション」とありますね。

高野 デビュー前はソロのシンガー・ソングライターとして自分がどうありたいかのイメージがぼんやりしていたんですよ。作品をつくりたいという気持ちはすごくあったし、トッド・ラングレンのような好きなSSWもいたんだけど、アマチュア時代にソロ活動をほとんどしていなかったので。デビューしてから自分がどうなりたいかというイメージも漠然としていましたね。

1986年に「究極のバンド」オーディションに応募したことが、ソロデビューのきっかけになったんですよね。

高野 その時はバンドのギタリスト部門で応募したんです。ただ、僕はギターソロをガンガン弾き倒すタイプではなかったし、デモテープにはインストと歌ものの2曲を入れたんす。そうしたら、「究極のバンド」オーディションの主宰者でもあった高橋幸宏さんが、「高野くんは声に個性があるから歌った方がいい」と。

オーディションに合格するもバンドは立ち消えになり、ソロデビューの話になっていった?

高野 YMOを筆頭に僕が聴いてきた音楽は、サウンドが歌と同じくらいの比重で、歌がど真ん中にはない音楽でした。自分でもそういう音を目指していたんだけど、当時はなかなか理解してもらえなかったんですよ。それを初めて分かってくれたのが幸宏さんと鈴木慶一さんだった。

他にもオーディションやデモテープ審査に応募していたんですか?

高野 慶一さんが主宰していた「水族館レーベル」のオーディションにも当時のバンドで応募して、自分のバンドは落ちたんだけど、他のバンドのメンバーとの別ユニットで合格して、大阪のコンサートにも出たんですよ。なので、実は出会ったのは慶一さんの方が早かったんですね。

1988年、1stアルバム『hullo hulloa』のフライヤー

YMOのバックグラウンドと、フリッパーズ・ギターやオリジナル・ラブとの出会い

デビューするまでに曲はかなり書きためていたんですか?

高野 デビューするまでの2年はほぼ曲づくりをしていましたね。そこで初めて日本語で歌詞をつくり、高野寛のポップスがなんとなく見えてきた。とはいえ、プログレっぽい曲があったりしたんだけど、それを1stアルバムをつくる時に幸宏さんが統一したイメージでプロデュースしてくれて、アルバムのカラーをつくってくれた。そこからスタートできたのは、やはり大きかったですね。

1988年から89年にかけては、ホコ天やTV番組「イカ天」などで世はバンドブーム真っ只中でした。

高野 そうそう。だから、やりづらかったですね。ソロ・シンガーだと、まだニューミュージック的な枠にカテゴライズされがちで、ユーミン(松任谷由実)さんや大江千里さんと比較されたり……。やはりバックグラウンドがYMOというのは自分には大きくて、その流れを汲んでシンパシーが持てるのは、ピチカート・ファイヴ、SHI-SHONEN、PSY・Sくらいだったかな。80年代後半は、テクノポップやニューウェイヴのムーブメントがスーッと消えていった時期でもあったから。

89年の2nd 『RING』は、シンガー・ソングライターとしての個性が発揮され、高野さん自身が見えてくるアルバムでした。

高野 僕も気負いがなくて好きなアルバムです。1stは一流のプレイヤーが参加しているのである意味隙がない音なんだけど、2ndは自分がプレイしている手作り感があって、等身大なんですよね。

「BLUE PERIOD」と「カレンダー」のプロデュースは小林武史さんが手がけていますね。

高野 デビュー前の87年にビートニクスのツアーにギタリストで参加したときのキーボーディストが小林さんだったんです。これは余談ですが、デビューしたばかりで小林さんが関わるより前の時期に会ったMr.Childrenの桜井(和寿)くんが、小林さんプロデュースの「カレンダー」がすごく好きだって言ってましたね。

ブレイク直前のMr.Childrenと対バンしたこともありましたね。

高野 そう。あの時は確かお互いの曲をカヴァーして、僕も一緒に「君がいた夏」をやった記憶があります。ちょうどJ-POPというワードが出て来た頃でしたね。

89年にはフリッパーズ・ギターやThe Boomなど高野さんと交流が生まれる人たちもデビューしています。

高野 90年代に入る直前にそれまでとは違う流れが少しずつ生まれてきたのかな。僕は重要な人と出会うタイミングに恵まれていたと思います。幸宏さん、慶一さん、小林さんもそうだし、フリッパーズ・ギターやオリジナル・ラブの田島(貴男)くんともデビュー前に会っているので、今、振り返ると僕のヒストリーはそこから始まっているなと思いますね。

