恩師・久世光彦に導かれて、女優の小泉今日子が歩んできた道のり  vol. 6

Column

‐最終章‐ 誕生から8年、「マイ・ラスト・ソング」の未来のために。

‐最終章‐ 誕生から8年、「マイ・ラスト・ソング」の未来のために。

静かに変わっていった小泉今日子

 久世光彦は〈人の死〉がもたらす女優と演技の関連について、「静かに変わった小泉今日子」という文章を残している。これが書かれたのは2003年、小泉今日子が主演したドラマ『センセイの鞄』を撮影した後のことだ。そしてその3年後に、久世さんは急逝した。

mylastsong_51

 四十年も演出の仕事をしていると、女優の表情や声がある時期に変わったり、周囲に醸し出す空気の色や匂いが、違ってきたりするのに出会うことが、ときどきある。このごろ出色の例は小泉今日子で、つい最近の「センセイの鞄」で、彼女の変わり方を見て、私はかなり驚いた。
(久世光彦著「歳月なんてものは」幻戯書房より)

そうした変り方が見え始めたのは、小泉さんが父親を亡くした頃だったことに久世さんは思い当たる。そしてさらに、もうひとつの〈死〉に気づく。小泉さんの表情や動作に目立って陰影が出たのが、相米慎二監督の映画『風花』に出演してからだったのだ、と。そして〈人の死〉について、こんな感慨を述べている。

 この人の歩調に乱れが見え始めた。呼吸が不規則になった。投げやりとさえ思われる、ある〈放棄〉の色を目に浮かべるのを、私は見た。つまるところ、ある人を変えるのは〈人の死〉なのではないかと私はそのとき考えた。

「風花」を撮影している間に、この人は相米慎二の〈死〉を絶えず予感していたのではないか。その予感通り、相米は「風花」を完成してしばらく後、死んだ。――人が死ぬのは当たり前のことだ。けれど、その姿はさまざまだ。昨日元気だった人が、今日はもういない。年の順でもない。部屋の中に、ポッカリ一つ空席ができて、その後、誰がそこに座っても、どうにも落ち着かない。生きているということは、周りに空しい空席が次々とできることなのか。ということは、自分にだっていつか、席を立っていく日が来るのだ。――そして小泉今日子は、静かに変わっていった。

2008年に誕生した第1回「マイ・ラスト・ソング」

朝日新聞が土曜日に発行する別冊「be」には、ビジネスとエンターテイメントで時代の先端を行く人を大きく取り上げる「フロントランナー」という看板記事がある。そこに小泉さんが登場したのは5月28日、付けられたタイトルは「制作者へ踏み出すアイドル」というものだった。それはこんな書き出しから始まっていた。

50歳にしてなお、人々をひきつけてやまないアイドルだ。30代で俳優としての実力をつけ、40代では文筆家としての評価も得た。50代に入り、さらに「制作者」の顔が加わった。
所属事務所とは別に、制作会社を立ち上げたのだ。映像、舞台、音楽など、幅広いジャンルで作品作りをめざす。

そのインタビュー記事を読んでいて、小泉さんが人生の残り時間を見つめ直すきっかけのひとつに、近親の死があったことを知った。3年間の闘病生活の末に、50代半ばにして亡くなった姉の死を通して、小泉さんは確実に自分にも訪れる死を意識した。そのことが「50歳を前に、人生の残り時間を見つめ直す出来事」だったのだという。

小泉さんから「50歳になったら制作の仕事に踏み出したい」という言葉を聞いたのは2014年1月31日、浜田真理子の地元である島根県松江市で開かれた「マイ・ラスト・ソング」公演の初日が終った夜のことだ。2年後に50歳を迎えるのを機に、後進を育てていきたいという決意表明だった。浜田さんと一緒に、ぼくは厳粛な気持ちで受けとめた。

mylastsong_58

若い頃から身の回りにある〈死〉を意識するかしないかについては、個人を取りまく環境によって大きな差があるだろう。しかし50歳を迎える頃になれば、誰しもが近親の死や友人の死に直面する。否が応でも自らの死を考えずにはいられなくなる。そもそも「マイ・ラスト・ソング」という舞台を始めたのも、久世さんが2006年に急逝したことが発端だった。

ぼくが小学生の頃にいつも観ていた森繁久彌主演のテレビドラマ「七人の孫」が、若い頃の久世さんが演出した作品だったことを知ったのは大人になってからのことだ。大ヒットした「時間ですよ」や「寺内貫太郎一家」のシリーズについては、大衆向けに徹しながらも先鋭的な切り口と手法、得も言われぬ面白さ、時代へのこだわりなどに、久世さんならではの演出やプロデュースの力を感じるようになった。

ぼくにとっての久世さんは何よりもテレビの世界の才人で、どこかで憧れていたが雲の上の人だった。だから後年になって次々に発表される小説やエッセイを読み、楽しませてもらったり勉強させて頂けることで十分だった。そして自分が音楽の世界でキャリアを積み重ねていくうちに、少しづつ距離が近づいてきただけで満足していた。2005年にはぼくが関わった「サヨナラcolor」という歌から生まれた映画、竹中直人監督の『サヨナラcolor』に出演していただいたこともあった。だから、もしかするとどこかで仕事をご一緒にできるかな、と勝手に思ったりもしていた。そんな矢先の2006年の3月2日、お亡くなりになったというニュースを聞いた。ふっといなくなってしまった、そんな喪失感があった。

