佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 68

Column

「なぜ日本には懐メロはあってもスタンダード曲がないのか」という疑問から始まった挑戦

「なぜ日本には懐メロはあってもスタンダード曲がないのか」という疑問から始まった挑戦

アルファミュージックは慶應大学を卒業してまもない若手作曲家だった村井邦彦氏と、すでに売れっ子の作詞家になっていた山上路夫氏によって、1969年に音楽出版社として設立された。その後にレーベル機能を持つようになった時代もあったが、来年で50周年を迎えることになる。
そのことについて村井氏が最新刊の著者「LA日記」(リットーミュージック) で、このように述べている。

作詞家の山上路夫さんと一緒に曲を書くようになって半世紀近くたつ。いろいろな作詞家の方々と一緒に曲を書いてきたが、結局いつのまにか山上・村井コンビが定着した。これは自然にそうなった。お互いの感性を認め合っているとも言えるし、最近は二人で一組の老夫婦みたいな感じでワンセットになっている。

二人はアルファを始める前から曲の構想を話し合い、できた作品をレコード会社に売り込むということをやっていた。
森山良子の歌った「雨上がりのサンバ」(68年)が最初の作品で、ソングライターありきで良い楽曲を生み出そうという発想だった。
当初のポリシーはとにかく「新しい音楽を作る」という一点にあり、日本の音楽のレベルを世界に通用するものにすることを目指していた。

「作家の発想で自主的に曲を作り、それを売り込む」という欧米の音楽出版社と同じやり方の出版社を作りたい、との思いで一緒に創業したのがアルファミュージックだ。欧米にはスタンダード曲という多くの人々が長年歌い続けてる曲がたくさんあるのに、なぜ日本には懐メロはあってもスタンダード曲がないのか。山上さんとはそんなことを話し合った。

そんな二人の描いた夢を最初に叶えてくれた歌が、アルファミュージックを設立した翌年に生まれる。それが名曲と呼ばれるようになる「翼をください」だった。
もともとは1970年11月に三重県の「合歓の郷」で開かれたプロの作曲家コンテスト、「合歓(ねむ)ポピュラーフェスティバル’70」のために書き下ろされた楽曲だ。

ヤマハ音楽振興会が始めた「合歓ポピュラーフェスティバル’70」は、プロのソングライターを対象としたイベントである。作曲家と作詞家が組んで真剣に楽曲を作り、純粋に作品を競い合うという、それまでにない画期的な試みだった。
商業主義優先だったレコード会社の縛りから解き放たれて、スターのためのヒット曲づくりではなく、ソングライター主導で作品を競い合うというコンテストは、時代の変わり目にしか起こり得ないことだった。

そしてデビュー前だった新人グループの赤い鳥によって歌われた「翼をください」が、新人賞に選出されてレコード化されて、当初はB面だったにもかかわらず、時とともにスタンダード曲へと成長していったのである。

11月7日に行われた新人歌手の部では、27の応募曲が発表された。そのなかから5曲が入賞作に選ばれて、翌日のベテラン歌手の部に追加される形で一緒に披露された。
8日は雪村いづみ、弘田三枝子、中尾ミエ、辺見マリ、水前寺清子、沢村美司子、水原弘、布施明、菅原洋一、平尾昌晃、野坂昭如、じゅんとネネ、トワ・エ・モワ、キングトーンズ、ハプニングスフォー、カルメン・マキといった当時のトップ・スターたちが、書き下ろしの新曲で実力をフルに発揮したステージがくり拡げられたという。

その結果、グランプリに選出されたのは中村八大が作・編曲した「涙」(作詞:藤田敏雄歌:雪村いづみ)と、佐藤勝が作・編曲した「道行」(作詞:藤田敏雄 歌:菅原洋一)の2曲だった。
この2曲は第1回東京国際歌謡音楽祭(翌年からは世界歌謡祭に改名)に出場する資格を得て、「涙」が準グランプリにあたる最優秀歌唱賞を受賞した。

そして「翼をください」(作曲:村井邦彦 作詞:山上路夫)を歌唱したグループ「赤い鳥」と、「かえらぬ恋」の早坂絃子に新人賞が贈られたのだった。

こうして作曲コンクールの応募曲として誕生した「翼をください」は、1971年2月5日に赤い鳥のデビューシングル「竹田の子守唄」のB面として発表された。
そしてその後は長い時間をかけて愛聴されて、合唱曲としてもたくさんの人に歌い継がれて現在に至って、これぞ日本のスタンダード曲という存在になっている。

そんなふうに作曲家としてアルファミュージックを起ち上げた村井氏が、まだ高校生だった荒井由実(ユーミン)のソングライティングにおける才能を見出して、いち早く作家で契約したというのも、考えてみればすごい慧眼だったと思う。
しかも当初は作家契約だったにも関わらず、シンガーソングライターとして「返事はいらない」でデビューさせている。
さらにはユーミンの声の魅力に気がついて、プロデューサーとしてじっくりと育てていったことは、まさち先見の明があったと言えるだろう。

選ばれたユーミンもまた、その期待に応えて1973年にアルバム「ひこうき雲」を発表、村井氏や山上氏の初心をきちんと受け継いでいった。
そしてタイトル曲は名曲としての評価を得ただけでなく、21世紀になってからもスタジオジブリのアニメ映画『風立ちぬ』の主題曲に使われるなど、日本を代表するスタンダード曲の仲間入りをした。

ユーミンは日頃から作者である自分の名前が忘れられたとしても、歌が残ってくれるならば、本望であると語っている。

私の目標は自分のつくった歌が「詠み人知らず」になることです。そのためにライブもやるし、アルバムもつくる。プロモーションも一生懸命やる。全ては、一曲でも多く人々の記憶に残り、DNAに組み込まれるぐらいのところまでいくためなんです。

村井氏の「LA日記」にはユーミンについて、こんな印象的な言葉が綴られてあった。

「ひこうき雲」を作っていた頃、ユーミンと担当ディレクターの有賀恒夫と連れ立って、芝の新亜飯店で小籠包を食べたことがある。箸を使うユーミンの指があまりに細くて長かったので、ピアノを強く弾くと壊れちゃうんじゃないかと思った。

その文章と、眼差しからは新しい才能を育てようとする心のあたたかさが、ごく自然に伝わってきた。
そうしたあたたかさは著書の全体からにじみ出ていて、過去のエピソードを読んでいるときに限らず、現在の活動報告を目にしていても気持ちが豊かになった。

赤い鳥 『竹田の子守唄』(『翼をください』収録アルバム)

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。
「マイ・ラスト・ソング」では構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

ウェルカム!ビートルズ 1966年の武道館公演を実現させたビジネスマンたち

著者:佐藤剛
ボイジャー

ビートルズ来日をめぐる人間ドラマを丹念に描く感動のノンフィクション。

1966年のビートルズ来日公演、それは今になってみれば、奇跡的といえるものだった。いったい誰が、どのようにしてビートルズを日本に呼ぶ計画を立てて、それを極秘裏に進めて成功に導いたのだろうか? これは日本の経済復興の象徴だったリーディング・カンパニーの東芝電気と、その小さな子会社として生まれた東芝レコードにまつわる、歌と音楽とビジネスをめぐる物語である。

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