佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 72

Column

若い人たちに発見されてきたことで、“逆流現象”が起き始めている片岡義男の世界

若い人たちに発見されてきたことで、“逆流現象”が起き始めている片岡義男の世界

朝⽇新聞に掲載された大竹昭子氏の書評を読んだのは、2016年6月の終わりだったと思う。

片岡義男の活躍がめざましい。小説・エッセイを含めて年に三、四冊は出ている。七十代後半にして、バッターボックスで飛んでくる球を次々とかっ飛ばすような書きっぷり。呻吟(しんぎん)する小説家のイメージとも、純文学かエンタメかという区分とも無縁な独立峰である。
(朝日新聞朝刊:2016年06月26日掲載)

その頃は片岡さんの旺盛な筆力と軽いフットワークに、ほんとうに感嘆させられていた時期だった。
だから自分の気持ちが簡潔に文章化されていたように感じて、「そうそう」と大きく肯いたことを今でも覚えている。

それから2年の歳月が過ぎて、11月24日の朝に届いた朝日新聞を開くと、知人の亀和田武氏が片岡さんの著書「珈琲が呼ぶ」について書評を寄稿していた。

「珈琲が呼ぶ」は今年の1月に刊行された本だったので、「どうしたのかな、今ごろになって?」と思ったら、うれしいことに「売れてる本」という連載で取り上げられたのである。
そこに載った担当編集者による、以下のコメントにも刺激を受けた。

「この本で初めて片岡義男を知った20代や30代の読者が、著者の過去の作品を買い求める『逆流現象』が起きている」

ぼくは片岡さんの新刊を書店で見かけたら自動的に購入することにしていたが、このところ書店に出向くことが少なくなったこともあって、「珈琲が呼ぶ」はまだ手に入れていなかった。

しかし亀和田さんが「目眩を誘うコク深いエッセー」というタイトルで、「コーヒーの飲みかたと意味も価値も変わった日本と東京。しかし変化しない路地や店もある。珈琲を通し、経済と嗜好(しこう)と日本語を考察した贅沢(ぜいたく)な本」と推していたので、その場ですぐに読める電子書籍を購入することにした。

それからわずか1分後、亀和田さんが紹介していたビートルズを主題にしたエッセーや、美空ひばりが登場するフィクション風の作品を、ぼくは真剣に読み始めたのだった。

若い読者が片岡さんの世界に関心を持ち始めているという情報がインプットされたせいか、「珈琲が呼ぶ」を読んでみると、21世紀になってふたたび片岡さんの作品に光が当たっているのは、ごく自然なことだという思いがした。

たくさんの外国映画の名作がそれぞれの作品として、あるいは原作や俳優にまつわるエピソードとなって、さらにはタイトルに関する話題やトリビアまでをも含む形で、文中に登場する人たちの会話というスタイルのなかで語られていく。
初期の漫画文化を創造した伝説の漫画家たちのことや、翻訳家で小説家だった田中小実昌氏とのやり取りなどは、ぼくには宝物のような体験談に思えた。

音楽についてもまた実に多彩なアプローチがあり、名曲喫茶で聴くクラシックからカントリーやスタンダードまで、守備範囲は信じられないくらいに広くて深い。

オーティス・レディングから高田渡へと連なるコーヒーにまつわる曲の数々は、どれもが片岡さんらしい博識にもとづいて、しかも誰にでもわかるように展開していくのが見事だった。
たとえば「ある時期のスザンヌはこの店の常連だった」は、こんなふうに始まっているのだ。

 スザンヌ・ヴェガのTom’s Dinerという歌は一九八一年には出来ていたという。彼女の初めてのLPが発売されたのが一九八五年で、Tom’s Dinerが収録されたのは、一九八七年に発売されたSolitude StandingというLPだった。このLPの題名案はTom’s Dinerだったが、Solitude Standingに変更されたそうだ。
 一曲目でスザンヌはTom’s Dinerをアカペラで歌っている。リズムに言葉を乗せて語っている、と言ってもいいし、リズムになかば言葉を預けてつぶやいている、と言ってもいい。言葉とは、この歌の始まりから最後まで維持される、一連のエモーションのことだろう。
 Tom’s DinerはTom’s Restaurantという名前でブロードウェイの112th Streetに実在した小さな店だ。ある時期のスザンヌはこの店の常連で、朝のコーヒーをしばしばこの店で飲んだという。Restaurantがスザンヌの歌ではDinerになったのは、言葉を音譜に乗せるためだろう。

「トムズ・ダイナー」はマンハッタンの朝の風景とともに、街角のレストランでコーヒーを飲んでいる女性の視点で語られる歌だ。

私は椅子に座って
朝の時間を過ごしている
このダイナーは
街の通りの角にある
私はカウンターで
その男がコーヒーを
注ぐのを待っている
誰かに見られている
そんな気がして
私は頭を上げる
店の外にいるひとりの女性が
中をのぞいている
私のことを見ているのかしら?