今も記憶に鮮明に残るプロデューサー、トッド・ラングレンの言葉。

トッド・ラングレンのプロデュースでアルバム『CUE』をレコーディングのために渡米したのも1989年。

高野 トッドは80年代後半に過去の名盤がCDでリイッシューされたり、XTCのアルバムのプロデュースなどで日本でも人気が再燃していた時でした。トッドが日本人のアーティストのプロデュースをしたいという話があって、そこで僕とレピッシュに興味を持ってくれたのが発端でした。ただ、3枚目は曲のストックもなくなり、忙しくて準備もままならず、レコーディングは大変だったんですよ。火事場の馬鹿力で何とか乗り切りましたけど。

1990年には先行シングル「虹の都へ」が大ヒットし、一躍人気に火が点きました。

高野 「虹の都へ」はCMソングとしてつくって、日本で録音したヴァージョンが先にCMでは流れていたんだけど、トッド・ヴァージョンが出来上がった後に差し替えたんです。トッドが凄いなと思うのは、僕もレピッシュもトッドがプロデュースしたアルバムがいちばん売れたんですよ。何かそういうマジックを持っている人なんですよね。

アルバム2枚をプロデュースしたトッドから学んだことはありましたか?

高野 印象に残っているのは、「自分のことは分からないから、セルフ・プロデュースがいちばん難しいんだよ」という言葉。それは今でもずっと残っていますね。渡米する前に「ある日、駅で」のシングルをトッドのプロデュースで日本で録っているんですが、そのときに「君は僕と似たタイプだから分かるけど、スタジオに籠ってばかりいないで、ツアーで歌を鍛えなきゃダメだよ」と言われましたね。

宅録派には耳が痛い言葉ですね。

高野 XTCもある時期からライブ活動をやめてしまったり、ビートルズやビーチボーイズが好きなミュージシャンはどうしてもレコーディングに専念したくなる傾向があるんだけど、スタジオの魔術師のイメージが強いトッドに「もっとライブをやれ」と言われたことは、もしかすると今でも潜在意識に強く残っているかもしれないですね。

1989年当時のライブ

渋谷系やクラブカルチャーに距離を置き、独自の音楽性を追求した頃

1991年の「ベステン ダンク」、アルバム『AWAKENING』の頃は渋谷系のアーティストが注目され始めた時期でした。

高野 「虹の都へ」の後に同じCMの枠で、フリッパーズが起用されて「星の彼方へ」という曲をリリースしたときは、タイトルからして意識しているのかなと当時は思ったけど、真相は分かりません(笑)。91年には同じレコード会社からオリジナル・ラブがデビューして、翌年には田島くんと「Winter’s Tale 〜冬物語〜」をリリース。オリジナル・ラブは「接吻」のヒットで一般的に知られる前でした。

「Winter’s Tale」は、お二人にしてはポップに振り切った曲でしたね。

高野 二人でCMに出演することになっていたし、僕も田島くんも自分の作品だとシリアスになりがちなので、ここは軽くふざけてフリッパーズのパロディみたいなノリでいこうとなった気がしますね。スキーをやらないのにスキーウエアを着たりして(笑)。ジャケットのADが僕らやフリッパーズを手がけていたコンテムポラリー・プロダクションの進藤三雄さんだったし。

今回の30周年記念ベストの「Collaboration Best」には「Winter’s Tale」のカップリング曲「Affair」が収録されましたね。

高野 うちのCDプレイヤーは8cmCDシングルは再生できないから、僕も20年ぶりくらいに聴きました。「Affair」は僕が後にブラジルに行くことになるとは思いもよらなかった頃につくったちょっとボサっぽい曲で、シングルのカップリングのみで配信もされていないので貴重かと。

続く『th@nks』『I(ai)』は、時流とは一線を画す音楽性を模索していた時期だった?

