黒川文雄のエンタメ異人伝  vol. 21

Interview

インディーゲームの匠 楢村匠(ならむらたくみ)氏(中)ゲーム浸けの美大時代

インディーゲームの匠 楢村匠(ならむらたくみ)氏(中)ゲーム浸けの美大時代

音楽、映画、ゲームなどを総称するエンタテインメントは、人類の歴史とともに生まれ、時代に愛され、変化と進化を遂げてきました。 そこには、それらを創り、育て、成熟へ導いた情熱に溢れた人々がいます。この偉人であり、異人たちにフォーカスしインタビュー形式で紹介するエンタメ異人伝。

第一生命保険株式会社による「大人になったらなりたいもの(男の子編)」調査(※)によれば、「ゲームをつくる人」(注:ゲームクリエイター)が、10位にランクインしたのは1998年のことでした。その後の調査では、残念ながら、それに該当するものはありませんが、今から20年前、多くの「男の子」たちはゲームクリエイターになりたかったはずです。 (※調査対象:全国の保育園・幼稚園児及び小学校1~6年生1100名アンケート)

しかし、その子供たちの何人が自身の夢を叶えたことでしょうか。少年、少女たちはどこかで、何かを卒業して現実と向かい合うときが来るのです。

今回、登場するゲーム開発集団NIGOROにてビデオゲームをプロデュースする楢村匠(ならむらたくみ)は、自身の夢を風化させることなく、具現化した男の子だと思う。
楢村匠が何を感じ、何を想い、それぞれの作品に向かい合い、人生を生きてきたのか、今回のインタビューは、楢村匠を形成するもの、彼を動かすモチベーションに迫るものである。

※本記事は3回にわたってお届けするインタビューの第2回です。第1回(上)はこちら

インタビュー取材・文 / 黒川文雄


父と一緒にいった社員旅行先のインドでカルチャーショック

ところで、どうして東京の大学を選ばれたんですか?

楢村 中学ぐらいから将来の仕事とか考えろ、みたいなことを言われるようになりますけど全然ピンとこなくて。そういえば中学生のときに、父が社員旅行で席がひとつ空いたからっていってインドに連れていってくれたんですよ。初めての海外旅行だったんですけど、これがすごいカルチャーショックだったんです。あの頃のインドって、まだまだ整っていなくて、物乞いの子どもたちが町中にわんさかいて。デリーの空港も今はキレイになっていますけど、あんなじゃなかったです。

中学生のころに連れて行ってもらえたインドにて。

砂ぼこりが舞っているような。

楢村 そうです、そうです。もう本当にカルチャーショックというか、こういう世界があるんだと。あれは絶対影響が大きかったと思います。そういうこともあってか、こういう仕事をやりたいっていうより、見たことがないものを見るっていう方に興味があって。だから、高校生になっても何がしたいとか特になかったんです。父親が建築の仕事をやっているのは見ていましたけど、それを継ぎたいとも思わなかったです。大変そうに見えたっていうのもあるんですけど(笑)。

あ~。

楢村 でも、絵はずっと描いていて中学、高校では学校で一番上手いぐらいになっていました。そのぐらいしか興味があるものもなかったので、じゃあ美術大学にって言われて。父親は美術大学に行きたかったけど、世代的に行かせてもらえなかったらしいんです。なので、多分僕に行かせてやりたいと思ったんでしょうね。それで、美大受験用の絵画教室に行ったりとかしたんですけど、じゃあどの大学がいいって言われても全然ピンとこない。

親が美術大学ですごいところっていったら東京の美術大学だと

ご自身が。

楢村 知らないですし、調べてもいないですし、絵の仕事ってどんなものがあるのかっていうのも知りもしなかったです。ただ、親が美術大学ですごいところっていったら東京の美術大学だと。

