瀬尾まいこの「傑作はまだ」  vol. 3

Story

瀬尾まいこ『傑作はまだ』……おっさん、この小説の結末、意味が不明なんだけど

瀬尾まいこ『傑作はまだ』……おっさん、この小説の結末、意味が不明なんだけど
あらすじ

引きこもりの小説家・加賀野<かがの>の元へ、生まれて以来一度も会ったことのなかった息子・智<とも>が突然訪ねてきた。

息子のことは何も知らない。血がつながっている、ただそれだけの関係。ただそれだけのことがこんなにも俺の心をかき乱す。

『僕らのごはんは明日で待ってる』など切なくてやさしい物語を送り出してきた作家・瀬尾まいこが、不器用な親子の姿を描くハートフルストーリー。

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瀬尾まいこ『傑作はまだ』新連載スタート!! 小説家・加賀野の元へ、生まれて以来一度も会ったことのない息子が訪ねてきた

瀬尾まいこ『傑作はまだ』新連載スタート!! 小説家・加賀野の元へ、生まれて以来一度も会ったことのない息子が訪ねてきた

2018.12.02

バックナンバー

連載 瀬尾まいこの「傑作はまだ」

第3回

第一章

2

「林檎は言った。赤くなったらおしまいだ。もう去る時が来たのだと。……おっさん、この小説の結末、意味が不明なんだけど」

 翌朝。ダイニングに行くと、青年はパンをかじりながら俺の本を読んでいた。

 夢ではなかったんだ。俺の息子である人物がやってきたのは。あまりに突拍子もなさすぎて現実だと認識できなかったのか、放っておいた息子に自分から踏み込むことができず知らない間に避けていたのか、昨日は大福を食べた後、二階に姿を消した青年を確かめることもなく、そのまま夜中の三時まで仕事をし、寝てしまっていた。衝撃的なことが起きた時、人は普段どおりの日常を送ろうとするというのは本当のようだ。

 築四十年は超える一軒家。住んでもう二十年近くになる。美月に妊娠を告げられ、この町に引っ越してしばらくはアパートで暮らしていたが、三十歳になった時にここに住むことを決めた。新たに人と出会うことはほとんどない。この先、家族形態や暮らしが変わることはないだろう。そのころには、十冊以上著書が出ていて、お金は十分貯まっていたから、一括で購入した。

 この地域は比較的大きな家が並び、ひっそりと静かで落ち着いている。一人暮らしには広すぎる家だが、何より町の雰囲気が気に入った。ただ、家自体は昔の間取りで部屋数が多く、使っていないどころか引っ越した時以来足を踏み入れていない部屋もいくつかある。二階には五つ部屋があるから、青年はそのどこかで寝たのだろう。広い家だと、誰かが勝手に暮らしていても気づかないものだなと妙なことに感心した。

「林檎が熟して出荷されるってこと? はい。おっさん、飲むだろう」

 青年はコーヒーを淹れるとテーブルに置いた。

「ああ、それ……。それは人生を描いた小説なんだ。林檎というのは人間の本来の姿というか」

「林檎が人間の本来の姿? ちょっと、疲れてるんじゃない? おっさん大丈夫?」

 青年は顔をしかめた上に肩をすくめて見せた。斬新であり人間の根底にあるものを表現した小説だといくつかの賛辞を贈られた作品だ。どうやら、彼は読解力に乏しいようだ。

「ちょっと君には難しかったかな。……って、なんだ、このコーヒー」

 俺は青年が淹れたコーヒーを口にして驚いた。香り高く濃厚で、柔らかいミルクの奥に漂う深み。素人が淹れたものとは思えない。

「なんだこれって、林檎の次は、コーヒーに人間の本来の姿でも見えた?」

「いや、うますぎないか?」

 青年は「うますぎる?」と目を丸くした。

「ああ。重厚な味がする。どこの豆を使ったんだ? 君はバリスタなのか?」

「バリスタじゃなくて俺はフリーター。これ、ネスカフェゴールドブレンド。おっさんの家に置いてあったやつ。おっさん、普段どうやってコーヒー淹れてるの?」

「どうって、コーヒーの粉をカップに入れてお湯を注いで、最後に牛乳を入れている」

 二十年以上毎朝コーヒーを飲んでいる。こんな単純な作業に間違いがあるのだろうか。

「わかった。おっさん、牛乳を温めて入れてみなよ。レンジでいいから。そうするとほっこりする味になるよ。おっさんと俺のコーヒーの淹れ方の違いはそこだけだな」

「それだけなのか?」

 それだけでコーヒーはこうも味を変えるのだろうか。

「そう。あとは人に淹れてもらったからじゃない? 自分のために淹れるコーヒーより人のために淹れるコーヒーのほうが絶対的においしいわけだからさ」

「そうなのか」

「そうそう。俺、もう少ししたらこの辺散歩して、そのままバイト行くわ。帰りは夜だし、おっさんは気にせず林檎の出荷作業したりコーヒーの淹れ方を研究したりしといて」

 青年は「そいじゃ。いってきます」と軽く手を上げると部屋を出て行った。

「あ、ああ」

 人との距離の詰め方に、あの軽さ。俺にはまったくないものだ。そのせいか、実際に青年を目の前にして話をしていても、息子だというつながりを感じることはまるでできなかった。