その少し前に、ぼくはプロデュースを頼まれた中島みゆきのトリビュート・アルバム『元気ですか』で、浜田さんに「アザミ嬢のララバイ~世情」のピアノ弾き語りをお願いした。小泉さんにもそのスタジオに来ていただき、浜田さんのレコーディング後に「元気ですか」を朗読してもらった。そのアルバムのコンセプトをもとにしたコンサート、「生きて泳げ、涙は後ろへ流せ」が大阪フェスティバルホールで開催されたのは、2007年の3月31日のことだった。

コンサートが終わった打ち上げの席で小泉さんと浜田さんの3人、1年前に前に亡くなられた久世さんの話になった。小泉さんには久世さんの教え子という思いがあり、久世さんのために何かできることを考えたいという。じゃあ3人ができることはないかと話しているうちに、歌が大好きだった久世さんのことなら伝えていけるかもしれないという答えに行き着いた。ならばエッセイの「マイ・ラスト・ソング」を舞台にするのはどうかと思いついた。

mylastsong_31

久世さんの「マイ・ラスト・ソング」には唱歌・讃美歌・軍歌・ポップス・歌謡曲、それに外国の曲と、大好きだった歌が多岐にわたって語られている。それらを一人で歌いこなすのは用意なことではない。だが、浜田さんならできるとぼくは思った。小泉さんも、「浜田さんがいれば全部歌えるよね」と言った。そして「私は久世さんの文学者としての一面を、朗読で表現することならできる」と付け加えた。

その場はそこまでの話で終わったのだが、別の企画で世田谷文学館の方とお話をする機会があり、ぼくはキュレーターの方に「久世さんの展示会を開けませんか」と相談してみた。テレビの世界では演出家やプロデューサーの仕事が、商品以外に残すのがなかなか困難である。だが久世さんには映像作品の他にも、作家としてたくさんのエッセイや小説がある。それらの文学作品や映像作品をまとめて、「久世光彦の世界」を開催すべく企画が進み始めていった。

そのなかで久世さんが書いた歌についての文章をもとにして、朗読と音楽を組み合わせた舞台の企画が具体化していく。それによって展示会の開催がしやすくなるかもしれない、実現の役に立てればいい。そんな思いから誕生した第1回「マイ・ラスト・ソング」は、2008年11月に世田谷パブリックシアターで開かれたのである。

そして2009年の9月19日から11月29日まで、世田谷文学館では「久世光彦展 時を呼ぶ声」が開催されたのだった。

世田谷パブリックシアター

8年目を迎えた「マイ・ラスト・ソング」

2016 マイ・ラスト・ソング

今年で8年目を迎えた「マイ・ラスト・ソング」の2日目に、ぼくが心の片隅で目標としていた「物書き」で「プロデューサー」の小西良太郎さんが足を運んでくださった。小西さんは1963年にスポーツニッポンの音楽担当記者となり、早くから音楽評論家としても活動していた。1970年に「ざんげの値打ちもない」(作曲・村井邦彦 歌・北原ミレイ)という歌が世に出た時に、作詞家の阿久悠さんの才能を真っ先に評価して、「阿久悠は新時代の旗手になる!」と自ら旗を振ってムーブメントを起こした人である。大学生だったぼくはペンの力が音楽においても有効だという事実と、知識や感性をもとにした洞察力で先を読めるということを知って感心した。すごい「物書き」がいるんだなあと思った驚きが、ぼくの進路を決定づけたと言っていいかもしれない。
1974年に大学を出て音楽業界の端っこにもぐり込んで1ヶ月もしないうちに、そんな憧れの人と出会うことになったのだから幸運だった。新聞の求人募集広告を見て入ったミュージック・ラボという出版社で、毎月一回、姿をお見かけすることになったのだ。業界人で最初に出会った「かっこいい大人」、それが新聞記者の小西さんだった。

「マイ・ラスト・ソング」が小西さんの連載コラム「新歩道橋」に取り上げられたのは、公演が終わってから約2週間後のことである。

いきなり劇画家上村一夫の話から始まった。酔えば必ずギターの弾き語りで彼が歌った「港が見える丘」について。ギターの弾き方があやしげだったこと。すきっ歯から息がもれて、お歌もすかすかだったこと。歌詞の「あなた」と「わたし」をなぜか必ず「あんた」「あたい」に言い替えたこと。それが昭和の若者の庶民言葉だったこと―。
それやこれやを朗読しているのは小泉今日子で、ネタは亡くなった演出家で作家の久世光彦のエッセイ。取り上げた曲を浜田真理子がピアノの弾き語りで歌い、その後ろに久世が頬づえをつくモノクロの映像が大写しになる。僕はそんなショーの一部始終を5月9日夜、日本橋・三越劇場で見た。

