Interview

私たちが見ている世界は本物?『目の見えない人は世界をどう見ているのか』を読むと世界が変わって見える

私たちが見ている世界は本物?『目の見えない人は世界をどう見ているのか』を読むと世界が変わって見える

3年前に出た新書が売れている。伊藤亜紗さんの『目の見えない人は世界をどう見ているのか』だ。

すでに9万部を突破。見えない人たちはどう世界を認識しているか、そもそも「見る」とはどういうことか? について、親しみやすい語り口で書いた本だ。

伊藤さんは美学、現代アートを専攻し、身体論を研究する研究者。また研究と並行してアート作品の制作にもたずさわる。見えない人、見える人とのワークショップを行うなど、実践的に見えない人の世界に関わってきた。

彼女が見えない人たちの世界に発見した可能性とは?

取材・文 / タカザワケンジ
撮影 / エンタメステーション編集部

視覚を使わない身体に「変身」して生きてみる

語り口がやわらかく、専門的な内容が含まれているにもかかわらずとても読みやすかったです。どう書くかは意識されましたか。

読む前と読む後では世界の感じ方が少し変わるような本になるといいなとは思っていました。専門が身体論なので、いつも頭でわかっただけでは意味がないと思っています。この本では、キーワードとして「変身」という表現が出てきますが、読んだ後に、想像の中だけでも見えない人に「変身」してほしいですね。

見えない人たちはすぐ近くにいるのに、その内実を知らなかったと、この本を読んで思いました。見えない人たちの感じ方や考え方を知ることはその世界を旅するようなものだな、とも。

身近にある異文化と言ってもいいかもしれません。健常者が見ている世界から視覚をマイナスした世界ではなくて、まったく別の文化──視覚なしで成立する文化──がそこにある。見えない人の文化を知ることで、見える人も「見る」って何だろう、実は「見る」ってこんなことをしていたんだ、とわかってくるところがありますね。

伊藤さんは、お勤めの東京工業大学がある大岡山に見えない人を連れてきたときに、「大岡山はやっぱり山で、いまその斜面を降りているんですね」と言われて衝撃を受けます。伊藤さんにとっては坂道。でも見えない人は俯瞰的に空間全体をとらえていた。見える私たちと見えない人では空間の把握の仕方が違うんですね。

そのエピソードは読者にとっても印象的だったようで、彼がそう言った場所に立て札をたてようかと言っている人もいました(笑)。

人気スポットになるかも(笑)。

『目の見えない人は世界をどう見ているのか』を書いてからも、見えない人にインタビューを続けているんですが、毎回、パンチを食らうというか(笑)。ああ、そうなんだ! と根本からこちらの常識をひっくり返されることがあって。

『目の見えない人は世界をどう見ているのか』で扱っているのは中途失明、つまり途中で見えなくなった人たちなんですが、先天的に全盲の人がまたかなり認識の仕方が違うんです。先天的に見えない人は、そもそも見るという経験をしたことがないので、視覚に関しての共通言語がない。そのためインタビューしていても難しい部分があるんですが、面白くもあります。

たとえば、目って前についていますよね。ですから見える私たちにとって「前」と「後」の違いはかなり明確です。一方、先天的な全盲の人は、私たちほどは前後のはっきりとした区別がない。インタビューした方によると、前に向かって歩くのとバックすることの大変さがあまり変わらないと言うんです。家の中で忘れものに気づいたときに、振り返って戻るんじゃなくて、そのまま後ろに下がるそうです。

そうなんですか! それは面白いですね。

そんなこと考えたこともないけど、それって便利じゃない? と思いました。

たしかに。無駄な動きがなくて合理的です。

歩くために必要な情報が違うんですよね。見えている人は空間がどうなっているかというビジュアル情報がないと怖くて踏み出せない。先天的に見えない人は視覚に頼らないので、聴覚や触覚など別の感覚を使って前後とも同じくらいの情報をもとに行動するわけです。でも、そのままバックするのを街中でやろうとすると歩行訓練士にすごく怒られるそうです(笑)。

ああ、たしかに危ないですね(笑)。後ろから歩いてきた人とぶつかってしまう。

人が後ろ向きに歩くとは思っていないから。

身の回りのものは、どこまで自分のもの?「視覚のない国」では所有の概念が変わる。

クルマが急にバックするのと同じですものね。見えている人がつくっている社会だから、見えない人の動きがイレギュラーになってしまうケースがある。

SF小説家のH・G・ウェルズに『盲人国』という作品があります。国民全員が先天的に全盲の閉鎖された国が南米のどこかにあるという設定で、見える人がその国に迷い込んでしまう。

主人公は最初、見えるということは優位だと考えるんですが、全員が先天的に全盲の人たちにとっては、見えるってことは幻聴、幻覚みたいなものだから、主人公のほうがヤバい、ということになる。それで目をつぶされそうになって危うく逃げる、という物語なんですよ。

『タイム・マシン』や『宇宙戦争』のH・G・ウェルズにそんな小説があるとは知りませんでした。

見えない人と『盲人国』を読んだときに、「盲人国の描写が甘い」という感想が出たんですよ。だったら、盲人国があったらどんな国になるかを考えるワークショップをやろうということになりました。

「視覚のない国をデザインしよう」というテーマで、見える人、見えない人と一緒にワークショップを三日間やりました。法律がどうなるか、食べ物にはどういう名物があるか、コミュニケーションはどうとるか、建築はどうなるかなど、テーマごとに班をつくって話し合いました。三日目にはアイディアを実際につくってみるというところまでやったんです。それはすごく楽しかったですね。

面白そうですね。どんなアイディアが出たんですか?

