恩師・久世光彦に導かれて、女優の小泉今日子が歩んできた道のり  vol. 5

Report

小泉今日子が愛した男と奏でる終わらない「昭和」のラブソング

小泉今日子が愛した男と奏でる終わらない「昭和」のラブソング

今年の春、小泉今日子さんは50歳になったそうだ。

アイドル全盛期の1982年(昭和57年)、16歳でデビューし、瞬く間にお茶の間の「スター」となった少女は、テレビという世界からスクリーンへ、文壇へ、小劇場へと活躍の場を広げ、革命的なバージョンアップを続けている。
そんな彼女の才能をいち早く見抜き、育てたのが、テレビ史に残る演出家、久世光彦さんだ。
それまでのドラマの枠を叩き割って、「お茶の間」のリアリティを描き、まったく新しい文化を創り上げた彼は、2006年、前触れもなくこの世を去った。
ドラマの中で「死」をあえて描かなかった彼が、「死の間際に聴きたい歌」をテーマに14年間書き綴ったエッセイが『マイ・ラスト・ソング』。
小泉さんは、同じく彼を敬愛する浜田真理子さんとともに、このエッセイを舞台に蘇らせる。
2008年世田谷パブリックシアターから始まって今年で9年目。
日本橋・三越劇場には、女子高生から白髪の紳士までさまざまな年代の男女が集い、息を詰めて開演の刻を待った。

東日本大震災のあと被災地を訪れたミュージシャンから聞いた話。
ライブ終了後、最後まで残っていた60歳くらいの男性から、丁寧に御礼を言われたそうだ。
津波で妻をなくしたけれど、泣けなかった。
今日歌を聴いて涙が出た。初めて泣くことができた。ありがとう、と。

琴線に触れる、と言うけれど、私たちの心の奥には、何かに強く感動して、あるいは共鳴してふるえる場所がある。
哀しみであれ、喜びであれ、そのふるえはあたたかな雨のように私たちを満たし、慰め、励まし、時に人生を支えてくれる。
5月6日、三越劇場。
コンサートでも朗読劇でもない、久世光彦さんが「人生の最後に聴きたい」と選んだ歌をみんなで聴き、綴ったエッセイをみんなで味わう不思議な舞台には、その雨がずっと降り注いでいた。

mylastsong_14

舞台中央には、座り心地の良さそうな肘掛け椅子が一つ。
左手にグランドピアノ、右手には長椅子と小さな丸テーブルのシンプルな舞台。
上方には、白いスクリーン。
客席の灯りが少し落ちると、ぴんと張りつめた空気が場内に満ちる。
清楚なワンピースを着た浜田真理子さんが登場して、ゆっくりと弾き語りを始める。

 あなたと二人で 来た丘は
港が見える丘 色あせた桜
ただ一つ 淋しく 咲いていた

戦後まもない昭和22年に大ヒットした「港が見える丘」(東辰三作詞・作曲)。
いろんな歌手にカバーされているけれど、浜田さんの歌声にはなんともいえない静けさがあって聴き入ってしまう。
押しつけがましさがまるでない、透明な湖の底から天上の光を見つめているような、欲や罪や苦い涙を薄紙で包んで溶かしてくれるような歌。
スクリーンに映る水面がゆらゆらと、時空を超えた世界へと運んでくれる。

 うつらとろりと 見る夢
あなたの口許 あの笑顔
淡い夢でした

歌に誘われるように映し出されるのは、今夜の主役、久世光彦さんだ。
大人の口許と、少年の笑顔。夢をうつつに見せてくれた人。
彼が綴ったエッセイが、小泉今日子さんの声で、言葉を愛おしむように語られる。

 上村一夫の歌の向こうに〈戦後〉が揺らめいて見える。 〈あんた〉は細く尖ったあごのあたりに険のある、柳屋のポマードのする男である。〈あたい〉は薄っぺらなスカアトの腰あたりが物欲しげな、下ぶくれの女である。

 スクリーンには戦後の銀座あたりのまちの写真。
濃厚な「昭和」の気配。汗とフェロモンにまみれた生と性の匂い。

 戦後のあのころは、どうしてあんなに空が青かったのだろう。〈あんた〉も〈あたい〉もみんな痩せて、力のない目をして、それなのにどうして空だけが青かったのだろう。

始まったばかりなのに、そこはもう久世光彦の世界だ。
平易なのに詩的な言葉の隙間から、くっきりと映像が立ち上がる。
小泉さんの朗読は、熱くも冷たくもない絶妙な温度で、一種の化学反応を起こしながら耳にしっとり落ちてくる。

mylastsong_32

2曲目は、高校時代の「彼」がちょっと背伸びして聴いたレス・ポールとメリー・フォードの「バイヤ・コン・ディオス」。
歌の途中で舞台に登場した小泉さんは、客席に一瞥もくれることなく彼に視線を送る。ひっつめた髪に黒いワンピース。「喪服の花嫁」にも見える綺麗な背中からは、愛惜というより「恋慕」という言葉がふさわしい感情が滲み出していて、見とれてしまう。

