黒川文雄のエンタメ異人伝  vol. 21

Interview

インディーゲームの匠 楢村匠(ならむらたくみ)氏(下)オンラインで開発する時代

インディーゲームの匠 楢村匠(ならむらたくみ)氏(下)オンラインで開発する時代

音楽、映画、ゲームなどを総称するエンタテインメントは、人類の歴史とともに生まれ、時代に愛され、変化と進化を遂げてきました。 そこには、それらを創り、育て、成熟へ導いた情熱に溢れた人々がいます。この偉人であり、異人たちにフォーカスしインタビュー形式で紹介するエンタメ異人伝。

第一生命保険株式会社による「大人になったらなりたいもの(男の子編)」調査(※)によれば、「ゲームをつくる人」(注:ゲームクリエイター)が、10位にランクインしたのは1998年のことでした。その後の調査では、残念ながら、それに該当するものはありませんが、今から20年前、多くの「男の子」たちはゲームクリエイターになりたかったはずです。 (※調査対象:全国の保育園・幼稚園児及び小学校1~6年生1100名アンケート)

しかし、その子供たちの何人が自身の夢を叶えたことでしょうか。少年、少女たちはどこかで、何かを卒業して現実と向かい合うときが来るのです。

今回、登場するゲーム開発集団NIGOROにてビデオゲームをプロデュースする楢村匠(ならむらたくみ)は、自身の夢を風化させることなく、具現化した男の子だと思う。
楢村匠が何を感じ、何を想い、それぞれの作品に向かい合い、人生を生きてきたのか、今回のインタビューは、楢村匠を形成するもの、彼を動かすモチベーションに迫るものである。

※本記事は3回にわたってお届けするインタビューの最終回です。第1回(上)第2回(中)はこちら

インタビュー取材・文 / 黒川文雄


ゲームコミュニティサイト『GR3』のスタートの実態とは?

大学の学部で考えれば広告代理店とか、その下請けとかに入るようなコースですよね。でも、それはあんまり考えなかったわけですか。

楢村 そっちを狙っている人は2年や3年のころから、それに向けた課題作りとかしていましたからね。同級生でそっち方面に進んで、けっこう有名になった人もひとり、ふたりいます。でも、そのころの僕はフリーで何か仕事をもらってイラストを描くとかいう状況になりながらも将来何になりたいとか特になく。

まだ、そのころもなかったですか。

楢村 ゲーム業界に入りたいっていう強い気持ちもなかったですよね。やっぱり自分が作れるとは思っていなかったんです。で、そのころちょうどインターネットが流行っていたんですよ。テレホタイム(注31)とかやっていたころです。それで、自分が昔遊んだMSXのゲームとかをテーマにしたサイトを作ったんです。地方では考えられなかったですけど、秋葉原に行くとそういう古いゲームが売っているじゃないですか。で、やったことのないゲームを裸ロムで買ってきて遊ぼうとするんですけど、説明書がないんですよ。当時のゲームは作り方が雑ですから、遊び方すら分からないんです。でも、そこから探すのが楽しくて。同じようなMSXのページの掲示板とかで「オレもそれやってる」とか情報交換をしながらクリアするのが、すごく楽しかったんです。その経験は『LA-MULANA』のネットで相談しながら解いてもいいよっていうのに繋がっています。

注31:1995年にNTTが始めたテレホーダイのこと。当時のインターネットは接続時間に応じて課金される従量課金だったが、このサービスを利用すれば深夜から翌朝までの間、定額で使用できるので特にネットゲーマーたちに愛用された。

ああ~なるほど。

楢村 そのころはまだゲームを作る気はなかったんですけど、僕のサイトに来ていた人たち……今のNIGOROのメンバーたちに実は小さいころからゲームが作りたくてしようがなかったって話をしたんですね。それで、ちょっとやってみますかとなって始めたのがNIGOROの前身です。

では、あくまでも掲示板上でのやり取りだったんですよね。

楢村 そうです。顔も見たことないですし、声も聞いたことがなかったです。

顔も見たことがなかったサミエルさん、duplex(デュプレックス)さんたちに「実は、俺は小さいころからゲームを作りたかったんだよ」っていうのを掲示板で話してというのが『GR3』のスタートだったわけですか。

