佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 74

Column

藤圭子の愛と苦労が報われてほんとうに良かったと、自分のことのように幸せを感じたコンサートの夜。

藤圭子の愛と苦労が報われてほんとうに良かったと、自分のことのように幸せを感じたコンサートの夜。

横浜アリーナからスタートした宇多田ヒカルの“Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018”は、デビューから満20周年の記念日となる12月9日に幕張メッセでファイナルを迎えた。

報道によれば宇多田ヒカルは最終日のステージで、「誕生日みたいな会の主役は苦手ですが、きょうは素直に喜びます。20年の節目に両親にありがとうを伝えたい」と、亡き母の藤圭子と音楽プロデューサーである父へ、感謝の意を口にしたという。

宇多田ヒカル、デビュー20周年記念日に国内ツアーファイナル! VR配信も発表

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2018.12.10

ぼくがコンサートを観に行ったのは12月5日(水)の「さいたまスーパーアリーナ」における公演だったが、歌と演奏が完璧といえるくらいに素晴らしいもので、インターミッションのように映像で流れる又吉直樹との対談(?!)もふくめて、十二分に満足できる内容だった。

コンサートを振り返ってみて、特に印象に残ったのは最初のMCである。
宇多田ヒカルが「はじめましての人はいますか?」と観客に問いかけたとき、たくさんの観客が手を上げて反応したことに、彼女は驚いた様子を見せた。
そして「ほとんどじゃん!?」と言ってから、「前にも来た人は?」とすぐに問い直したのだが、意外なことにそこでは、パラパラと少数しか手が上がらなかった。
予期せぬ反応だったのだろうか、「そうか、あんまりライブやらないからね」と、彼女は自分を納得させるように笑った。

それを見ていた大半の観客もまた肯きながら、みんな静かに微笑んでいるようだった。
そのようにしてお互いに自然体でいられるアーティストと観客の関係について、ぼくは「美しいな」と思ったのである。

それと同時に、自分がその場に居られることの幸せを、そこはかとなくだが感じて感無量だった。

なぜならば日本の芸能界という特殊な場所のなかで、とりわけ偏った価値観の世界に投げ出されてしまった藤圭子のことを、不憫な思いで見守るしかなかった過去がよみがえってきたからである。
メディアを通して作られていく不自然な虚像を演じながら、それでもひたむきに歌わなければならなかった藤圭子は、もがきながら次第に存在感を失っていくしかなかった

そしてどういう偶然なのか、ライブを観た3日後の夜に、藤圭子を取り上げた2時間のドキュメンタリーが、BS朝日でオンエアされることになっていたのだ。
それについては本人がツイッターで前日に、こんなことをつぶやいたので期待値が高まった。

番組が始まった時からていねいな作りであることが早くもわかったし、ドキュメンタリー番組としての視点も明確で、いくつかの新証言もあって見ごたえがあった。
最低でも藤圭子の歌はワンコーラス聴かせるなど、制作者の真摯な思いは細部からも伝わってきた。

また「宇多田ヒカルのお母さんと呼ばれるのを喜んでいた」という、最後を締めくくったナレーションも好感が持てるものだった。
そして観終わった余韻のなかで、藤圭子の素顔について書かれた印象に残る文章を思い出した。

作家の村上春樹は学生時代だった1970年に、新宿の小さなレコード店にアルバイトしていた。そこに藤圭子がふつうの女の子のように、ごく自然体な態度で入ってきたことがあったという。
その時のことがエッセイとして、このように書かれている。

彼女はマネージャーもつれずに一人でふらっと僕の働いているレコード屋に入ってきて、すごくすまなさそうなかんじで「あの、売れてます?」とニコッと笑って僕にたずねた。とても感じの良い笑顔だったけれど、僕にはなんのことなのかよくわからなかったので、奥に行って店長を連れてきた。
「あ、調子いいですよお」と店長が言うと、彼女はまたニコッと笑って「よろしくお願いしますね」と言って、新宿の雑踏の中に消えていった。店長の話によればそういうことは前にも何度かある、ということだった。それが藤圭子だった。
そんなわけで僕はまるで演歌は聴かないけれど、今に至るまで藤圭子という人のことをとても感じの良い人だと思っている。ただ、この人は自分が有名人であることに一生なじむことができないんじゃないかという印象を、その時僕は持った。
(村上春樹著「村上朝日堂」新潮文庫)

ドキュメンタリーを観終わってこのエピソードを思い出したのは、学生だった村上春樹が見て感じたという1970年の藤圭子の自然体と、さいたまスーパーアリーナでぼくが感じた宇多田ヒカルの自然体が、まるでうりふたつであることに気づいたからだった。

有名になってしまった芸能人や、とてつもない注目を集めるスーパースターが、人に接するときに自然体でいるということは、実は大変な困難をともなうものである。
世間という摩訶不思議なものに左右されるという意味で、それは本人というよりは身近な人間関係の問題へと収斂されていく。

ましてや藤圭子の場合はロックが好きだったという聡明な少女が、一人の売れない作詞家と出会ったことから、演歌=恨み節=怨歌という限られた枠のなかで、徹底して芸能界的に売り込まれたという経緯があった。
しかも事実を脚色した不幸な生い立ちとのセットで、とにかく目立つようにと芸能ジャーナリズムを目いっぱい利用して、有名人にさせられたのだった。

そのことによって本人の実像とはかけ離れた虚像が、否応なしに独り歩きしていくことになり、激動の時代が求めているスーパースターに藤圭子は祭り上げられていく。
そしてほんとうに歌いたい歌を選ぶ自由もないまま、周囲の大人たちに与えられる仕事に全力で立ち向かい、ひたすら歌うという状況の中で疲弊していったのだ。

日本の芸能界にまったくなじめなかった藤圭子は、早くから引退することを考えていて、10年後には単身で新天地のアメリカにわたった。

そんな彼女が生んで育てた長女の宇多田ヒカルが、作詞・作曲・編曲:プロデュースと、なんでも自分で手がけて成果を出しているのだ。
それは母の希望と光を背負っているからなのだということを、ドキュメンタリを観てコンサートを思い出しながら、あらためて痛感せずにはいられなかった。

宇多田ヒカルは今、おそらくは有名人であることになじめないまま、それでも自然体で新しい音楽面への挑戦にもトライしている。
母よりも若い15歳で特別な存在になった彼女が、そこからさまざまに試行錯誤しながらも、自分で築き上げてきた環境で自由な創作活動ができていること自体が、ぼくには奇跡的だとさえ思えてしまう。

さいたまスーパーアリーナでのコンサートの間、ずっと感じていた幸せの正体とはおそらく、藤圭子の愛や苦労が報われて「ほんとうに良かったなあ」という感慨からくるものだったのだろう。


宇多田ヒカルの楽曲はこちら

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。
「マイ・ラスト・ソング」では構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

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