佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 67

Column

朝に目が覚めてすぐ「吉田拓郎 ラジオでナイト」を聴いて描いた夢

朝に目が覚めてすぐ「吉田拓郎 ラジオでナイト」を聴いて描いた夢

ニッポン放送の「吉田拓郎 ラジオでナイト」は、毎週日曜日の深夜に放送されているラジオ番組だ。
これまで歌ってきた作品について、出会ってきた仲間について、そして、まもなく発表になる来年のコンサートの情報について、週に一回マイクに向かってひとりで語っている。

だから実際には10月21日の夜中にオンエアされたものだが、今はリアルタイムで聴けなくてもRADIKOで聴くことが可能になった。
ぼくは22日の早朝、目が覚めてすぐに番組を聴いてみた。

そこでは「リスナーが選ぶ吉田拓郎提供曲ベストテン」の発表が行われる予定だった。
したがって各楽曲の誕生にまつわるエピソードが、順に語られるはずになっていたのだろう。
しかし吉田拓郎は番組の冒頭から、自分が他人に提供した作品のなかで文句なしの特等賞の曲は「風の街」だと思っている、という話から始めていった。

そしてこの曲をいっしょにつくった作詞家の喜多條忠が、原宿の街と重なってくるのだと自らの記憶をたどって語った。
それから自分のリクエストだとして、かぐや姫のメンバーだった山田パンダに提供したヴァージョンをかけた。

風の街
作詞:喜多條 忠  作曲:吉田 拓郎

道のむこうで  手を振った
大きな声で サヨナラ言った
あいつを ふと思い出す
今も元気で いるだろか
白い仔犬を 抱きあげる
君はちょっぴり 幼く見える
表参道 原宿は
なつかしすぎる  友達や
人に言えない 悲しみすら
風が運んで しまう街

20代だった吉田拓郎が仲間たちと会って酒を交わし、トランプをし、語り合った原宿は、青春時代に自由をくれた街で、心が自由になれる場所だったという。
喜多條の書いた歌にはその頃の風景や空気感が残っているので、ぜひ「会いたい」と述べたうえで、「もうすぐ会う予定」になっているとも付け足した。
その言葉は明晰で、しかも思いのほか力強いものだった。

ちなみに11,236人の投票で選ばれた楽曲には、6位の「メランコリー」と5位の「いつか街で会ったなら」、そして1位「やさしい悪魔」の3曲が、喜多條による作詞であった。

1位 「やさしい悪魔」 キャンディーズ
2位 「風になりたい」 川村ゆうこ
3位 「たどりついたらいつも雨ふり」 モップス
4位 「我が良き友よ」 かまやつひろし
5位 「いつか街で会ったなら」 中村雅俊
6位 「メランコリー」 梓みちよ
7位 「襟裳岬」 森進一
8位 「あぁ、グッと」 近藤真彦
9位 「歌ってよ夕陽の歌を」 森山良子
10位 「あゝ青春」 トランザム

かぐや姫の「神田川」や「赤ちょうちん」、「妹」といった叙情的なフォークソングで脚光を浴びた喜多條に、歌謡曲を一緒につくらないかと持ちかけたのは吉田拓郎で、梓みちよのためにつくった「メランコリー」が最初だった。

「お前、歌謡曲は書けないよな」と挑発された喜多條は、苦しみながらも2週間かけて、なんとか詞を書きあげた。
それを受け取った吉田拓郎から移動中だった新幹線に電話がかかってきて、「すごい詞を書いたな。メロディーをつけたけれど、完全に歌詞に負けている」と言われて自信がついたという。

その「メランコリー」が1976年にヒットしたことによって、喜多條は歌謡曲の世界でも売れっ子の作詞家になっていく。
それからは年間100曲もの仕事を引き受けるようになり、NHKの紅白歌合戦で7曲が歌われた年もあった。
ところが1980年代に入ってまもなく、急に歌が書けなくなってしまうのである。

そこから25年に及んだ長かった沈黙について、ぼくはつい先ごろクラブ・ウィルビーのWebにおける残間里江子氏による「インタビュー:喜多條忠さん(作詞家) 心に残る歌を、あともう一曲」を読んで、ようやく理解できたところだった。

シングル盤を1枚出すということは、作業として5種類ぐらいのことをしなくちゃいけない。打ち合わせがあって、書きがあって、直しがあって、レコーディングがあって、またそこで直しがある。
それで3日に1曲のペース。そうすると作業が重なってくるから、ひどい時は一日に10種類ぐらいの作業をしてたのね。
もう仕事部屋から帰れなくなったし、自分でも何やってるのかよくわからなくなってきた。乾いたタオルを絞って、まだ水を出そうとしてる感じ。プレッシャーだったんだろうね。

かつては原宿の溜まり場に行くと吉田拓郎、ガロのメンバー、井上陽水、かまやつひろし、太田裕美など知っている誰かがいてくれて、ざっくばらんに話ができた。
そこで「誰それから歌を頼まれたんだけど、あんた書いてみる?」という会話も生まれて、フレンドリーな感覚のまま、仲間内の人間関係のなかで仕事ができていた時代があった。

しかし、プレッシャーでまったく詞が書けなくなった作詞家のもとには、どこからも仕事の依頼が入らなくなってしまう。
喜多條は作詞を始めから10年を機に筆を折り、競艇を生活の中心において全国を旅することにしたという。
そのために家庭も東京も全部捨てて、25年間ひたすらボートレースを極めるために、各地の競艇場をまわっていたのだ。

月のうち二十日は全国にあるボート場を旅してた。今じゃ25年の旅のネタで、全国どこでもその土地の演歌を書けるんだよね。わざわざ行かなくても情景から何から簡単に書ける。

作詞の仕事に復帰したのは2008年のことで、五木ひろしのために書いた「橋場の渡し」、その次の作品が『凍て鶴』、ともに演歌である。

そこから作詞家としてふたたび注目を集め、今では1000人を超える会員からなる一般社団法人日本作詩家協会の会長としても活躍している。

喜多條が東京を捨ててボートレースの旅に出るという話を打ち明けた時、吉田拓郎は「喜多條よ、俺はお前のために何でもしてやるから。もしお前がまた歌を書きたくなったら、俺が必ず曲を書いてやるから、俺のところに来い」って言ってくれたという。

その約束がいよいよ実現して、新しい歌が誕生するかもしれない。
そう思うと何か奇跡が起こってもいいのではないかと、思わずひとりで勝手な夢を描いてしまった。

なぜならば55年前に日本語のまま世界でヒットした「上を向いて歩こう」について、喜多條がインタビューの最後のほうで、こんなふうに語っていたからである。

今ね、いい歌がないなんて言うけどね、それは作家がいい歌を書いてないだけであって、いい歌って、書かなきゃいけないのよ。
俺なんかも一番つらくなった時、本当に死のうかと思った時、外へ出て口をついて出てくるのは『上を向いて歩こう』なんだよ。
この俺が。気がつけば歌ってるのが『上を向いて歩こう』。
なるほど、上を向いて歩けば、涙はこぼれにくいよな、と思いつつ歌ってると、そのうちに何とかなる。
俺にとっては『上を向いて歩こう』だけど、そういう歌をこれから生きてるうちに、ひとつでもふたつでも書けたら、俺は生きてきたことになるんじゃないかと。

いい歌が生まれることを期待して、静かにその日を待ちたいと思う。

ニッポン放送「吉田拓郎 ラジオでナイト」オフィシャルブログ
http://www.1242.com/radio/ty/archives/805

吉田拓郎の楽曲はこちら

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。
「マイ・ラスト・ソング」では構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

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