【80年代名鑑】明菜からYMOまで 80'sからの授かりもの  vol. 108

Column

バブルが始まった頃に開催された“世界紅白”。CHAGE&ASKAはそのステージにいた

バブルが始まった頃に開催された“世界紅白”。CHAGE&ASKAはそのステージにいた

その前に、ASKAのほうでの業務連絡、ではないんだけど、まもなくスタートするバンドを従えての久々のコンサート・ツアーだが、会場で販売されるパンフのインタビューをやらせて頂いた。内容は、彼のこれまでの創作活動においてポイントとなった出来事を“深掘り”している。僕自身、初めて聞く話もあって、実に刺激的だった。手に取る機会がおありでしたら、ぜひぜひ読んでください。初日は2月6日。間もなくです。

さて本題。CHAGE&ASKAというと、海外での活動を活発的に行ってきた。僕自身もアジア公演や、モナコ音楽祭でのステージ、MTVアンプラグドのロンドンでのライブなどを現地で取材している。

モナコ音楽祭では、マイケル・ジャクソンが二人のパフォーマンスを客席最前列で体を揺すりながら見守る姿を目撃。でも、「マイケルだぜ、すげー」と、のぼせあがって見てたわけじゃない。「二人のやっている音楽は、アメリカ人のマイケルでも普通に“ノレる”ものなんだ」ということが、確認できた瞬間でもあった。

そんなわけで、海外での活動も多いCHAGE&ASKAだが、その“事始め”となったのが、1986年大晦日の「世界紅白」である。ロンドンからの生中継に、二人は“日本代表”として出演することになった。

もともとフジテレビが企画したチャリティ・イベントであり、彼らがグループ会社のポニー・キャニオンへ移籍したことも代表に“選ばれやすい環境”を醸し出したのだろうけど、なによりCHAGE&ASKAの音楽が、海外のアーティストからのトレンディな影響により誕生した“〇〇風”ではなく、独自のスタイルだったのがモノをいったのだろう。

別に二人を持ち上げるためのコラムじゃないので余計なコトも書くと、当時は“え? チャゲアスが日本代表かよ?”みたいな反応もあっただろう。その際、無難な方策としては、海外での評判・実績にのっとって、日本代表に選ぶ手もあったのだ。

しかし、それでは日本で発酵・熟成した音楽の進出とは言えない。“日本代表”には、“日本人の体型”を持つ音楽が相応しい。そして我々は、自らの姿を鏡で見たとき、(よほどのナルシストじゃない限り)自分の姿というのはこそばゆいものだったりする。それがこのような感情(“日本代表かよ?”)の正体ではなかろうか。

1986年といえば、(前回書いたが)二人がやたらと作品をリリースした年である。さらに12月5日には、『Snow Mail』という4曲入りのクリスマス企画を出し、それに伴うクリスマス・コンサートを開催している。イブにもライブ本番があり、休む間もなく29日には、「世界紅白」のためロンドンへ旅立っている。

日本、ロンドン、ニューヨーク、ロサンゼルスを四次元中継する生番組だった。失敗したらどうするの、なんてことを考えるなら、そもそもやらなかったろう。当時のフジテレビの大英断、溢れる気概、向こう見ずな番組編成が素晴らしいではないか。もちろん、別の“紅白”を大晦日にやるのだから、NHKへの対抗心も剥き出しだ。当時、世界を闊歩したジャパン・マネーの成せる技であったのだ。ちなみにバブル景気とは、1986年12月に始まったとされる。まさにこれ、ドンピシャのタイミングだった。

二人が現地で楽しみにしていたのは、ロンドンの一流ミュージシャンをバックに歌えることと、有名アーティストと交流できることであり、特にロッド・スチュアートとの共演は、夢のような出来事だった。でもロッドといえば、ちょっとした縁がある。あの伝説の田園コロシアム・ライブの音響を支えたPAは、ロッドが81年に来日公演した際の置き土産(実際には土産じゃなく、日本のPA会社が買い取った)だったのだから。

70代末から80年前半にかけて、ロッドは邦楽を凌ぐくらい日本で人気があった。しゃがれた声が浪花節に通じるからか、普通のおじさんおばさんもロッドのことは知ってたし、CHAGE&ASKAのヤマハの先輩、世良公則がボーカルを務めたツイストも、ロッドから多大な影響を受けていたのである。

当日、二人が「世界紅白」でパフォーマンスしたのは、「指環が泣いた」であった。アレンジは当時隆盛だったエレクトロ・ポップだが、歌詞の世界観はドメスティックである。たとえば歌謡曲の中条きよしの「うそ」などとも、どこか地下水脈で通じあっているように思われる。げー、そんなこと書かないでよ、と、言われるかもしれないけど、日本においてポップを目指すなら、歌謡曲の伝統を受け継ぐのは当然のことだ。そもそも歌謡曲とは、その時代その時代の鋭い感覚の持ち主が、最良の和洋折衷を目指し、実験を繰り返す場所でもある。それはCHAGE&ASKAの活動とて、同じなのである。

いざ二人のパフォーマンスが始まるや、同じステージを踏んだアーティスト達が、様々な興味を持ってくれた。「テイク・オン・ミー」の世界的ヒットで知られるノルウェーの3人組「a-ha」からは、「どうしてああいうイントロをつけたのか」という、細かな質問をされたという。確かに「指環が泣いた」には、無機的で独特なイントロがつけられていた。でも「a-ha」は、なぜそう訊ねたのか? 彼らなりにあのイントロに、意味を見出したからだろう。だから確かめたかった。この3人に、音楽が“届いた”ってことでもある。

CHAGE&ASKAは「世界紅白」に出たことで、得がたい経験をした。ただ、ロンドンの人達にとって、二人の存在はあくまで“エキゾチック”なものだったろう。二人もこの場所に、すんなり居場所を見いだせたわけではなかった。テレビの企画に1回出ただけなのだから、至極当然のことなのである。

ASKAは改めて、東洋人としての自分を意識し、その想いは「Mr.ASIA」という楽曲に反映される。しかしこの曲、歌全体がアジア人としてのメッセージというより、音楽的にやりたかったこと(ファファファ〜というジャズ風コーラス・ワークなど)をかなえた作品だったのではなかろうか。意味を伝えるより、音感として届き、“世界共通語”となりそうなパートも多い楽曲だ。もちろん歌詞にも出てくる“Mr.ASIA”の部分は、高らかな宣言のようにも響くが…。

ロンドンではビートルズで有名なアビイ・ロード・スタジオも訪問している。CHAGEはスタジオの外壁に、しっかり自分の名前を記念に落書きしたという(この行為は訪れる世界中のファンに対して、スタジオが容認していることでもあった)。この時は“観光客”であったCHAGEだが、数年後、彼はこのスタジオに滞在し、ASKAとともに新作のレコーディングをすることとなる。実は、僕が初めてちゃんとCHAGEに話を聞いたのは、国内ではなく、アビイ・ロード・スタジオの中だった。

文 / 小貫信昭

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