 でも、永原智は確かに俺の息子だ。「十万円受け取りました」とだけ書かれた紙切れと共に、毎月一枚送られてくる写真。生まれてすぐの智は俺にそっくりで、俺の子ども時代の写真を見ているように思えるくらいだった。それが、目鼻立ちがはっきりとしてくるにしたがって、美月寄りの顔になり、小学校に入るころには、なで肩と、左頰に並ぶ二つのほくろぐらいしか俺との共通点はなくなっていた。

 俺は本棚から年月順に写真を入れたファイルを取り出した。眺めて感傷にふけるわけではないが、まさか息子の写真を捨てるわけにもいかず、とりあえずファイルにしまってある。

 別々に生きることを決めたとはいえ、子どもが無事に生まれたと知らされた時は、ほっとしたものだ。生後三年くらいは、育っていく姿に単純に感動を覚え、写真を何度も眺めた。寝転がっていたのが座り、立ち上がり、歩く。次は何ができるようになっているのだろうと、写真が送られてくるのを心待ちにしていた。だけど、子どもの成長自体が緩やかになってきたせいなのか、智が五歳を過ぎるころには写真を見てもたいした感慨を抱かなくなってきた。

「中途半端に会うのは子どもにいい影響を与えない。一生を共にする覚悟がないのなら決して姿を現すべきじゃない」と美月に釘を刺されていたのもあるが、実の子どもがすぐ隣の市で暮らしているというのに、会いに行くという行動にいたることはなかった。会ってみたいという気持ちは日に日に薄れ、お金を送り写真を受け取るだけの流れに完全に頭も心も慣れ切っていた。そのうち、子どもの成長に喜びを感じることで、かろうじて親としての役割を果たそうとしていた、そのわずかな義務感すらもなくし、いつしか写真は、養育費の受け取りと子どもが元気であることを確認するだけのものとなった。

 最後に送られてきた写真には、「二十歳になりましたのでもうお金は要りません」とメッセージが添えられていた。この写真から五年と四ヶ月。目の前に現れた智は、ほんの少し痩せて顔も引き締まったように感じる。フリーターだとはいえ、社会に出るのは厳しいのだろう。

 二百四十一枚の写真に効用があるとすれば、突然現れた青年を見て自分の息子だと認識できることだろうか。一度でも、智の動いている姿を見ていれば、この手で智に触れていれば、今、俺の心はもう少し動いていただろうか。二百四十一枚の写真が収納されたファイルはどしんと重い。

 俺はファイルを片付けて、書斎へと向かった。今月書くべき原稿はまだ半分も書けていなかった。

つづく
タイトル画像・デザイン / 山家由希

第2回はこちら
瀬尾まいこ『傑作はまだ』…飲み会が始まって十分も経たないうちに、長所は見た目だけの空っぽの女だということがわかった。

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2018.12.06

第4回はこちら
【日・木更新!】連載小説第4回『傑作はまだ』(瀬尾まいこ)

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2018.12.13

瀬尾まいこ(せお・まいこ)

1974(昭和49)年、大阪府生れ。大谷女子大学国文科卒。2001(平成13)年、「卵の緒」で坊っちゃん文学賞大賞を受賞し、翌年単行本『卵の緒』で作家デビュー。2005年『幸福な食卓』で吉川英治文学新人賞を、2008年『戸村飯店 青春100連発』で坪田譲治文学賞を受賞する。他の作品に『図書館の神様』『優しい音楽』『温室デイズ』『僕の明日を照らして』『おしまいのデート』『僕らのごはんは明日で待ってる』『あと少し、もう少し』『春、戻る』『そして、バトンは渡された』など多数。

書籍情報

『そして、バトンは渡された』

瀬尾まいこ(著)
文春e-Books

たくさんの〈親〉たちにリレーされて育った優子。数奇な運命をたどったけど全然不幸じゃなかった少女の物語。
私には父親が三人、母親が二人いる。家族の形態は、十七年間で七回も変わった。これだけ状況が変化していれば、しんどい思いをしたこともある。新しい父親や母親に緊張したり、その家のルールに順応するのに混乱したり、せっかくなじんだ人と別れるのに切なくなったり。(本文より)
幼くして実の母親を亡くし、様々な事情で血の繋がらない〈親〉たちの間をリレーされ、四回も苗字が変わった優子だが、決して不幸だったわけではない! 〈親〉たちの愛を一身にうけて、〈親〉たちのことも愛して、いま十七歳の優子は幸せなのだ。身近な人が愛おしくなる、著者会心の感動作!

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