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加藤和樹が暗闇の緊迫感で見せる狂気。“体感型サスペンスエンターテインメント”舞台『暗くなるまで待って』開幕レポート

加藤和樹が暗闇の緊迫感で見せる狂気。“体感型サスペンスエンターテインメント”舞台『暗くなるまで待って』開幕レポート

加藤和樹と凰稀かなめがW主演を務める舞台『暗くなるまで待って』が、1月25日(金)よりサンシャイン劇場にて上演中だ。ロンドンのアパートの一室に夫のサムが持ち帰ったいわくつきの人形をめぐって、明るく気丈な盲目の若妻のスージーが、怪しげな訪問者たちに立ち向かう、スリリングなミステリー作品。初日前に行われたゲネプロと囲み取材の模様をお届けする。

取材・文・撮影 / 竹下力

加藤和樹だけの“絶対悪”のロートが生まれていた

年季の入った冷蔵庫のサーモスタットのブウウウンという音。壁掛け時計のチクタクという音。そして静寂……。時折り、車が通るエンジン音が聞こえてくる。静かな劇場に普段気にも留めない生活音が意味深にも耳に響き、これからどんなサスペンス劇を目撃できるのかと気持ちが高ぶる。セットは、初演・再演と続き、蜷川幸雄作品にも携わった舞台美術家の故・朝倉 摂の舞台美術を踏襲しているそうだが、1960年代の中盤と思しき、シンプルかつ整序されたモダンで美しいものだ。

そこに男たちがやってくる。刑務所から出所したばかりのマイク(高橋光臣)とクローカー(猪塚健太)というチンケな詐欺師ふたり、そしてボロを纏ったロート(加藤和樹)だ。彼らは麻薬を仕込んだオルゴール人形を取り戻すために、サム(松田悟志)とスージー(凰稀かなめ)の住む部屋に入り込む。しかし、目的のものはどこにも見当たらず、あれやこれやとスージーを騙し、人形のありかを聞き出そうとするのだが、彼らの言動に不審を抱き始めたスージーがグローリア(黒澤美澪奈)の協力で、男たちの正体を暴いていく……。

“悪”とは何を言うのだろう? 何をすれば“悪”に手が染まるのか? あるいは“悪”に染まらずに生きることはできるのか? 人は、“悪”にも“善”にも瞬間的に変わってしまう。事実、スージーは “暴力”で彼らをやっつけようとするし、不良少女のグローリアもスージーを困らす暴力的な存在でもある。“暴力”という言葉は“悪役”につきものだけれど、“暴力”=“悪”とするのなら、この舞台の、いや世界中、誰もが“悪”になってしまうかもしれないという問題を、密室劇で証明してみせる大胆な構図が見事だ。

詐欺師のふたりと“絶対悪”のロートが、善良で盲目の若妻を騙そうとする。スージーの視点から見れば彼らが“悪”になる。ただ、彼らの視点からスージーを見ば……彼らにとって彼女は厄介な“敵”となる。私もそうだけれど大多数の観客は、善良なサムやスージーに感情移入するかもしれない。けれど、詐欺師たちの奥深い造詣がそれを許さなくしている。つまり、“優しさ”や“いたわり”といった感情を詐欺師たちも持っているために、悪役にも思いを馳せることができるのが、この舞台の特徴でもある。

そういった観点から眺めれば、これは、サスペンス劇と銘打った、言葉の乱射による“戦争”なのではないか。負ければ“悪”になり勝てば“善”になる。ベトナム戦争が始まったのが1964年、翌年アメリカ軍は北ベトナムに対して爆撃(北爆)を開始し、その規模は日に日に拡大していく。本作は1966年のブロードウェイで上演され、映画が公開された1967年には、ニューヨークやワシントンをはじめ世界各国(もちろん日本も)で大規模な反戦集会が行われている。そういった戦争に対する拒否反応が、劇作のフレデリック・ノットに影を落としているのは勘ぐりすぎだろうか。戦争への無差別な“暴力”に対する抵抗やカリカチュアのような気がするのだ。それをスペクタクル性の強い舞台(たとえば反戦舞台)としてではなく、あくまでアパートの一室で起こる密室劇というエンターテインメント作品として見せる。だからこそ、どの時代でも起こり得るという普遍性を獲得し、どこかキナくさい現代の日本で上演される必然性も出てくる。生活感溢れる言葉が、やがて刺々しくなって“暴力”となり、互いの腹と腹を探り合う心理戦になっていく言葉の攻撃は、やはり“善”と“悪”がグロテスクに混じり合う“人間同士の小さな戦争”と言うべきではないだろうか。