高野 ひねくれているんですよ。流行りからスッと身を引くクセがあって、渋谷系のネタになっている音楽は僕も好きでしたが、それを引用するのはどこか抵抗があったんですよ。それに僕はタバコも酒も飲めなかったので、クラブやDJカルチャーにも距離があって、そこでわいわい楽しめていたら、違っていたのかもしれないですけどね(笑)。当時の僕はワールド・ミュージックやハウスなんかに興味を持ち始めていて、アルバムにもそういう要素が入っているんだけど、まぁ、世渡りは下手ですよね(笑)。

1995年の『Sorrow and Smile』になるとソウルへの接近も見られます。

高野 そうですね。以前は跳ね感のある16ビートがやや苦手だったんですが、自分なりにソウル・ミュージックやそんなグルーヴも昇華できるようになり、だんだんこなれてきたというのはある。

「夢の中で会えるでしょう」は坂本龍一さん編曲の名曲ですね。

高野 坂本さんも『スウィート・リヴェンジ』(1994年)の頃は、ポップ路線を模索していて、僕も「君と僕と彼女のこと」という曲にギターとヴォーカルで参加。その後の教授(*坂本龍一のニックネーム)のワールドツアーのギタリストに加わり、貴重な経験になりました。海外でのコミュニケーションはダイレクトで楽だなと実感できたのはその時で、2000年代に宮沢和史くんやGANGA ZUMBAでヨーロッパや南米をツアーするようになるとはその頃は想像できなかったけど、ようやくステージ恐怖症がなくなったのは大きかったですね。

バンド、プロデューサー・ワークによって変わっていった自分の歌との向き合い方

90年代後半にはNHK教育テレビ『土曜ソリトンSIDE-B』の司会も務めていましたね。

高野 あの番組を観ていた、ファンだったという人には今でもよく会いますね。ただ、その頃から僕は日本のマーケットを見据えたJ-POPをつくるという発想が薄くなっていったんです。海外でのツアーや、教授やテイ・トウワくんのアルバムへの参加、テレビには出ていたものの教育テレビで内容はサブカルと、いわゆるJ-POP的な世界観からは離れていった。今の僕があの頃自分のプロデューサーなら、「君は一体どこへ向かっているんだ!」って説教するかもしれない(笑)。

All Time Best のDisc2は、1997年から2017年のまでの曲が収録されていますが、折々に屋敷豪太さん、斎藤誠さん、亀田誠治さん、モレーノ・ヴェローゾといったプロデューサーを迎えているのは、トッド・ラングレンの言葉があったからですか?

高野  それはありますね。自分がつくる音の世界は分かっているから、攻めが足りないというのも分かるんですよ。亀田さんにプロデュースしてもらったデビュー20周年のシングル「Black & White」はJ-POPの世界に戻ってこようと。あのときはなかなかOKが出なくて、ディスカッションを重ねながら1ヶ月くらいやりとりしましたね。やっぱり、売れるものをつくる勝負をしている人たちですからね。セルフで作るのと、音の「攻め方」が違う。

ナタリー・ワイズのメンバーが参加した「確かな光」(2004) など静かで力強い曲が増えてきたのも2000年代ですね。

高野 9.11の後、リーマン・ショック、震災前の時代感が出ているような気がしますね。2000年代に入ってからはバンドーーナタリー・ワイズ、GANGA ZUMBA、pupaーーと、プロデューサーとしての仕事が増えて、世界の変化を感じながら、自分の歌との向き合い方も変わっていった時期でしたね。

ブラジル音楽への傾倒も顕著になっていきます。

高野 2014年にブラジルで一緒にアルバム『TRIO』をつくったモレーノ・ヴェローゾはGANGA ZUMBAのメンバーでもあるマルコス・スザーノより少し下の世代なんだけど、音楽の共通言語が近い感覚があったんです。彼らはアート・リンゼイとも繋がっていて、アートは教授と繋がっているから、東京、リオ、NYのなかなか面白いサークルになっているんですよ。

SUPER BUTTER DOGのような下の世代のプロデュースやアルバムへの参加は刺激になりましたか?

高野 同世代の仲間がたくさんいて羨ましかったですね。僕はいつも上の世代を自分と比べながら生きてきたところがあって、例えばYMOの人たちは自分と同じ歳にはどうしていたかとか考えがちでした。でも、SUPER BUTTER DOGやクラムボンの世代は上の世代を意識せずに仲間と楽しみながら音楽をつくりあげてゆく。たまに小言を言いたくなる場面もあったけど、老害になるのでやめました(笑)。

30周年の機会に残しておきたかった忌野清志郎との未発表音源や貴重なテイク

YMO世代と90年代組世代の間の“中間管理職”という意識は30周年を迎えても変わらないですか?