小西さんは阿久悠さんとは戦友のように近い関係にあり、阿久さんと久世さんもまた同世代を生きたという同志的な関係にあった。そんな距離にあったのだから、「マイ・ラスト・ソング」はご自分の体験ともかなりの部分で重なっていた。

 僕の気分もいきなり昭和へタイムスリップした。久世が一緒だった夜も、居なかった晩もあるが、僕も上村の「あんた」と「あたい」を聞いている。必ず一緒だったのは作詞家の阿久悠で、僕は阿久原作、上村作画の劇画のファンだったし、二人とも僕が勤めていたスポーツニッポン新聞の常連寄稿者になった。
(略)
「死の間際に、一曲だけ聴くことができるとしたら、あなたはどんな歌を選ぶだろうか」をテーマに、久世が14年間も毎月書きつづけた選曲とエッセイが「マイ・ラストソング」である。人前では歌うことのなかったシャイな歌好きによる歌論は、人生の機微に通じ、独特の美意識に貫かれて得難い。それをこんな形で構成・演出したのは友人の音楽プロデューサー佐藤剛で、この男はゴールデンウィークの5月3日から9日まで、同じ日本橋三越本店の新館7階ギャラリーで「昭和のスターとアイドル展」を手がけていた。

コラムを読んでいて驚いたのは、「友人」と呼んで頂けたことだ。40年以上も遠くから背中を見てきた大先輩に、初めて認められた気がして感無量だった。そして地味な仕事でも、しっかりと見ていてくれる人がいることに、嬉しさを隠せなかった。それもこれも久世光彦という人の才能や仕事が、「歌」を通してつないでくれた縁なのだ。あらためて人と人の出会いにおける、偶然と必然を考えずにはいられなくなった。
ぼくが企画した「昭和のスターとアイドル展」について、小西さんはこんな言葉を下さった。

 古賀政男・服部良一の世界を起点に、昭和の歌の歴史が展示されて一目瞭然だった。歌謡曲、アイドル、演歌、ムード歌謡、ポップス、GS、フォークと、ブロック群が時の流れに添っており、シングルレコードのジャケットが千枚近く、ポスター、写真、パンフレット、原稿、楽譜、楽器、衣装、ビデオ映像などが、リアリティを持たせる。こだわりのブースは美空ひばり、坂本九、美輪明宏、由紀さおりら佐藤がこれまでにかかわったスターたちの個人史に「昭和のテレビドラマと歌謡曲」と銘打った久世光彦の世界は、銭湯のノレンの奥だ。
(略)
昔、岡野弁氏が主宰した音楽情報誌「ミュージック・ラボ」の新入り編集者の彼とコラム「歩道橋」の筆者として僕らは出会った仲。佐藤剛の強みは、広範囲で精力的な資料収集と徹底的な読み込みの凄さ、それを生かす仕事の創意工夫と行動力だろう。
「マイ・ラストソング」ショーは、この稀有の展示の画竜点睛イベントになった。浜田の歌声は媚びぬすがすがしさを持ち、小泉の朗読は時に久世のものを離れ、その内容と語り口に彼女自身のエッセイストとしての魅力をにじませて魅力だった。

最後の1行、「浜田の歌声は媚びぬすがすがしさを持ち、小泉の朗読は時に久世のものを離れ、その内容と語り口に彼女自身のエッセイストとしての魅力をにじませて魅力だった」というところで、8年目を迎えた「マイ・ラスト・ソング」が成長していることが実感できた。

浜田さんは地元の大学に進学した10代の頃から、繁華街にあるバーやクラブでピアノの弾き語りを始めた。東京へ出てプロのシンガーになろうという夢は家庭の事情で断念したが、その後もあきらめることなく会社勤めをしながら音楽活動を続けた。そして30代も終わりの頃になって初のアルバムを発表し、それが話題を呼んで活動の場が全国区に広がっていった。浜田さんが、「島根で音楽をやろう」と決断したのは40代になって間もなくのことだったという。一人娘が高校を卒業したのを機に、いよいよ音楽一本に道を絞ったのである。ぼくはその少し前にライブを観たことで、一気に彼女の世界に引き込まれてしまった。

ほとんど同じ頃、小泉さんもやはりライブで浜田さんに出会って、そこから二人の交流が始まっている。恩師の思いを後世に伝えようとする小泉さんと、「作品を引き立てるためには、私自身の存在を表に出す必要はない」と言いきる浜田さん、その出会いがあったからこそ「マイ・ラスト・ソング」は始められたのだったし、8年も続けてこられたのだった。

mylastsong_59

まもなく小泉さんが初めてプロデュースと演出を務める舞台、「日の本一の大悪党」が始まろうとしている。「フロントランナー」のインタビューでも、「これまでは追い風のなかを生きてきた感じ。逆にこれからは向かい風の中を歩いていきたいという思いがあります」と語っていた。その潔い言葉を、ぼくは頭のなかで何度もくり返した。今も、繰り返している。

久世さんの本を読み直して、あらためて考えなければならない。「マイ・ラスト・ソング」の未来のために。

文 / 佐藤剛 舞台写真 / 三浦憲治

vol.5
vol.6