佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 73

Column

追悼・前田憲男さん~原曲を超えるアレンジでヒットして日本のスタンダードになった「別れの朝」

追悼・前田憲男さん~原曲を超えるアレンジでヒットして日本のスタンダードになった「別れの朝」

ペドロ&カプリシャスのデビュー・シングルとして発売された「別れの朝」は、1971年の10月25日に発売されて大ヒットした。
この楽曲はそもそも外国曲のカヴァーだったが、11月25日に83歳で亡くなった前田さんの見事なアレンジによって、日本のスタンダード・ソングになった。

前田さんの訃報を聞いた3日後に発売された単行本、濱口英樹・著「ヒットソングを創った男たち 歌謡曲黄金時代の仕掛人」(株式会社シンコーミュージック・エンタテイメント)には、日本語詞による「別れの朝」が生まれてきた時のエピソードが、レコードの発売元だったワーナー・パイオニアのディレクター・塩崎喬氏によって語られていた。
そこで追悼の気持ちを込めて、前田さんのアレンジによって名曲が誕生したときのエピソードをお伝えしたい。

「別れの朝」はオーストリアのシンガー・ソングライター、ウド・ユルゲンスが1967年に発表した「Was ich dir sagen will(ヴァス・イッヒ・ディ・ザーゲン・ヴィル」が原曲である。

そもそものタイトルは「私があなたに言いたいのは…」という意味らしいが、日本ではシャンソン歌手の大木康子によって、1969年に「夕映えのふたり」(訳詞 堀内みち子)として最初にカヴァーされたという。

ラテン・バンドのリーダーだったペドロ梅村が、カプリシャスのレパートリーに取り上げることにしたのは、1971年の春に新たなヴォーカリストとして加入した前野曜子に歌わせたいと思ったからだ。
彼女の卓越した歌唱力とハスキーな声を活かすにはぴったりだと、ペドロはイギリスのマット・モンローによる英語詞の「ミュージック・プレイ(The Musivc Played)」を歌わせてみた。

ペドロ&カプリシャスはその頃、東京・赤坂にあるゴージャスな高級ナイトクラブ「ニューラテンクォーター」に、レギュラーのハコバンで出演していた。
そこでは100名を超えるホステスさんたちが働いていたが、「ミュージック・プレイ」を聴いているときの反応が、日に日に良くなっていくのが感じられるようになってきたという。

ペドロ&カプリシャスのマネージメントを行っていた事務所の社長から相談を受けたのが、TBSテレビの「ナベさん」こと、音楽番組を担当していたプロデューサーの渡辺正文だった。
以前からレコード・デビューさせたいと言われていた渡辺は、実際に「ニューラテンクォーター」に足を運んで生で聴いてみて、即座に「ミュージック・プレイ」がヒットする匂いを嗅ぎ取った。

そこで渡辺は当時は飛ぶ鳥を落とす勢いのヒットメーカーだった作詞家のなかにし礼に声をかけて、さらにはワーナー・パイオニアのディレクターだった塩崎喬を巻き込み、数日後にはレコード発売を決めてしまったという。
「ヒットソングを創った男たち~歌謡曲黄金時代の仕掛人」から、塩崎が発言した箇所を引用する。

その店では、ある曲がかかると、踊っていたホステスさんがみんな席に戻ってしまう。
ナベさんが「どうして踊らないんだ?」と訊くと「この曲だけは座って聴きたいの」と。
それが「別れの朝」の原曲である「The Musivc Played(Was ich dir sagen will)でした。
ナベさんがバンドのメンバーを呼んだら、そこに現れたのがリーダーのペドロでね。
ナベさんはストレートな物言いをする人だから「君たち、レコード出したいか? ここにいるのは日本一の作詞家とディレクターだから、この曲でデビューするなら、この塩崎って男がすぐに実現させるぞ」と。ペドロのメンバーたちはもちろんイエスでしたけど、ずいぶん乱暴な話でしょう? (笑)。
編成会議が終わった直後でしたから、その翌日に「TBSの渡辺さんが気にいってるので」ということで強引に社内を通しました(苦笑)。