運良くつれて行ってもらうことができたイタリアにて。

楢村 ええ、『グラディウス』(注32)のクローンみたいなゲームを作ろうという。MSX風のグラフィックでゲームを作っている先駆者がすでにいたんですね。ああいうのを僕らもやってみたいなと。MSXの趣味のサイトに集まってきている人たちなんで、みんなゲームの原体験が一緒なんですよ。ファミコンじゃなくてMSXっていう。だから、僕らはMSXのあのゲーム風にっていう共通のイメージを持っていたんです。

注32:コナミから発売された横スクロールシューティングのシリーズ。特に1作目は人気が高く、モアイなどが登場する独特のグラフィックや自機のパワーアップ要素、軽快なサウンドなどが多くのゲームファンの支持を集めた。自機を強化するファミコン版の隠しコマンドも有名。

でも、よく完成させられましたね。

楢村 趣味で夢が叶ったぐらいのつもりでやっていましたからね。1本作るのに2年とか3年とか、各々仕事をしながら夜のテレホタイムのときだけやっていたという。僕もフリーで仕事をやりつつ、大学の同期のヤツに誘われてデザイン会社に勤めたりしていました。ちょうど最初の『LA-MULANA』を作り始めるかどうかぐらいのころです。でも、そのデザイン会社がなんといいますか……不景気が始まっていたのにバブルのころみたいな経営をしていたんです。

ある芸能人の「ファンサイト」や「ブログ」作っていました

ドンブリ勘定なんですか?

楢村 社長が酒の席で仕事を取って来るみたいなタイプの人だったんです。それで、どこから取って来たのか知らないですけど、ある芸能人のファンサイトを作ることになりまして、僕がメーリングリストとかの担当をすることになったんですよ。その芸能人は、けっこう有名な方ですけど、当時はまだ駆け出しでね。そのころはまだ芸能人のブログなんてなくて、「ブログとか書けます?」って聞いたら「無理です」って言っていました。なので、僕が文章を書いたりしていましたよ、ハハハハ。

へえ~。

楢村 で、当時は僕もメールの一斉送信とかやったことがなかったんです。BCCとかも知らなかったんで、ファンのメールアドレスを全部公開した状態でバーっと送っちゃったりして。それで怒られたりしましたけど、「いや、それやったことないし」って(笑)。まあ、そんな感じでテレビ関係の仕事が多かったんですよね。テレビ番組のホームページやDVDを作るみたいな。で、テレビ局の企画のほうからサイトにミニゲームを置いてくださいとか言われて。

当時流行っていましたね。

楢村 フラッシュゲームとか、あとガラケーのとかね。それで、僕はBASICが分かっていたんで、じゃあお前やれと。会社内でほかにできる人がいないので全部独学ですよ。まあ、そのころのウェブデザインとかって全部そうでしたけどね。先駆者がいないので、当事者が独学でやるしかない時代だったんです。で、そのころ「JavaScriptでゲーム作る」みたいな本があったんじゃないですか。ああいうのを買ってきて、ソースを丸パクリしたりしていました(笑)。そうやってゲームに近いこともさせてもらったりしていたんですけど、ちょっと自分のキャパ以上の仕事ばっかりで、月に5日ぐらいしかアパートに帰れないとか。

え、帰れるのが5日だけ?

楢村 そうです、そうです。東京なんで1部屋で家賃7万とかするのに。で、会社に泊まり続けると、みんなストレスがたまるんで飲みに行こうぜってなって。お金を使っちゃうので給料なんか全然残らないような状況でした。仕事もテレビ局からああしろ、こうしろっていう、上から降りてきたものを作るっていうだけの仕事ですよね。だから、自分がこうしたいと思っても、いやそれはできないとか言われて。

ちょうどブロードバンドが出てきたころで、ちっちゃいムービーとかを自分たちで作ってサイトに載せるみたいなことをやり始めたんですけど、テレビ局の撮影ルールとか僕らは知らなくて。街中で撮影してきたら「コカ・コーラの自販機が映っているじゃないか」「提供でもないものが映っちゃダメだ、撮り直せ」って言われたんです。なんで街の風景を映したらダメなんだって思いましたね。今でもテレビ番組で街を映しているとき、看板とかに全部ボカシがかかっていたりするじゃないですか。あれ、すっごくおかしいと思いますよね。

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