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プリンス追悼 ミネソタの天才は突然いなくなった

プリンス追悼 ミネソタの天才は突然いなくなった

 たまたまだった。神の音楽を路上に広めた伝説の人、ブラインド・ウィリー・ジョンソンのトリビュート・アルバム『ゴッド、ドント・ネヴァー・チェンジド/ザ・ソングス・オブ・ブラインド・ウィリー・ジョソン』が届いたばかりの夜だった。その中で、シネイド・オコナーが、「もうすぐ悩みが消えて、悲しみもなくなる」(『トラブル・ウィル・スーン・ビー・オーヴァー』)と歌うのを聴きながら、九州の被災地のことを重ね、そうなるといいのにと、祈りたくなるような夜だった。そのとき、そう言えば、彼女の、最大のヒット曲がプリンスのカバー、「愛の哀しみ」だったことを思い出し、プリンスはどうしているんだろうと、ふとそんな思いが頭の中をよぎったのだ。まさか、数時間後に、訃報が届くとは予想だにせずに。

 2016年4月21日、午前9時43分頃だったらしい。ミネソタ州ミネアポリス郊外の自宅ペイズリーパークからの緊急電話で救急隊が駆け付け、エレベーターの中で倒れている彼を発見、蘇生を試みるもかなわず、10時7分、死亡が確認されたという。死因について、いまのところ確たるものは発表されていないが、数週間前から体調を壊し、ツアーの途中で病院に搬送されることもあったらしい。

 近年のプリンスで、真っ先に思い出されるのは、音楽ではなくて申し訳ないのだけど、昨2015年2月、第57回グラミー賞の授賞式での発言だ。最優秀アルバム賞のプレゼンターとして登場した彼は、こう挨拶した。「アルバムって、覚えてるかい? アルバムはまだ大切だ。本とか、黒人の命と同じように、アルバムは大切なんだ」と。

 それは、余りにもプリンスらしい発言だった。プリンスって、こういう人なんだよと言って全てが事足りるほどの、それは発言だった。音楽に対して、時代に対して、これほど強い危惧と深い愛情がこもった発言もなかったくらいだ。ひとつは、インターネットの功罪により音楽が安易に消耗されていく現状へ警告であり、そしてもうひとつ、根強い人種差別への思いがあったことは想像に難くない。前年の2014年、ミズーリで、ニューヨークで、黒人男性を射殺した白人警官が相次いで不起訴となり、そのことから抗議運動が起きるという背景があった。

 1980年代をふり返ったとき、真っ先に名前があがる人だが、順調な滑り出しだったわけではない。1981年、ローリング・ストーンズの前座に抜擢され、素晴らしい未来が待ち受けているはずだったが、その夢は無惨にも打ち砕かれる。客席から罵声を浴び、僅か20分でステージを降りたという。その厳しいしい現実を2日間、経験した。

 57年という、長くはない一生をふり返ると、そうした試練との闘いのようなものだったかもしれないと思う。権力だの、地位だので世の中を動かそうとする人たちにとっては、厄介で、面倒な存在だった。例えば、プリンスという名を捨てたときもそうだった。かつてプリンスと呼ばれたアーティストという表記でメディアは対応したが、混乱に陥った。音楽の販売形態にいろんな方法を提示し、最新アルバムを宣伝のために無料配布してレコード会社を含めた音楽業界を騒がせた。

 一般的な人気を決定づけたのは、映画『パープル・レイン』とそのサウンドトラックとして発表した同名アルバムの成功によるものだ。1984年、アルバムは全米チャートで一位を記録、その中から、「ビートに抱かれて」、「レッツ・ゴー・クレイジー」の2曲の全米ナンバーワンヒットが生まれた。このとき、チャートを競ったのは、ブルース・スプリングスティーンの『ボーン・イン・ザ・USA』だ。先ごろのニューヨーク公演で、ブルースは、「パープル・レイン」をカバーして追悼したが、プリンスは、当時、E・ストリート・バンドを見事に率いるブルースの姿に、レヴォリューションを率いる上で敬意を抱き、参考にしたと言われている。また、ブルースが、故郷ニュージャージーを大切にしているのと同じように、プリンスにとって、故郷ミネソタは、掛買いのない大切な存在だった。結局、生涯ミネソタから離れることはなかった。

 スタジオで練り上げたアルバムはもちろんだが、ライヴのパフォーマンスでは圧倒的な魅力を発揮した。殊に、背筋に旋律が走るようなギターは圧巻そのものだったが、舌なめずりしたくなるような歌声も、もちろん、悪くはなかった。聴き手どころか、時代をも立ち止まらせ、凍りつかせてしまうような、圧倒的な力があった。

 危げで、妖しい小さな生き物にも例えられることがあった。物静かで、恥ずかしがり屋で、いつも怯えているような感じすらあった。それが、デビュー当初の印象だ。孤独で、内気で、大きな、深いコンプレックスを抱えているようにもみえた。そのいっぽうでは、利己主義で、音楽に関しては、誰であろうと、遠慮とか、気遣いとか、一切見せない人だった。そういう場では、一気に我が儘な子供になった。それでも許されたのは、誰もが彼の天才ぶりを認めていたからだ。音楽の神様が、彼のような人たちだけに授けた視力を持っていて、彼にしか見えない世界を描き続けた。そのためには、全世界を敵に回しても辞さない覚悟のようなものがこの人にあった。

 ファンクにロックンロール、ジャズにソウルにゴスペルと、ありとあらゆるものを呑み込み、全く見知らぬ景色に我々を導くときも、サイケデリックなヒッピーの楽園を退屈な時代に運び込んだときも、誰よりもシンガー・ソングライターらしくギター一本で切々と歌いかけるときも、彼は、それらの音楽の核心に一気に辿りつく力があった。そこには、凡人が費やすような無駄が一切なかった。大きな孤独と、それ以上の天才を抱え、それに激しく動かされながら、紫の雨が降る中で笑っているきみをみたかっただけなんだ、と叫び、ときに泣いた。

 亡くなる寸前まで行なっていたのは、ピアノを弾きながら歌う一人だけの、Piano& a Microphoneと題したツアーだったらしい。旅立つ1週間前、4月14日のアトランタのフォックス・シアターでの公演が最後となった。3度のアンコールに答えた彼は、その夜最後の最後に、「サムタイム・イット・スノウズ・イン・エイプリル」、そして、「パープル・レイン/ザ・ビューティフル・ワンズ/ダイヤモンド・アンド・パール」のメドレーで終えたという。「サムタイム・イット・スノウズ・イン・エイプリル」は、静かな傑作だ。久しぶりに引っ張り出して聴いた。そこで彼は、呟くように、幾分調子っぱずれなところも気にせず、歌っている。

 「4月に雪が降ることだってある。ひどい気分に落ち込むことだってある。人生が永遠だったらとと願うときだってある。だけど、全てがうまくいくとは限らないみたいだね」と。白と黒の世界に、紫という艶やかで、謎に満ちた彩りをもたらした天才は、いままで存在していなかったかのように、あるいはずっとこれからも存在するかのように、突然いなくなった。春という季節がいちばん好きだと歌ったにもかかわらず。

特別寄稿 / 天辰保文