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三浦春馬の“狂気”を大島優子の“慈しみ”が救う。舞台『罪と罰』フォトコールで感じた今年最初の傑作の予感

三浦春馬の“狂気”を大島優子の“慈しみ”が救う。舞台『罪と罰』フォトコールで感じた今年最初の傑作の予感

三浦春馬、大島優子出演舞台『罪と罰』が、2019年1月9日(水)よりBunkamuraシアターコクーンにて上演中だ。原作はドストエフスキーの同名傑作小説。帝政ロシア時代の青年ラスコリニコフの罪とその贖罪が物語の主軸となっている。そんな舞台のフォトコールと初日前会見が行われた。

取材・文・撮影 / 竹下力

三浦春馬の時空を超越した演技に感嘆

公開されたフォトコールは冒頭から十数分といったところだったが、客席に着き、まず驚かされたのがマックス・ジョーンズの美術だった。天井から吊り下がった蛍光灯がステージの上手・下手・中央に直列に3本、奥の方にかけて4列並んでいる。つまり12本の蛍光灯が、色を変え、明滅しながらアップダウンし、当時のうらびれた貧民街を照らし出す。帝政ロシア時代の貧困、暴力、差別、生活が鋭敏にあぶり出され、リアルに伝わってくるようだ。一方で、使い古しのベッド、テーブル、バケツ、丸太木に突き刺さった斧などがいたるところに置かれ、時代がかったガジェットが溢れかえることで、街を賑やかに表現している。

舞台上は階段、踊り場、再び階段と踊り場といった3段構造で、最上段の踊り場の奥はコンクリートの壁のようなもので囲まれており、壁面にはロシア語の文字が刻まれていたり、スプレーのいたずら書きがあったりする。これらはタイポグラフィにも見え、前近代のイメージをしっかりと踏襲しながらも現代の要素を盛り込んだ、2010年代の最先端の舞台美術のようだ。

ラスコリニコフ(三浦春馬)がボロボロのベッドに寝転んでいる。別場所でラスコリニコフを殺人容疑で追い詰めることになる国家捜査官のポルフィーリ(勝村政信)がタバコを吸うシーンから物語は始まる。マッチをこすり“シュッ”と火をつける音とタバコを吸う仕草がとにかくやさぐれていて、たったひとつの所作で客席の視線をすべてさらってしまう勝村の演技がかっこいい。

そこからうらびれた街の雑踏に早変わりする。アンサンブルがクラリネットやチェロ、アコーディオンを奏でて街の喧騒を彩る。公開されたフォトコールでは、基本的にほとんどのキャストは舞台袖に“ハケる”ことがなく、どの役者もアンサンブルになって存在する。いわば街のひとりの人間となる。そうしてキャスト全員で街の貧民窟にあるような騒乱めいた雰囲気を醸し出していく。

パディ・カニーンによる音楽が高らかに鳴る。ハイトーンな耳障りにも感じさせる現代的な音楽が、舞台『罪と罰』の一種の“救いのなさ”を巧みに表現している。そこにラスコリニコフが、これからしようとする自らの行為(ここでは善か悪かはわからない)に対して、ひたすらに自己肯定をする台詞が繰り広げられる。彼の性格が垣間見えるわけだが、それ以上に、翻訳の木内宏昌の手腕が光る。三浦春馬が喋る台詞は、聞き取りやすいし、リズムとテンポも抜群だったけれど、何より言葉の意味がわかりやすくて、すっと脳内に入ってくる。木内の言葉選びの妙技も味わえるだろう。

そしてラスコリニコフは、真ん中の踊り場に現れるドアベルを鳴らす……丸太木に突き刺さった斧をこげ茶色のロングコートに忍ばせて。彼の手がすでに血のように真っ赤に染まっているのも象徴的だ。そこに金貸の老女アリョーナ(立石涼子)、その娘リザヴェータ(南沢奈央)も登場し、家賃の支払いに困ったラスコリニコフといざこざを始めるのだが、“暴力と金”という即物的で刹那的な匂いがプンプンする緊迫感のある芝居が続く。

ベルの音が鳴り、シーンが変わる。おそらくドアベルの音が舞台の転換を意味しているようだ。このドアは“向こう側”と“こちら側”、それは“生”と“死”の境界であり、さらにはラスコリニコフを殺人へと駆り立てる、踏み越えてはならない入口として存在していたのではないか。とてもシンボリックな演出で、フィリップ・ブリーンの手腕がオープニングから存分に発揮されていたと思う。

シーンは転換し、ベッドに寝転がっているラスコリニコフは母のプリヘーリヤ(立石涼子)からの手紙を受け取る──妹のドゥーニャ(南沢奈央)に結婚相手が見つかったことが報告され、「お前はお前で神の御許に従い頑張れ」といったことが書かれている。要は「お前には援助はできない。期待するな」という宣言でもあると思うのだが、唯一の頼みの綱と思っていたであろう母親にも見限られ、焦りで次第に追い込まれていくラスコリニコフの精神がここでは描かれる。舞台の上手奥ではドゥーニャの結婚祝いが行われ、ラスコリニコフのどん底の生活と同居させることでとで“ハレ”と“ケ”のコントラストの明度を高め、彼の絶望感をマックスまで膨らませている。

そして再びベルが鳴り転換すると、“ケバい”といっていいほどの派手な赤いドレスを着たソーニャ(大島優子)が、酒を飲んでいる男にすがって体を売ろうと必死の形相で立っている。しかし、男たちはむげに扱い、“娼婦”が堕落した存在であることをまくし立てる。それをBGMにソーニャの父親でマルメラードフ(冨岡 弘)とラスコリニコフの会話が繰り広げられる。ここでの会話は、帝政ロシアという時代の空気を一心に体現しており、歴史の証言として目をみはるものがあった。フォトコールでのソーニャの登場はこの場面がメインだったが、大島優子は男にすがりながら、それでいて男との共依存関係を拒否するように強く生きようとする女性をたくましく体現しながらも、時代に抗えない憂いのようなものも感じさせた。極彩色の衣装もあいまったエロティックなオーラを小柄な体躯から漂わせつつ、虚飾を脱ぎ去った先にある、何かに取り憑かれたような恍惚とした表情も艶っぽかった。

その後、ソーニャにある想いが芽生えたラスコリニコフが、有り金を彼女に渡してしまう。そしてベルの音が再び鳴る……。

フォトコールで公開されたシーンは以上だったが、カンパニーの全員が舞台上に登場し、群像劇として展開していく人いきれの満ちた舞台に、悪意、憎悪、生活、現実、宗教、金、暴力、時代への批評、自己顕示欲、自己肯定、救済の予感、そういった原作のエッセンスがフルに注ぎ込まれ、マッピングに頼らず、“肉体”を使った原初的だからこそリアリスティックな表現方法だった。

その中で中心に存在するラスコリニコフの三浦春馬は、夜郎自大にみえそうな危うい自問自答を、時空を超越してあらゆる時代(それが歪んでいようがいまいが)に対する肯定に見えてしまう説得力のある演技を見せて感嘆するし、痩せこけてほっそりとした透明なフォルムも本当に美しかった。

この後物語はラスコリニコフの殺人、彼とポルフィーリとの丁々発止のやり取り、ソーニャとラスコリニコフの関係など見どころが続くのだが、原作を知っていても知らなくても、テーマは普遍的で、誰でも楽しめる。演出・演技・美術・音楽は隙のないつくりで、カンパニーの結束力の高さも感じさせる。おそらく千秋楽を迎えたときには、「今年の演劇界の大きな収穫になるのでは」と予感させてくれた圧巻のフォトコールであった。

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