曲が終わると、ようやく小泉さんは客席に向き直って朗読を始める。

mylastsong_11

三十五年もテレビドラマを作ってきて、いわゆる臨終の場面というのを、ほとんど撮ったことがない。……いくらドラマの世界だからといって、わざわざお茶の間で人の死んでいくのを見せることはないだろうと思うのが一つと、もう一つは、そのシーンにどんな音楽が聞こえていたらいいのか、それがわからないのである。
(中略)
ドラマなどというものは、泣いたり笑ったり、怖がったりするのが面白くて観るものなのだから、泣くのはいい。ただ、哀しいだろう、哀しいだろうと押しつけるのが、私は何とも嫌なのだ。

『マイ・ラスト・ソング〜あなたは最後に何を聴きたいか』のあとがきだ。

——何かいい手はないものだろうか。そこでふと考えたのが、死んでいく当人が最期にどんな歌を聴きたがっているだろうか、ということだった。
それをきっかけに、自分ならどんな歌を聴きたいだろうかと考えてみた。マイ・ラスト・ソングを探してみたのである。

スクリーンにタイトルが映し出されて、初めて舞台上の二人が客席を見て挨拶をする。

浜田真理子さんは、1964年島根県松江市出身。学生時代からバーやクラブ、ホテルのラウンジで弾き語りを始め、メジャー・シーンにあえて距離を置き、いまも地元の松江市を拠点にして音楽活動を続けている。
全国各地で行われるライブを心待ちにしているファンは多く、小泉さんもその一人。
もともと互いにファンだった小泉さんと浜田さんを「久世光彦」というキーワードで結びつけたのは、企画・構成・演出を手がける音楽プロデューサーの佐藤剛さんで、彼の執念にも似た情熱がこの舞台を実現させた。
「いつか久世さんの大好きだった唄を伝えていけたら」という三人の夢は、久世さんが逝ってから2年後、2008年世田谷パブリックシアターで実現し、その後、京都、広島、鹿児島、山口、金沢、富山など年2〜3回公演のペースで全国を旅していく。

mylastsong_10

3曲目は「月の砂漠」。
この曲にまつわる森繁久彌さんの逸話を綴った一節が朗読され、月夜に光る絹糸のような声が響く。そして小泉さんは笠智衆さんとの自分の思い出を語る。
思い出はドラマ『艶歌 旅の終わりに』へと続き、ドラマの肝となった歌に、十年以上経ってから浜田さんのライブで出会ったこと、そのとき強烈に韓国で見た夕焼けの色、まちの匂い、久世さんに叱られたことを思い出したことが語られる。
その歌とは「離別 イビョル」。1972年、韓国の国民的ジャズメンで日本でも人気を博した吉屋潤が作詞・作曲した。

時には思い出すでしょう
冷たい人だけど
あんなに愛した想い出を
忘れはしないでしょう

歌を聴く小泉さんの眼差しは遠く、フランス映画のワンシーンのようだ。『センセイの鞄』の小泉さんの変化について、生前の久世さんはこう書いたことがある。

mylastsong_30

「そっけない無表情の横顔に、狂おしい恋の悶えが突然揺れて見えた。人の心の中の、さまざまな矛盾を、不用意といっていいくらい正直に、表へ出すようになった」

この変化の原因を、父を亡くしたことによるものではないか、と推測したうえで、文章はこう続いていく。

「人が死ぬのは当たり前のことだ。けれど、その姿はさまざまだ。昨日元気だった人が、今日はもういない。年の順でもない。部屋の中に、ポッカリ一つ空席ができて、その後、誰かがそこに坐っても、どうにも落ち着かない。生きているということは、周りに虚しい空席が次々とできることなのか。ということは、自分にだっていつか、席を立っていく日がくるのだ」(『歳月なんてものは』幻戯書房)