なかにし礼はその場で渡辺に向かって、「詞さえ良ければ絶対にヒットする」と自信たっぷりに豪語したという。それは楽曲の良さもさることながら、前野曜子の声質や歌唱力について感銘を受けたからだった。

そんな作詞家の発言に続いて渡辺が編曲に関して、「この曲は格調高いアレンジにしたほうがいいから」と主張し、自分で「そうなるとのぶちん(前田憲男)しかいないな」という結論を出した。
学生時代からアルバイトでジャズ・ピアノを弾いていた渡辺にとって、前田憲男(本名・暢人)は日本では最高峰のジャズ・ピアニストで、アレンジャーとしても都会派で品がいいと高く評価していたのだ。

塩崎もアレンジャーについてはまったく異論がなく、全員がその場で納得して前田憲男に頼むことに同意した。
さっそく前田憲男とスタジオのスケジュールを抑えて、早くも2週間後にはレコーディングという段取りになった。
そして完成する日から逆算して最短の発売日、10月25日にはシングル盤を発売することが決まったのである。

バンドを結成してからレコード・デビューに向けて苦労を重ねてきたペドロは、あまりにも短い時間に物事が前に進んでいくスピードに驚き、口をあんぐりさせていたという。

それから2週間後に行われるレコーディングの日まで、夜通し別れ話をした後の男と女を主人公にした物語をさまざまに展開させながらも、なかにし礼は何かひらめきが降りてくるのを待って、ついにレコーディングの日を迎えた。

レコーディングの当日、六本木にあった日活スタジオにはバンドとスタッフが揃っていた。
そしてアレンジャーの前田憲男が事前に書いてきた凝った譜面を見て、バンドとオーケストラとの音合わせや、コーラスやストリングスとの入念なリハーサルが始まった。
ヨーロッパの香りを漂わせるフレーズを活かしながらも、前田憲男らしく決して重くならない華麗なサウンドは、バンドが持っているラテンのグルーブとのマッチングもよく完璧だった。

しかしリハーサルが終わっても、なかにし礼は登場しないし、書いた歌詞も届かなかった。

関係者全員が「どうした、まだなのか?」と、いくらか不安な気持ちで待っているところに、自信に満ちた表情のなかにし礼が現れて、書き上がった歌詞を真っ先に渡辺に手渡した。
歌詞を読み始めた渡辺の目が途中からうるんで、涙ぐんでいく様子が周囲にもわかったという。


すぐに歌詞のコピーが配られて、そこで前野曜子は初めて日本語の歌詞を目にした。
しかし歌って練習する間もなく、その場でミュージシャンとの音合わせが始まると、そのままレコーディングの本番に突入した。
そして最初のテイクで、スタッフ全員とバンドの両方から「OK」が出たのである。

ペドロ&カプリシャスが無名の新人だったにもかかわらず、「別れの朝」はレコードが発売されると順調にヒットし、翌年の2月14日からは4週連続でオリコンチャートの1位になった。

前田憲男はジャズメンらしくスケジュールが可能な限り、プレーヤーとしても仕事を受けるという、オールマイティのアレンジャーとして活躍した。
だが、それだけの量を仕事としてこなしながらも、映画音楽やテレビの番組などでもジャンルを超えて、素晴らしいアレンジの作品をたくさん残した。

歌謡曲における代表作といえば森進一の「冬のリヴィエラ」、サーカスの「Mr.サマータイム」、小林旭の「熱き心に」といった楽曲になるのだが、それらのヒット曲はいずれも華麗なストリングスをふくむオーケストラ・サウンドで、独特のスケール感があってみんな日本のスタンダード・ソングになっている。


前田 憲男氏の楽曲はこちら

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。
「マイ・ラスト・ソング」では構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

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