高野 上の世代も、まだまだ元気な方も多いので(笑)、今年、YMOが40周年で、僕が30周年というのがどうにも腑に落ちないんですよ。YMOが散開したのが83年で、僕はその5年後にデビューしているんです。YMOチルドレンと呼ばれながら、たった10年しか違わないという事実!

高野さんの下の世代にしてもすでに20周年ですからね。

高野 そうなんですよね。だから、色んな人たちのファミリー・ツリーの片隅に僕の名前があることが多い。

その幅広い交流と人脈が見えるのが「Collaboration Best」に収録された曲ですね。

高野 そうですね。『Spectra』というタイトルは、光をプリズムに通すと虹のような七色を描くことから連想したんですが、自分がこの30年やってきたことはソロ作品以外にもすごくいっぱいあって、それらを集めると「高野寛」というひとつの光になるというイメージなんです。

忌野清志郎さん、大貫妙子さん、細野晴臣さん、ハナレグミ、クラムボンなど、今まで共演/共作したアーティストとの音源からも、高野さんの独自の歩みが見えてきますね。

高野 貴重なテイクを30周年の機会に残しておきたいという思いもありましたね。90年に開催されたイベント「ロックの生まれた日」のライブ音源は、今は亡き大村憲司さんが参加しているし、清志郎さんも鬼籍に入ってしまったので。

忌野清志郎さんとデュエットした「泡の魔術」に加え、未発表音源の「大切な君のもの (DEMO ver.)」があったとは驚きました。

高野 清志郎さんとはレコード会社の担当ディレクターが同じだったので、『COVERS』の発売中止の時も間近で見ていたし、家が近かったこともあって個人的にも親しくさせていただいて、二人で2日間お互いの曲を持ち寄って曲作りをしたことがあったんです。お互いのソロで1曲ずつ音源化したんだけど、それ以外は未発表のままだったので、僕の歌が下手で恥ずかしいんだけど、今回はあえてデモのまま収録しました。

30周年を迎え、こうして3枚のアルバムを通して聴くと、高野さんの音楽の変遷と同時に歩んできた時代もリアルに浮かび上がって来ますね。

高野 これでもまだ一部ではあるんですよ。時間を経てこうして並べてみると、自分でもタイムトリップする感覚になりました。ソロで30年続けてこられたのは、音楽に絶望したことが一度もなかったからだと思います。良いタイミングでバンドやプロデュースの声をかけてもらったり、人にも恵まれて、大きく煮詰まることがなかったのは幸運でした。それに長くファンでいてくれる人たちには感謝しかないですね。平成が終わるタイミングで過去を思う存分総括できたので、リフレッシュして次の時代に向かうことが出来そうだなと思っています。

高野寛 デビュー30周年記念ツアー2018「Spectra」~season1.

10月20日(土) 大阪・島之内教会
10月21日(日) 名古屋・三楽座
11月10日(土) 香川・栗林公園商工奨励館
11月11日(日) 松山・コスモシアター
12月1日(土) 浜松・天王山 福嚴寺
12月2日(日) 神戸・ザ・ガーデン・プレイス 蘇州園
12月14日(金) 広島・オリエンタルホテル広島3F チャペル
12月15日(土) 松江・興雲閣
12月16日(日) 鳥取・鳥取教会

30周年記念スペシャルライブ 

2019年1月14日(月・祝)東京・日本橋三井ホール

高野 寛

1988年にソロ・デビュー。1990年にトッド・ラングレンのプロデュースによるシングル「虹の都へ」が大ヒット。ソロ活動と並行して、田島貴男との共作「Winter’s Tale ~冬物語~」をはじめ、細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏、忌野清志郎、テイ・トウワ、クラムボン、ハナレグミ、星野源など世代やジャンルを超えたアーティストとのコラボレーションやセッションワークも多数。サウンド・プロデューサーとしても小泉今日子、森山直太朗、GRAPEVINEなど数多くのアーティストの作品を手がけている。2014年にはデビュー25周年記念アルバム『TRIO』をブラジル・リオデジャネイロで録音。2017年10月にはミニアルバム『Everything is Good』をリリース。2013年4月から京都精華大学ポピュラーカルチャー学部・音楽コース特任教授を務め、2018年4月からは同学部客員教授に就任。ソロ・デビュー30周年アニバーサリーイヤーの2018年10月10日、3枚組ベスト盤『Spectra』と対談集『夢の中で会えるでしょう』を同時発売。

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