角松敏生デビュー35周年記念特集  vol. 3

Interview

ギタリスト角松敏生ロングインタビュー

ギタリスト角松敏生ロングインタビュー

そして高校時代はどうなるのでしょう?

角松 高校に入ると東京23区から集まってくるから僕みたいなやつがいっぱいいるわけです。だから、話の分かるやつがいっぱいいるから、高校時代のバンドは幅が広がるんですよね。だからテンションコードを使ったオリジナル曲も作れるようになって、そこから、創り出したオリジナルが『SEA BREEZE』につながっていきます。ギターに関しては自分のスキルも上がって、中学時代はさっぱり分からなかったジェフ・ベックが何やっているか分かるようになって、そして弾けるようになりましたね。でもラリー・カールトンの「ROOM 335」(1977年)を聴いて、「あ、やっぱ(コピー)やめた」って(笑)。

そのとき角松さんはギターとボーカルだったのですか?

角松 リードギターでボーカルです。自分でオリジナル曲を作ってバンドでやっていました。それで、高校2年のときにEASTWEST(ヤマハ主催のアマチュアバンドのコンテスト)に出場して、カシオペア、シャネルズ、サザン(・オールスターズ)とか出ていましたが、結果は準決勝敗退。その一番大きな原因は時間オーバー(笑)。持ち時間10分のところを15分やりました(笑)。そのころから長いのか(笑)ギターの思い出としてはそんなところですね。

1981年『SEA BREEZE』でデビューされます。レコーディングに参加しているギタリストは、はっぴぃえんどの鈴木茂さん、スタジオミュージシャンのバンドとして有名だったパラシュートの今剛さんと松原正樹さんが参加されています。

角松 1枚目に関しては、メーカーサイドに勝手にミュージシャンを選ばれていましたね。ただミュージシャンの名前を見て、ホントにこの人達来てくれるんですか?って感じでしたね。20歳でしたし…、僕は見物状態でしたよ。

2nd『WEEKEND FLY TO THE SUN』(1982年)はジョン・ロビンソン(Dr)、ルイス・ジョンソン(Ba)、エイブラハム・ラボリエル(Ba)、ネイザン・イースト(Ba)といった豪華リズムセクションに加え、ギターにジノ・バネリの名盤『Brother to Brother』で有名なカルロス・リオスやアース・ウィンド&ファイアーのアル・マッケイが参加されています。

角松 そう、すごいメンバーですけどね(笑)。2枚目はL.A.行くぞって話になって。当時のレコード会社は自分達が行きたいから行くんじゃねぇの(笑)、って感じのところに巻き込まれているようで。でも、歌謡曲のセクションだったので、レコード会社の人間がミュージシャンを知らないんですよ。ジョン・ロビンソンって言っても全然わかんない。「TOMTOM84ってアース・ウィンド&ファイアーのアレンジャーとか呼びたいな」って言って、僕が言ったのをコーディネーターに伝えたら運良くみんな集まったんですよ。

初のL.A.での海外レコーディングはどうだったのですか?

角松 僕はミュージシャンのリクエスト言うだけ言って、コーディネーターが集めて、向こうでなんとかまとめていくわけですよ。アレンジャーのTOMTOMが来てやるんだけど、結局、TOMTOMは、僕がアマチュアバンドで録ったデモテープを聴いて、そのテープとほとんど変わらないアレンジなんですよ。自分のアレンジと全然変わっていないので、そのときに僕のアレンジでいいのかなって思って。それで、3枚目は自分でやってみようという気になったんです。

3rd『ON THE CITY SHORE』 (1983年)からはセルフアレンジ/セルフプロデュースという現在のスタイルになります。ギタリストとしては、今剛さんやマライヤの土方隆行さんが1曲ずつ、青山徹さんは2曲と、スタジオミュージシャンが参加されています。そしてこのアルバムから積極的に角松さんもギタリストとしてレコーディングに参加され、ライブサポートの太田恒彦さんと共にプレイされています。

角松 3枚目は、青木(智仁)くんとか友成(好宏)さんとかいわゆる、僕の周りの人間とスタジオミュージシャンとして一緒に成長していくということをしたかったんです。それはなぜかというと、はっぴぃ(えんど)の世代の人とか、達郎さんとか高中(正義)さんとか、みんな叩き上げのミュージシャンで、ペーペーから来て自分達でのし上がってきてシーンを作っていった…。だから自分も自分の世代の人たちをそういう風にすればいいんだって思ったんですよ。

