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ダメ王子ナレク=滝澤 諒は歌劇派ステージ『ダメプリ』で完璧王子の夢を見るか?

ダメ王子ナレク=滝澤 諒は歌劇派ステージ『ダメプリ』で完璧王子の夢を見るか?

12月1日(土)より、AiiA 2.5 Theater Tokyoにて「歌劇派ステージ『ダメプリ』ダメ王子VS完璧王子(パーフェクトガイ)」が上演中だ。とある国の建国パーティに呼ばれた様々な王国の“ダメ王子”たち。そこでの一夜の出来事をコミカルでときにシリアスに描いている。そのゲネプロと囲み取材が行われた。なお、ゲネプロは、“LOVEルート”の上演だった。

取材・文・撮影 / 竹下力

誰だって“ダメ”なところがあって、“完璧”なところがある

わざわざ今作の「ミリドニア」のナレクに倣ってカッコをつけて書いているわけではないのだけれど、村上春樹さんの小説『風の歌を聴け』に、大人から中高生まで知っているかもしれない一節がある。「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」(講談社文庫より)とあるけれど、それがどんなことを言っているのか、どんなことを訴えかけてくれているのか以上に、その手の言葉に胸アツくなったりしてしまう。きっとそういう人はたくさんいるはず。とにかく、それを解読してくれる人は私なんかよりもっともっと立派な人がいるし、たくさん文献もあるのでそちらに委ねておこう。

とにかく、小説においてその言葉がどんな意味を持つのかは隅っこに置いて、なんとなくこの文章が、「歌劇派ステージ『ダメプリ』ダメ王子VS完璧王子(パーフェクトガイ)」に当てはまってしまうのは気のせいだろうか。こうも言い換えることができる。「完璧なダメ王子などといったものは存在しない。完璧なパーフェクトガイが存在しないようにね。」と。

つまるところ、人間はメビウスの輪のような存在かもしれない。人間の“ダメ”な部分をろ過してゼロに近づければ、“完璧”になれるのかもしれない。人間の“完璧”な部分を抽出して、それを限りなく無限大に広げていけば、逆に“ダメ”になってしまうのかもしれない。そう、誰だって“ダメ”なところがあって、誰だって“完璧”なところがある、そんな意味ではないかと。この舞台は、少し難しい論理の輪が複雑に絡み合った、実に奥深い舞台なのだ。それはダメ王子のダメっぷりや、パーフェクトガイから垣間見えるパーフェクト過ぎて目立ってしまうダメな部分が、今作の通奏低音として流れている“人間の感情”そのものを表しているからかもしれない。だから、今作からは無限の宇宙に広がる“優しい心”の星々がキラキラ輝いて見える気がするのだ。かの村上春樹さんの言葉のように、そんな心の奥底の襞を優しく撫でてくれる気がする。人はねじれながらも、矛盾を抱えながらも生きているのだ。

そんなことを考えていたら、約3時間の舞台はあっという間に終演。舞台にはフレッシュな初座長の滝澤 諒がお辞儀をしている。はだけた白いシャツから、割れた腹筋が見えて、全身から汗が滴っていて、肩は上下し、肺はふいごのように大きく膨らんで縮んでいく。この舞台で彼の生き様が見えたような気がした。ある意味で、「俺様は完璧なダメ王子だ」と言わんばかりのダメさ加減を100%演じ切った。歌って、踊って、芝居をして、殺陣をした。あくまでナレクを演じながらも、滝澤 諒という役者の自信と信念を感じてしまったのだ。今作はそんな役者を超えた人間存在の意義を突きつけてくる。底抜けに明るくて楽しめるパーティのような舞台なのに、観客は「人間とは? 人間の心とは?」と考えなければいけなくなる。帰り道、「やれやれ」なんて言いながら。

