黒川文雄のエンタメ異人伝  vol. 21

Interview

インディーゲームの匠 NIGORO楢村匠(ならむらたくみ)氏(上)倉敷の少年、ゲームとの出会い

インディーゲームの匠 NIGORO楢村匠(ならむらたくみ)氏(上)倉敷の少年、ゲームとの出会い

音楽、映画、ゲームなどを総称するエンタテインメントは、人類の歴史とともに生まれ、時代に愛され、変化と進化を遂げてきました。 そこには、それらを創り、育て、成熟へ導いた情熱に溢れた人々がいます。この偉人であり、異人たちにフォーカスしインタビュー形式で紹介するエンタメ異人伝。

第一生命保険株式会社による「大人になったらなりたいもの(男の子編)」調査(※)によれば、「ゲームをつくる人」(注:ゲームクリエイター)が、10位にランクインしたのは1998年のことでした。その後の調査では、残念ながら、それに該当するものはありませんが、今から20年前、多くの「男の子」たちはゲームクリエイターになりたかったはずです。 (※調査対象:全国の保育園・幼稚園児及び小学校1~6年生1100名アンケート)

しかし、その子供たちの何人が自身の夢を叶えたことでしょうか。少年、少女たちはどこかで、何かを卒業して現実と向かい合うときが来るのです。

今回、登場するゲーム開発集団NIGOROにてビデオゲームをプロデュースする楢村匠(ならむらたくみ)は、自身の夢を風化させることなく、具現化した男の子だと思う。
楢村匠が何を感じ、何を想い、それぞれの作品に向かい合い、人生を生きてきたのか、今回のインタビューは、楢村匠を形成するもの、彼を動かすモチベーションに迫るものである。

インタビュー取材・文 / 黒川文雄


美大出なので絵のこととかも聞かれたいなあ

楢村 僕への取材とかインタビューって、キックスターターが成功したとか、そういう仕掛け人みたいな扱いがけっこう多いんですよね。

それはやっぱり人がやってないことをやられているというのがあるのだと思います。

楢村 とはいえ、美大出なので絵のこととかも聞かれたいなあって、ハハハハハ。

そうですね。今日はむしろ、そのあたりのお話を。もちろん、クリエイティブの部分もお尋ねしたいんですけど、楢村さんがどのようにして今の楢村さんたりえたかというところをうかがいたいんです。まずは幼少期の話からお聞きしたいんですけど、何年のお生まれですか?

楢村 昭和49年で今44歳です。子供があふれていた世代ですね。

ご出身はどちらですか。

楢村 岡山県です。生まれたところは一宮っていう日本三大稲荷のひとつがあるところです。父親が会社勤めをしていたとき、そこに社宅があったんですね。

1歳。社宅に住んでいたころ。

どんな環境でしたか?

楢村 社宅なので隣とかに同じ環境の家族、子供が住んでいて、その子らとよく遊んでいたみたいです。聞く話によると、その頃はかなりの暴れん坊だったらしいですね。友達を殴って泣かせたりとか。

聞く話というと、ご本人は全然ご記憶はないんですか?

楢村 ほとんど覚えていないですね。確か、そこにいたのは保育園までですから。ウチの父親の仕事は建築業で大きな会社に勤めていたんですけど、30代ぐらいで独立したんです。それで、父の実家がある岡山県の倉敷市に引っ越したんです。

そのあとはずっと倉敷ですか。

楢村 大学に入って東京に出るまではずっとそうです。

絵を描き始めたのは5歳か6歳くらいだった

お父様は建築業ということでしたが、具体的にはどういったお仕事をされていたんですか?

楢村 設計です。

3歳。お気に入りのヒーローのお面を持って。

じゃあ、けっこうお父様のお仕事の影響も受けているんじゃないですか? 製図とかされているところをずっと見られていたんですよね。

楢村 それはあります。最初は小さな仮オフィスみたいなところを借りていたんですけど、しばらくして自宅を少し増築して、そこに事務所を構えたんです。ドラフターとか三角定規とか、ああいった設計の道具を何に使うのか分からないながらも間近で見たりしていましたから絶対に影響を受けていますね。ただ、聞くところによると、一宮にいた頃は外で遊ぶばっかりで、絵なんて描く子供じゃなかったらしいです。でも、引っ越しをして、今までの友達が全部リセットされて。それで困惑したんでしょうね。外で遊んだり友達を作ったりするよりも、絵を描くのを好むようになったらしいです。

保育園の後半ぐらいから絵を描き始めたんですか。ずいぶん早かったんですね。

楢村 そうですね。5歳とか6歳ぐらいの頃から。何がきっかけで描き始めたのかは分からないですけど。

どういったものを描いていたんでしょうか。たとえば車とかキャラクターとか。

楢村 いまだによく覚えているのが花火の絵ですね。花火じゃなくて山とか空を描いていたんですけどね。ほかの子がワーワー暴れながら遊んでいる中、ひとりでお絵かきしていたんですけど、いじめっ子がクレヨンで僕の絵にガシャガシャガシャってやったんです。それで、ベソかいていたときに保育園の先生が「じゃあ、これ花火にしちゃえばいいじゃない」みたいなことを言ってくれたんですよ。それは、すっごくよく覚えていますね。

アニメやマンガといった、その頃に見ていたものや読んでいたものから受けた文化的な影響はありましたか。

楢村 テレビを見させてくれる家ではなかったのでアニメはあまり。父親と母親はテレビをすごいよく見ていますけどね(笑)。ただ、『ドラえもん』はずっと読んでいたような気がします。

それはマンガとしてですか。

楢村 そうです。マンガも買ってもらったのではなく、どこかからもらってきたみたいな。そのころからドラえもんの絵を描いたりしていましたね。藤子・F・不二雄タッチをマネて、それで全方角からドラえもんを描けるようになって(笑)。

ドラえもんの3D図が描けるぐらい。

楢村 そうです、そうです。当時から(ドラえもんの)絵描き歌とかありましたけど、そんなので描いてなかったです。

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