これを読んでスザンヌの「Tom’s Diner」に興味を持ったら、今ではスマホさえあれば、iTunesでもYouTubeでも、Spotifyでも、すぐにその場で楽曲を聴くことが可能になった。

Spotify『Tom’s Diner – Suzanne Vega』

ところでスザンヌ・ヴェガが歌の舞台に選んだレストランは、マンハッタンの112丁目とブロードウェイが交差するところに建つモーニングサイド・ハイツの1階に実在する。
開店して70年となる店「トムズ・レストラン」は、近くにコロンビア大学などアカデミックな機関が多いことから、いつも若者たちで賑わっている。
2018年現在、コーヒーは2ドル75セント、卵ひとつにベーコン(もしくはハム、ソーセージ)の朝食は8ドルで食べられるという。

さて、話はここでマンハッタンのレストランから、60年以上も昔の京都のに変わるのだが、これもまた今でも実在するスマート珈琲店が舞台の物語なのである。
片岡さんは自分の中で長い時間をかけて作られていったという物語を、こんなふうに紹介して「珈琲が呼ぶ」に掲載していた。

美空ひばりとスマート珈琲店のホットケーキ、そしてこの僕をめぐるほんのちょっとしたフィクションがひとつ、長い年月のなかで少しずつ出来ていった。これ以上には拡大したくない、というところまで、そのフィクションは出来た。完成した、と言っていいのではないか。だからここでそれを披露しておこう。

そしてここから小学生だった片岡さんが主人公で、いくつかの体験から生まれたフィクションになっていく。

ふと気がつくと、姉小路通の入口に、ひとりの少女が立って僕を見ていた。明らかに僕を見ているので、僕は彼女に向きなおった。ごく軽く、ふたたび目眩がした。少女は僕より三、四歳年上であるように思えた。なぜこの僕を見つめるのか、と考える僕に回答を提出するかのように、 「去年の夏にもお見かけしたわね」
と、彼女は言った。なにか返事をしなくてはいけないと思う僕に、 「いまのお店で」
 と、彼女の言葉が重なった。
「そうでしたか」
 という僕の返事に対して、いくつかあり得る言葉のなかからひとつを選んだ、という風情で彼女は次のように言った。
「暑い日だったわ。今日とまったくおなじような日」

白いワンピースを着た少女は寺町通りを歩み去っていった。そして角を曲がる時に主人公の方に顔を向けたので、少年だった片岡さんは思わず彼女に深いおじぎをしたという。
すると、その姿が見えなくなるのと入れ違いに、ちょっとした用事を済ませに行っていた母親が現れて、「今の少女と言葉をかわしたのか」と訊ねてきたのだ。

「去年も僕を見た、と言ってました」
 昨年もちょうどいま頃ここへ来た、と母親は言い、 「ひばりやがな」
 とつけ加えた。
「ひばり?」
「美空ひばりや」
 僕の頭のなかで完成した小さなフィクションとは、以上のようなものだ。京都で撮影があるたびに、美空ひばりがお母さんとふたりでスマート珈琲店へ来て、ホットケーキを食べたのは歴史的な事実だ。それ以外の部分、つまり僕が関係してくる部分は、僕が何年もかけて想像のなかに作ったフィクションだと、重ねて書いておく。

事程左様に片岡さんのエッセーには歴史と物語、そして情報が凝縮されていることが、いくらかでもわかっていただけただろうか。
人はこの一冊を入口にして、現在につながっている過去の文化の豊穣な世界に、いつでも自分の意志で足を踏み入れることができる。

その意味で「珈琲が呼ぶ」は新しい読者を片岡義男の世界に導いていく、最適の書であると言えるかもしれない。

1日10杯のコーヒー あなたの知らない片岡義男がここにある
https://kataokayoshio.com/coffee_special

珈琲が呼ぶ
https://kataokayoshio.com/novel/04003

片岡義男.com
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珈琲が呼ぶ

片岡義男(著) / ボイジャー

スザンヌ・ヴェガの楽曲はこちら

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。
「マイ・ラスト・ソング」では構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

ウェルカム!ビートルズ 1966年の武道館公演を実現させたビジネスマンたち

著者:佐藤剛
ボイジャー

ビートルズ来日をめぐる人間ドラマを丹念に描く感動のノンフィクション。

1966年のビートルズ来日公演、それは今になってみれば、奇跡的といえるものだった。いったい誰が、どのようにしてビートルズを日本に呼ぶ計画を立てて、それを極秘裏に進めて成功に導いたのだろうか? これは日本の経済復興の象徴だったリーディング・カンパニーの東芝電気と、その小さな子会社として生まれた東芝レコードにまつわる、歌と音楽とビジネスをめぐる物語である。

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