舞台はとある時代の大きな大陸。そこにルオーシュ(徳山秀典)を代表とする新たなスパ・ダ・リーン王国が建国された。その記念すべき一夜限りの建国パーティへと招待された各国の最重要人物たちがいた。武力国家「ミリドニア」からナレク王子(滝澤 諒)、ヴィーノ公爵(松本祐一)、騎士のリオット(進藤 学)。宗教国家「セレンファーレン」から第一皇子リュゼ(大見拓土)、第二皇子メア(三原大樹)、宰相のクロム(汐崎アイル)。山間の弱小国家「イナコ」から姫の代わりに騎士のテオ(橘りょう)と守護獣のグリまる(齋藤彩夏)が馳せ参じる。

スパ・ダ・リーン王国にやってくる王子たちご一行は、それぞれダメなところを抱えている。ナレクは椎名林檎さん風に言えば「俺様ナルシスティック」な王子で、誰よりも自分が一番カッコいいし強いと思い込んでいる。王子の友達のヴィーノは女の子が大好きで口説くことが生きがいのナンパ男子。女性なら年齢構わずドンと来いで、男子からすれば、なんだかすごいし偉いぞと褒めたくなってしまう男性の鏡に見える。リオットは騎士道精神を重んじるせいか、どうも周囲に振り回されてしまう。そのせいかストレスで、眉間にシワがよりすぎるのがタマにキズだ。

リュゼはメアの兄であり、何をせずともカリスマ性で他者を圧倒しているのだが、みんなの寵愛を受けたせいで、どうも自我を持っていないお人形のような可愛い子になってしまった。ノアは自分の部屋と二次元の世界に引きこもっているオタク気質な男の子。クロムはセレンファーレンの宰相で、信心深く、機転が利いて政治に関しても敏腕なのだが、リュゼが命の、いわゆる“皇子コン(ブラコンやシスコンの類です)”で、少々イタい人なのだ。

テオは姫を守るためならなんでもするのだが、逆に姫以外には何も見えない実直な男の子である。グリまるは、イナコの守護獣で、現代で言えば、猫や犬のような可愛い動物で、“愛”という不可視なものをエネルギーにしているのだが、どう考えてもちょっと陽気で太った猫にしか見えない。本人は違うと言い張っているらしいのだが、やっぱり太った猫じゃないのか? いや、それはおいておこう。

こんな一癖も二癖もある人や動物(?)が集まれば、もちろん何も起こらないはずもなく、パーティは開幕早々から大混乱となってしまう。そこに颯爽と現れたのは新国家の王子ルオーシュ。新しく王子となったルオーシュは何もかもこなせる自称・完璧王子(パーフェクトガイ)だというのだが……。

物語が進むにつれて、ダメ王子VSパーフェクトガイの様相を呈していくのだけれど、どちらが完璧な勝敗をあげる訳でもなく、どちらも同じように、天秤の上で釣り合っているように見える。なんだか対立しているように見えて、仲が良いようにも見えるときがある。それはメビウスの輪のように、見方によってはどちらも正しいのだと教えてくれる。“ダメ”でも“完璧”だっていいじゃん、そんな楽しいバイブスが舞台から伝わってくる。

ルオーシュの徳山秀典は、まさにパーフェクトガイ。まるで出来の良すぎるテレビ業界人といった風情で、ちょっと胡散臭いけれど、とにかくタレントの行動を予測して先回りができる思考回路を持つ、やたらに小憎たらしいキャラクターを知的でありながら、時には狂気を孕んだ演技をしていた。たしかに完璧に見えるし、何もかも彼の思惑通りに動いているように見させる演技力は圧巻だ。それでいて物語の語り部的な役割も担っていて、縦横無尽の暴れっぷり。

リュゼの大見拓土は、見た目は女の子にしか見えないし、なんだか佇まいからして清楚である。それでいてどこか謎めいた雰囲気がちょっと背徳的な匂いがするのに、そんな邪推はどこ吹く風と信心深い男の子をきちんと演じて、「セレンファーレン」という国で信奉している神様を信じ切っている様子を見せた。あるいは、クロムやメアさえも信じ切っている。彼は天然で人の心や神の心まで何もかも純粋に信じているのだ。そんな人の良さが演技から感じられて清々しかった。