舞台中央に置かれた肘掛け椅子は、誰にも座れない、彼だけの特等席だ。
この日、彼は確かに、この席に座っていた。

ここから時代は「あの頃」に遡る。まだ久世さんが子どもで、茶の間に「戦争」があった時代。

mylastsong_27

あのころ、お腹を空かしながら《文部省唱歌》を歌って、私たちは何とか戦争を越え、戦後をも越えてきたのだ。《文部省唱歌》の功績は、どの時代よりも、あの時代にあった。

狭霧消ゆる 湊江の
船に白し 朝の霜
ただ水鳥の 声はして
いまだ覚めず 岸の家

透き通った声が「さぎり」という音を発した瞬間、目が覚めるような「冬景色」が立ち現れる。そう、唱歌とは、こういうものだった。日本語の「音」が生み出す色彩、光。凝縮された「詩」の見事さ。

唱歌からもう1曲、「朧月夜」が歌われる。
スクリーンに映る「朧月夜」という文字(書)のなんと美しいこと。
そして、いまも幼稚園や保育園の卒園式で歌われることが多い「おもいでのアルバム」。

mylastsong_01

いつのことだか 思いだしてごらん
あんなことこんなこと あったでしょう

久世さんの言葉を語る小泉さんの声も、浜田さんの歌も、この曲のときは卒業生を送り出すようにひときわ明るく、あたたかい。

さて、雰囲気はまたガラリと変わって、昭和を駆け抜けた天才歌手、美空ひばりの登場だ。
1曲目は1950年、13歳のときに歌った「東京キッド」。

mylastsong_17
軽やかに鍵盤を踊るピアノと歌から、戦後の明るさ、逞しさが弾ける。
2曲目は「一本の鉛筆」。

一本の鉛筆が あれば
八月六日の 朝と書く
一本の鉛筆が あれば
人間のいのちと 私は書く

強い怒りと祈りをこめて詩を書いたのは、脚本家の松山善三。
1974年、初めて開かれた広島平和音楽祭で歌われた反戦歌であることを小泉さんが紹介する。
この曲、実は久世さんの『マイ・ラスト・ソング』には入っていない。
この歌を、二人の女性は「いま」歌いたいと願ったのだろう。その歌声は、天界と地上を行き来する天使の羽のようだ。

3曲目は、なかにし礼の「遺言歌」として書かれたという「さくらの唄」。
三木たかしが曲をつけて自ら歌ったが、全く売れずお蔵入りになった曲を久世さんが蘇らせようとしたエピソードには、鬼気迫るものがある。

ちょっと大げさに言えば、この歌は地獄を覗いて、そこから命からがら、這うように逃げ帰った、卑怯未練の歌なのである。
それなら美空ひばりしかいない。

スクリーンには、真っ赤なドレス姿の美空ひばり。
レコード会社にあっさり断られた久世さんは本人に直接交渉を試みる。

mylastsong_28

御園座で彼女のステージを観た。圧倒的な歌だった。どろどろに濁った沼の底から髪振り乱して這い上がり、そのままの姿で笑ってみせる凄惨さが、どの歌にもあった。
通俗の果ての美しさがそこにはあった。なかにし礼や、三木たかしもかなわない聖娼婦(せいしょうふ)が、そこにいた。何日通ってでも、「さくらの唄」を歌ってもらおうと私は思った。

「もう一度聴かせてください」。美空ひばりの声はすっかりつぶれていた。老婆のようにかすれた声だった。私はテープを頭に戻してボタンを押した。
しんとした終演後の楽屋に、三木たかしの咽ぶような歌が流れた。ちょっと泣きすぎだと私は思った。もっと、微笑いながら人に話しかけるように歌えばよかったのに——。
すると、私が思ったその通りの歌い方で「さくらの歌」が何処かから聞こえてくるではないか。びっくりして見ると、美空ひばりが目をつむって歌っていた。だるそうに楽屋の柱に寄りかかり、疲れた横顔に、疲れた笑いを浮かべて、歌っていた。

エッセイ『マイ・ラスト・ソング』の中でも、久世さんの筆力が際立つ出色の一編。小泉さんは「これ見よがし」の演出を避けた久世ドラマのように淡々と、抑制したトーンで読むことに徹して、ドラマ以上に鮮烈なシーンを立ち上がらせる。

mylastsong_18

何もかも僕は なくしたの
生きてることが つらくてならぬ

最大のリスペクトを込めて歌う浜田さんの歌声がしんしんと会場に沁みていく。
客席のあちらこちらからかすかな音がもれる。
誰もが互いのドラマを邪魔しないよう、必死で堪えているのがわかる。

ピアノのトーンが変化して、紫のネオンが似合いそうな風情で歌い出されるのは、誰もが一度は聞いたことがある曲だ。

酒は涙か 溜息か
心のうさの 捨てどころ

昭和6年、古賀政男と藤山一郎のコンビで国民的な大ヒットとなった「酒は涙か溜息か」は、たった二行の歌。情報が、言葉が溢れる時代、この曲の凝縮感は見事としか言いようがない。