東京藝大ですか。

楢村 あと武蔵野美術大学、多摩美術大学ですね。そのあたりだっていうんで、調べもしないで「じゃあ、そこ」って(笑)。

大学生のころ、サークルでの旅行にて。

すごいシンプルですね。

楢村 だから、そこに達する画力があるかどうかとか考えたこともなかったです。ただ、デッサンを習ったりとか、そういうことはずっと続けていたので、ひょっとしたらギリギリ……そのころの美術大学は学科の試験もとかありましたから、それもあわせたらなんとかって感じだったんですけど結局一浪して。で、東京にある美大の予備校に入ったんですけど、そこには東京藝大に行くために四浪しているやつらとかが。

いますよね。

楢村 ちょっと世界が違うんですよね。みんな画家になるとか、デザイナーになるとか、すっごい目標持っているんですよ。デザインでもポスターをやりたいとか、本の装丁をやりたいとか、立体物をやりたいとかハッキリしていて。でも、僕はそういうのは全然ない。だから平面の勉強もしつつ、立体の勉強もしつつ。学科も何がしたいのかわからないようなバラッバラなのを専攻していました。

目標はないけど、あそこかなぐらいな感じですか。

楢村 そうです。だから、ほかの人には「ふざけるな」って思われていたかもしれないですけど、それがすごく楽しかったんですよね。地方では学校で一番で「すごい、すごい」って褒められていましたけど、東京に行くとモンスタークラスがいっぱいいて。自分が今までベタ褒めされていたものを持っていっても、ランク的にDとかすごい下の方につけられちゃうんです。自分の最高傑作を描いていたつもりなのに、すごく評価が低くて「なんでだ、なんでだ」ってなっていました。それでも、ようやく評価されるポイントが分かってきて、だんだん良い点が取れるようになってきたんです。ところが、いまだに覚えていますけど、あるときその四浪、三浪がひしめく東京藝大コースに放り込まれたんですよ。

美術大学受験用の平面構成課題。観察と描画中心のもの。

放り込まれたって、それは自分で志望して入ったんじゃないんですか?

楢村 いや、違うんですよ。その学校は東京藝大を一番のメインに据えているようなところで、中間テストみたいなのがあるんですが、そこでオール70以上の点数を取ったヤツは藝大コースに入れるっていうシステムになっていたんです。で、そのときちょうど70、70、70と取っちゃって。

それは素晴らしい。

楢村 それで、その藝大コースに放り込まれて、またランクDから。当然、その中では一番下ですからね。だから、もう何やっても褒められないっていうような状況がずっと続いていたんです。そんなときに私立の美大向けの課題が出まして。藝大は難しいですから滑り止めというと失礼ですけど、多摩美とか武蔵美とかの私大の練習もするんですよね。

藝大ってどちらかというとモノを与えられて、それを観察して、リアルに描くというような課題が多かったんですが、私立の美術大学は比較的イマジネーションの方を試すようなテスト、課題が多かったんです。で、そのときの私大向けの課題が「重い軽い」をテーマに平面構成で絵を描けっていうもので、ほかの人はすごく重たい鉄とかと綿なんかを一緒に描いて対比させていたんですが、僕はデカい石をかついだ奴隷の男と軽い羽のウチワを持ったエジプトの女性神官みたいなのを描いたんです。

はあ~~(感心)。

会話中の「重い・軽い」の作品ではないが、「BOOK」をテーマにイメージした課題。

楢村 そうしたら、それがベタ褒めされたんですよ。「何も見ないでこれを描いたの?」って。当然、受験対策なので資料を見て描いたりしていません。何も見ないでエジプト人の服装だったりを描いたのが褒められて、自分の売りというか強みってこれかと。そう思ってから私大用のイメージを優先する課題だと、すごいいい点が取れるようになったんです。画力もだんだん上がってきて、モチーフを見てしっかり描画するタイプの課題もこなせるようになったんですけど、なんでしょうね……普通は絶対に受かるように自分の絵のパターンを決めて、それを完璧に仕上げて挑むんですが、僕はそれがイヤだったのか、毎回「こんなんやってみました」みたいなものを(笑)。

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