同世代のミュージシャンと共に成長を目指し始めたキッカケのアルバムと。

角松 そう、それが3枚目で、このアルバムが売れたんですよ。さらに、このアルバムではちゃんとオブザーバーとして佐藤準さんを立てたんですよね。。コ・プロデュースみたいな形にして、オブザービングしてもらたんですが、それがまた勉強になりましたね。僕が書いたアレンジで僕の世代のバンドがやるケースもあったし、僕の書いたアレンジを準さんが通訳として入って、名うてのスタジオミュージシャンがやるケースもあって。スコアをそのとき勉強して、初めて自分の書いたスコアを凄腕のスタジオミュージシャンがやっているのを見て感動しましたからね。

角松敏生のデビュー35周年記念特集

その後、4th『AFTER 5 CLASH』(1984年)になります。

角松 3枚目で結果を出しましたから、メーカーに対しても。そこから先は全部やっていいよって、野放しになったんですよね(笑)。3枚目4枚目を作ったときに、全体の音像に関してまだまだ不満があったんです。海外の作品を聴くたびに和製のものとの音の違いに愕然としていました。そんな時、その原因はミュージシャンよりもエンジニアだと思ったんですよ。そこを解明したくてN.Y.に渡ったんです。そこで1枚シングル「Girl in the Box」(1984年)を作って。まずヨギ・ホートン(Dr)と仕事がしたかったというのと、レコーディングエンジニアを向こうの人とやったらどうなるのかと思って。実はそのときの渡航費はメーカーは出してないんですよ。杏里の『Timely!!』(1983年)がヒットしてあぶく銭が入ってきて、そのお金そこに全部そそぎこんだ。ミュージシャン代は僕が出したと思った。レコード会社が出したのはスタジオ代かな? ともかく自分で作ったんですよ、シングル「Girl in the Box」って。勝手に行って、勝手に作って、マスターを自分で持ち帰ってきましたから。そこで、「Girl in the Box」で成功して、『GOLD DIGGER』(1985年5thアルバム)に一気に流れたんです。あれは日本とN.Y.で作ったんです。エンジニアのマイケル・ブラウワーを今度は日本に呼んできたんです。アメリカでやっているからあの音になるのか? 日本のインフラでやったら日本でもできるのか? そうしたらあの音になったんですよ(笑)。

何が原因だったのですか?

角松 細かいイクイップメントの違いとかありましたね。たとえばトータルEQにパルテックEQを使うとか。パルテックのチューブEQやチューブコンプは最終的にマイケルがリクエストしてきたもので、それらは当時日本では古い機材としてもう使われていなかったものでした。しかし、実はアメリカでは必要不可欠の機材だった。あの太い音の原因は、チューブのトータルEQだと。向こうのエンジニアのリクエストするイクイップメントを見たときに、「こんなのもう日本で使ってないよ」っていうのが結構あったんです。そういう細かいことの発見は僕が輸出したり輸入したりするなかで、それをミュージシャンやレコーディングエンジニアに伝えてきました。それこそエンジニアの内沼映二さんと一緒に研究したりもしました。

その後もN.Y.に行くことになりますよね。

角松 もう入り浸りですね。ヒップホップが生まれ落ちた時代ですから。まだヒップホップっていうのが貧しい黒人達の食いぶちでしたからね、当時は。ストリートダンサーいっぱいいましたもん。

5th『GOLD DIGGER』ではラップやスクラッチなどヒップホップをいち早く取り入れた作品でした。そして、6th『TOUCH AND GO』(1986年)は日本レコード大賞アルバム賞を受賞しました。

角松 そのあたりからはツアーもバンバン入るようになってきて。レコードも売れるようになってきたし、制作費も湯水のように使えて。「N.Y.でやりたいです、このミュージシャンで録りたいです」とか、どんどんお金をかけていましたね。制作費2000万とか2500万が使えていた時代ですから。「Girl in the Box」から『GOLD DIGGER』でやったことをさらにもっとマニアックにして。さらにN,Y,のミュージシャンに深く分け入っていった。それが「初恋」(1985年8thシングル)っていうシングル。その曲はマーカス・ミラー(Ba)とリチャード・ティー(Key)とヨギ・ホートン(Dr)という考えられないリズムセクションで録って、必ず僕はプロトタイプで一回録って、試し打ちをするんです。「Girl in the Box」もそうだったように。「初恋」があって『TOUCH AND GO』へつながるんです。

このアルバムではギタリストとしてデビッド・T・ウォーカーやドック・パウエルやなどが参加。また海外ミュージシャンの起用が始まります。

角松 N.Y.行きまくって、そのあとにプログラミングミュージックのほうになってきた世の中で、僕もそっちへ一気にシフトして、その時にジャドーズや中山美穂とかをプロデュースすることになっていきます。その辺のスキルをすべて投入して、角松敏生のプログラミング時代の幕開けになっていきます。

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