そして、久世さんが手がけた大ヒットドラマから堺正章の「街の灯り」、天地真理の「ひとりじゃないの」。
当時、登場人物がドラマの中で歌をうたうなんて、その曲を持って音楽番組に出てしまうなんて、ありえないことだった。
久世さんは「唱歌」の力、「お茶の間」の大事さを知っていたから、それをやった。
パソコンもスマホもない時代、お茶の間に置かれたテレビは情報の泉であり、先生であり、友達だった。
その中でも群を抜いて久世ドラマはリアルでアバンギャルドだった。

「プカプカ」は71年、大阪で活動していたザ・ディランⅡの曲。ジャズ・シンガーの安田南をモデルに西岡恭蔵が書いた。

幸せってやつが あたいにわかるまで
あたいタバコ やめないわ
プカプカプカプカプカ

15のときから手放さない両切りのピースを手にした久世さんの写真を見つめる小泉さんもまたタバコ好き。
舞台上であることを忘れ、目で合図を交わしているようだ。

その西岡恭蔵が、死んだ。奥さんの祥月命日に首を吊って、死んだ。

言葉と同時に場内が暗くなる。青い照明が差し込み、聖歌のような歌声が響いてくる。

海ゆかば みづくかばね
山ゆかば 草むすかばね
大君の辺にこそ死なめ
顧みはせじ

「かばね」とは屍、大君とは天皇。まさに戦時中の歌で、戦後は放送でもかけられなくなった歌。
この歌を、久世さんはあえて使った。1996年、終戦記念日の前に放映された「言うなかれ 君よ別れを」という向田邦子原作のドラマだ。 久世さんの複雑な感情が凝縮された一節を、小泉さんは厳かに読む。

「海ゆかば」を目をつむって聴いてみるといい。これを聴いていったい誰が好戦的な気持ちになるだろう。人でありながら人を憎み、人を殺したいと思うだろうか。
私は「海ゆかば」の彼方に日本の山河を見る。紅に染まって昏れてゆく、日本の海を見る。そして、朝靄の中に明けてゆく、美しい私たちの山河を護るために、死んでいった従兄たちの面影を見る。

この世界のほとんどは、善か悪か、是か非かでは判断できないことの重なり合いでできている。久世光彦という演出家はそのやるせなさ、どうしようもなさを、泣きたくなるほどの繊細さで、愛情を持って描いた。
抗いようのない時代の波に翻弄されながら、個として深く考え、もがいた経験によって磨き上げられた知性、人との間で深く彫り込まれた陰影、その感性の豊かさに胸が熱くなる。

mylastsong_36

私は「海ゆかば」を、戦争で死んだ人たちだけではなく、すべての日本の死者たちに捧げる鎮魂歌だと思っている。

 

照明は夕日から闇を挟んで朝日へとうつろい、最後の曲は「哀しみのソレアード」。
1974年、イタリアのポップ・グループによる演奏で世界的にヒットした曲。
この曲も久世さんの『マイ・ラスト・ソング』にはない。

さびしい人生に
ひかりをくれた人
今はただ言いましょう
この愛をありがとう

頬杖ついて微笑む久世さんの顔は幸せそうだ。
美空ひばりを「聖娼婦」と表現した久世さんだけれど、この日の小泉さん、浜田さんは、聖母と娼婦の顔を併せ持って、たとえようもなく魅力的で美しかった。
隣のロマンスグレーの紳士も、着物を粋に着こなした女性も、女子高生も、このまま、いつまでも聴いていたいという表情だ。
けれど、上がった幕は下りなければいけない。

アンコールは昭和44年、高田恭子が歌った浜口庫之助作曲のヒット曲、「みんな夢の中」。

泣かないで
なげかないで
消えていった面影も
みんな夢の中

いつか自分もまた空席のひとりになる。
でも、それは大げさに哀しむことじゃない。
私たちの生はもともと何千、何万、何億の死の連なりの中にあるのだから。

「そのとき」私はどんな曲を聴きたいだろう。
歌の力。
頑な心をほどき、絶望に寄り添い、慰め、励まし、希望を見せる力。
たった一人の、たいしたことのない、かけがえのない人生を、ドラマティックに彩る力。
過去と現在が、こちらとあちらが、歌を通して一つに溶け合うなか、久世光彦さん、小泉今日子さん、浜田真理子さんは、うつつの世界に戻っていった。
三人がいなくなった会場には、夢の余韻を味わう一人ひとりが立ち去り難く残っていた。