凰稀かなめは盲目の若妻・スージーを演じ切ったと言うべきだろう。カーテンコールで見せた、すべてを出し尽くしたかのような表情が忘れられない。盲目という難しい役どころを、まさに手探りで見つけたのだろうし、犯罪者に極度に感化されてしまうストックホルム症候群のような状態に陥る人間の弱さや強さを体現、愛するサムのためにたったひとりで勇敢に闘う女性として屹立していた。また、サムはスージーをとことん愛しているのだが、すぐに仕事で外出してしまう。そうしてスージーをひとりにする、あるいはしようとする仕掛けに、シリアスなテーゼを扱いながらもフレデリック・ノットのコミカルな部分が見えたような気がする。それを演じる松田悟志が、面白味のある役から、とてつもない慈悲を感じさせる役へとラストに変貌を遂げる様は圧巻であった。

スージーのお手伝い役であるグローリアの黒澤美澪奈は、今後が楽しみな女優のひとりだ。観客を惹きつける演技が瑞々しい。サムとスージーの愛情にジェラシーを感じる、「どうして私に振り向いてくれないの」という“かまってちゃん”的なティーンの心情を闊達に表現していたし、何かと目の敵にしていたスージーと手を組んで悪人をやっつけていく姿になんともいえない晴れやかさがあった。実はグローリアのいたずらのせいで、とてつもなく大きな事件に発展するわけだから、彼女の一挙手一投足を追いかけて損はないはず。

高橋光臣演じるマイクは、なんとかスージーを騙そうと丁寧に接するのに押し切れない、どこか優しくて、悪人になりきれないという性格で、シリアスながら笑いを誘う。ゆえに、なんとも歯がゆく感じさせる演技が、同じ男性として“あるある”と頷かせる説得力を持っていた。

また、猪塚健太演じるクローカーも、オラオラ系なのだけれど、どこか間が抜けていて、やることなすことうまくいかない。だから詐欺まがいのことしかできない自分を仕方なく肯定するしかないという、見方によっては悲しい役。こちらもスージーを騙そうとするのだが、性格や考えていることが所作や顔に出てしまい、結局は見透かされてしまう “やるせない”悪人を演じていて見事だった。

やはり注目すべきは、ロート 役の加藤和樹だろう。インタビューでは、日本版の初演で同じ役を演じた浦井健治のぶっ飛んだキャラに驚いたそうだけれど、彼の語ってくれた映画のアラン・アーキンのように最初は“心のない役”を演じていたかと思いきや、終盤になるとキャラクターが豹変し、今にも舞台から飛び降りてきそうな勢いで狂気じみていく。そこには加藤和樹だけの“絶対悪”のロートが生まれていたと思う。冷静沈着で、周りの状況を適切に判断し、優しさも憂慮のかけらもなく、圧倒的な“悪”として存在していた。その冷徹さからは戦争へとひた走る“危ない国家を盲信する政治家”といった無慈悲な存在さえ透けてみえたのは大げさだろうか。そして、スージーを騙すために様々なキャラに早替わりをするのだが、それも舞台を華やか彩ってくれるし、見どころのひとつになっていた。加藤は「初演当時の自分には経験も実力もなかった」と語っていたけれど、これまでの経験でそれらをクリアし、役者としての新境地を見せてくれた本当に大きな演技だったと思う。

演出の深作健太は、初演から演出を担当した稀代の演出家、故・青井陽治の意志を引き継ぎ、テンションの高い会話の応酬をひとつの部屋に密集させ、それを摩擦させていく。そうして、観客の感情を“焦らし”“逆撫で”ながら火花を散らし、ラスト20分はほとんど暗闇で見せるというド派手なサスペンス劇に仕立て上げた。暗闇が弾けた瞬間の最後のシーンのカタルシスは、戦争後つかの間に訪れる平和を表す象徴的なシーンでさえあった。暗闇を使った演出では、とにかく会話を途切れさせないように、盲目のスージーが暗闇に慣れた道案内のようになって活躍し、パッと明転したときにはコントラストの効いたポートレートのように印象的なシーンに早替りしている。青井の演出プランを掬い上げながら、一幕ものの驚きに満ちたシーンの連続を作り上げていた。

人間はそもそも“性悪説”なのか“性善説”なのか、私にはわからない。けれど、確実に言えることは、人間の心の奥底には、他人にも、ましてや自分でもわからない“何か”があるということだろう。心理学者、精神分析医、カウンセラーでも、たどり着けない、深い“闇”が人間には横たわっている。それがスージーがひたすら家の電灯のスイッチを入れたり切ったりする行為に現れているのではないだろうか。明かりを消しては点け、点けては消し……そうして我々に人間の“闇”を浮かび上がらせながら、問いかけているような気がする。人は“闇”を照らす術を持ちながら、それを有効に活かしているのか、と。人は生きているかぎり、誰でも“悪”に染まり“悪を為す”ということを。そんな世界で、あなたはどうやって生きていくのか、と。そんな切実な問いかけに満ちた舞台だ。

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