いちばん面白かったのは、身の回りの製品について考えてくださいというテーマでした。私の意図としてはコップやお皿がどうなるかを考えてもらうつもりだったんですが、そのチームはもっと原理的なところまでさかのぼり、身の回りとは何か? から考え始めたんです。

身の回りのものって、所有物ではあるけれど、手から離れるじゃないですか。傘がそうですよね。コンビニに入る前に傘立てにおいて、店を出るときに持って帰る。手から離れても自分のものは自分のもの。でも、それって見えない世界ではものすごくめんどくさい。手から離れたら探すのが大変だから。だから、ポケットがめちゃいっぱいある服をつくって、必要なものはぜんぶ身体にくっつけておく。そして、身につけられないものはみんなのものにする。シェアリング・エコノミーみたいに。そうしたら所有っていう概念が変わるんじゃないか、と。

手から離したものはみんなのものでいいじゃないか、というのは一理ありますね。傘なんかいつ雨が降ってもいいようにシェアしたほうが合理的かもしれない。

所有の概念も変われば、ステータスシンボルについての考え方も変わるし、犯罪はあるとしても、人のものを盗むっていうようなことではなくなるんじゃないか、とか。

想像が広がりますね。発想の出発点が変わることで、いろんな可能性が考えられそうです。伊藤さんがおやりになっているのは、見えない人たちの異文化を旅するだけじゃなくて、彼らと健常者がワークショップのようなかたちで一緒に何かをやる。そこに創造性があると思います。

一緒にやるってとても大事なことだと思っています。見えない人、障害を持っている人は、健常者から説明してもらう、提供してもらう、ということが多いので、どうしても反応が遅れてしまうんですよね。起こっている出来事の渦中にリアルタイムに入れない。

最近、見えない人とスポーツを観戦する方法の開発をしているんです。見えない人のスポーツ観戦というと、言葉を用いた説明が基本ですが、言葉だと、たとえばゴールが入ってわーって盛り上がった後に、いまゴールが入ったんだよ、と少し遅れて説明する形になり、一体感を味わいにくい。言葉は厳密な伝達には向いていますが、どうしても受け取るだけになりがちです。

そこで、まだ研究途中なんですけど、スポーツ観戦を言葉を使わずにできないかを探っています。たとえば、テニスだったらダンボールの板をたたき合うことで、ボールがどこにあるかを振動で伝えるとか。柔道だったら、見える人同士が手ぬぐいを引っ張り合って柔道の試合をリアルタイムで再現する。真ん中を見えない人が持っていると、駆け引きがかなり伝わるんですよ。

見えている人にとっても、言葉以外のコミュニケーションの仕方を発見する楽しみがありますね。

そうなんですよ。手ぬぐいを引っ張り合ってると本気を出してしまうんです。自分がやっているわけじゃないのに。憑依が起こって、勝とうとして力が入りすぎたり。単なる伝達ではなく、もう一度試合をしているような面白さがある。

常識だと思っている見方を揺らすきっかけづくりができれば

『目の見えない人は世界をどう見ているのか』で紹介されている「ソーシャル・ビュー」がまさにそれですね。見えない人と見える人が一緒に鑑賞する。どういう作品かについて対話することで、見える人にも気づきがある。

ソーシャル・ビューでは、最初は見える人の言葉が出ない。ふだんの言葉の使い方だと見えない人には伝わらないです。でもそのことに見える人が気づくと、モードが切り替わって、見えない人もそこに入り込める。見える人の失敗経験というか、できなさを感じることはすごく重要ですね。見える人が、いつもやっている方法じゃだめ、という状況にならないと新しい状況はつくれません。

今年出された『どもる体』(医学書院)も、吃音を「治す」という立場ではなく考えていくところが新鮮でした。

吃音を治したいという人もいるので治療を否定するわけではないんですが、吃音が自分の考え方の一部になっている人たちもいる。吃音のある人は、言葉と身体の関係についてつねに悩みながら手探りの実験を続けてきた人で、その実験の深みみたいなものを引き出したいなと思っていました。

私たちは健常者を中心に考えがちですけど、見えない身体になったつもりで世界を見たり、吃音とつきあうことで発見することもある。常識だと思っている見方を揺らすきっかけづくりができれば、と思っています。

伊藤亜紗(いとう・あさ)

1979年東京都生まれ。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授。専門は美学、現代アート。もともと生物学者を目指していたが、大学3年次より文系に転向。2010年に東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻美学芸術学専門分野博士課程を単位取得のうえ退学。同年、博士号を取得(文学)。日本学術振興会特別研究員などを経て2013年より現職。研究のかたわら、アート作品の制作にもたずさわる。著書に『どもる体』(医学書院)、『みえるとか みえないとか』(ヨシタケシンスケとの共著/アリス館)など。

書籍情報

『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

伊藤亜紗・著
光文社新書

私たちは日々、五感――視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚――からたくさんの情報を得て生きている。中でも視覚は特権的な位置を占め、人間が外界から得る情報の8~9割は視覚に由来すると言われている。では、私たちが最も頼っている視覚という感覚を取り除いてみると、身体は、そして世界の捉え方はどうなるのか――? 視覚障害者との対話から、〈見る〉ことそのものを問い直す、新しい身体論。生物学者・福岡伸一氏推薦。