ここからは極私的な後日談。
この原稿を書いている最中に電話が鳴った。
今年米寿を迎えた父からで、興奮した様子で、歌を聴いてきた、と言う。
地元の集まりで、生演奏だったらしく、「涙が出た」といきなり電話口で歌い始めたのは「海ゆかば」。
そうだ、あまりテレビでは歌われなかったこの歌を私がよく知っているのは、いつも父が歌っていたからだった、とその時気づいた。

取材・文 / 村崎文香 撮影 / 三浦憲治

プロフィール

【朗読】小泉今日子 Koizumi Kyoko

神奈川県厚木市生まれ。16歳で歌手デビュー。抜群のキャラクターと卓越したセンスを活かした枠にとらわれない活動で、ドラマ、映画、舞台と圧倒的な魅力で活躍。エッセイや書評など表現分野でも、その生き方を含め幅広い世代から支持を得る。著作に『小雨日記』(角川マガジンズ)、『小泉今日子書評集』(中央公論新社)、『黄色いマンション 黒い猫』(スイッチ・パブリッシング)等々。久世光彦演出の出演ドラマとしては、1983年から2003年にかけて『あとは寝るだけ』、『艶歌・旅の終りに』、『明日はアタシの風が吹く』、『センセイの鞄』等々。2015年、舞台『草枕』の演技により、第五十回紀伊国屋演劇賞、個人賞を受賞。2016年、舞台、映像、音楽、出版などを企画製作するプロジェクト「明後日」を立ち上げ、充実した活動を続けている。

【歌・ピアノ】浜田真理子 Mariko Hamada

島根県出雲市生まれ。学生時代よりピアノ弾語りの仕事を始める。1998年1stアルバム『mariko』をリリース。2002年2ndアルバム『あなたへ』、2003年12月廣木隆一監督、寺島しのぶ主演映画『ヴァイブレータ』にて「あなたへ」が挿入歌となる。2004年7月ドキュメンタリー番組『情熱大陸』に出演、反響を呼ぶ。2006年大友良英プロデュースによる3作目『夜も昼も』リリース。2009年4作目『うたかた』をリリース。2011年資生堂アースケアプロジェクトCMに「Love You Long」を書き下ろす。2013年4月より福島や原発についての勉強会「スクールMARIKO」を松江でスタートさせる。同年、5作目となるアルバム『But Beautiful』リリース。2014年9年ぶりのライブ盤『Live. La solitude』を発表。同年、初のエッセイ集『胸の小箱』(本の雑誌社)を出版。現在も松江市在住、精力的に音楽活動を続けている。

【構成・演出】佐藤剛 Go Sato

1952年 岩手県盛岡市生まれ。明治大学文学部演劇学科卒業。音楽業界誌を経て、ザ・ブーム、ヒートウェイヴ、中村一義、ハナレグミ等のプロデュースを行う。2008年、(株)ファイブディー・ラボ設立。同年、久世光彦の名エッセイ『マイ・ラスト・ソング』を舞台化、演出も手がけ、現在まで全国各地で継続中。著作に『上を向いて歩こう』(岩波書店/小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(共著・徳間書店)。プロデュース業、執筆活動と、その活動は止まらない。

【テキスト】久世光彦 Teruhiko Kuze

1935年 東京都生まれ。富山県富山市で育つ。1960年、東京大学文学部美術史学科卒後、ラジオ東京(現・TBS)に入社。27歳の時、『パパだまってて』で演出家デビュー。以後、『時間ですよ』、『寺内貫太郎一家』、『悪魔のようなあいつ』、『ムー一族』等々、数多くのドラマを手がける。44歳の時、TBSを退社。株式会社カノックスを設立。テレビドラマ、映画監督、舞台の脚本・演出など幅広く活躍。1985年~2001年、向田邦子原作によるドラマシリーズ『思い出トランプ』、『男どき女どき』、『あ、うん』等々を手がけ、1991年『女正月』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。2003年小泉今日子・柄本明出演のドラマ『センセイの鞄』(川上弘美原作)が、文化庁芸術祭優秀賞を受賞。1987年刊行の『昭和幻燈館』を皮切りに、小説、評論、エッセイなど執筆活動を行った。著作に『花迷宮』『一九八四年冬―乱歩』(第七回山本周五郎賞受賞)、『謎の母』、『マイ・ラスト・ソング』シリーズ等々。2006年、虚血性心不全のため都内の自宅で死去。その演出作品、著作は今でも多くの人に愛されている。

vol.4
vol.5
vol.6