クロムの汐崎アイルは、さすがの百戦錬磨の役者で、演技に迷いがない。なんだか鞭を振りかざしているSっ気の漂う宰相なのだが、「こんな人いたら怖いよね」というリアルさがあったのと同時に、「仲間だったらとても信頼できる」と信頼感を感じさせる表裏一体の演技をしていたような気がする。リオットの進藤 学との相性も抜群で、掛け合い漫才を見ているようで頼もしい。今作以外でも汐崎アイルは個人的にずっと追いかけている役者だけれど、本当に手練れな人だと思う。

グリまるの齋藤彩夏は、この国では得体のしれない生き物に生の息吹、リアリティを与えていたように思う。設定としては“グリまる”の観念の存在が齋藤彩夏だそうだけれど、齋藤彩夏の観念が“グリまる”に見えたりするから不思議だ。彼女自身のキャラクターが反映された、どこか力強い、唯一の女性(?)キャラを丁寧に演じていた。

もちろん思い入れ深いキャラクターは他にもたくさんいる。ヴィーノの松本祐一の心に闇を抱えた苦悩は、明るい性格だからこそ一際目立っていた。テオの橘りょうは齋藤彩夏との夫婦漫才的なやり取りが楽しいし、メアの三原大樹も少し闇を抱えていたけれど、兄のリュゼには幸せになって欲しいと願う気持ちにホッコリする。この舞台の登場人物は、みんながみんな幸せになって欲しいと願っているのだと思う。だからダメな奴でも、完璧な奴でも憎めないし、やっぱり生きている人間は、もちろん動物も平等なのだとつくづく実感する。

ナレク親衛隊のハディの馬庭良介、エイミルの野見山拳太、サンバンの坂下陽春は、トリオで光っていた。ナレクを想うばかりに多少の無理さえ厭わないキャラクターで彼らの自己犠牲の精神が涙を誘う。この舞台では、コンビやトリオでの活躍ぶりが目覚ましい。おそらく脚本の八十島美也子の「人間存在がどうという前提よりも、どんなに“ダメ”でも、どんなに“完璧”でも1人では何もできない」というテーマを感じさせる舞台だからではないだろうか。アンサンブルの畑中ハル、岩佐祐樹、井伊亮太、春山航平、髙野真器、古張和貴も舞台の転換やスパ・ダ・リーン王国の従者などとして八面六臂の活躍が眩しかった。

演出も兼ねた八十島美也子は、ダメ王子のダメっぷりを破茶滅茶に見せるのではなく、理路整然とそれでいて心が通った、観客が感情移入できる演出になっていたと思う。思いっきり笑える仕掛けも満載だ。特に素晴らしいのは、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』に習ったのだろうか、ダメ王子たちとパーフェクトガイが一堂に返して食事をするシーンは感動的ですらあった。横一列に机と椅子が並び、ダメ王子たちとパーフェクトガイが並列して並ぶ。そこにはどんな国のどんな人にも、ダメさ加減も、完璧さ加減も、同じように存在しているのだと示していた。そしてそれを受け入れる心の広さを持とうと訴えているのではないだろうか。

そして、カンパニーをまとめた初座長の滝澤 諒にぜひ拍手を贈ってあげてほしい。時にダメっぷりをナルシスティックに見せ、これは私の初めての経験だけれど、ナルシストも突き詰めれば、仲間を守ることも“俺様の凄さ”を見せる絶好の機会になるのだ。ナルシストだって悪くない。もうおじさんになっても気づかされることがある若干20歳の役者に頭が下がる思いだ。もちろん、歌に、殺陣に、ダンス、芝居に見どころ満載なので、飽きることはないだろう。

人間とは不思議なものだ。どんな時でも完璧ではいられないかもしれないし、完璧になれるときもある。だからといって、完璧じゃなくても大丈夫だということも教えてくれる。あるがままの自分を、あるがままに受け入れる。そんな雄大な気持ちを持とうと教えてくれた舞台だった。今の世知辛い世の中に差し込む一筋のホタルの光のような優しい舞台。そして、そんなことを感じさせてくれた滝澤 諒たちに感謝の念を。

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