『とと姉ちゃん』の舞台裏  vol. 2

Interview

花森安治に何度も怒鳴られた編集者が明かす、本当の花森安治と商品テスト

花森安治に何度も怒鳴られた編集者が明かす、本当の花森安治と商品テスト

『とと姉ちゃん』の劇中、「あなたの暮し」編集部で小橋常子たち編集部員に厳しくもあたたかい檄を飛ばす編集長・花山伊佐次。この花山伊佐次のモチーフとなったのが暮しの手帖創刊から生涯を終えるまで初代編集長を務めた花森安治さんだ。
企画・取材・原稿執筆・キャッチコピー・撮影・レイアウト・イラスト・デザインなど雑誌に関わる業務すべてを担うマルチプレーヤーとして名高いカリスマ編集長だが、徹底した哲学の持ち主で、編集部員に厳しかったことでも知られる。
花森安治さんの右腕として暮しの手帖の編集に18年間携わった小榑雅章さんは花森さんの怒りの根底には常に優しさがあったと話す。小榑雅章さんに花森安治の哲学と、「あなたの暮し」の新企画「商品試験」のモチーフとなった、当時の「暮しの手帖」の看板企画「商品テスト」について話を訊いた。

取材・文 / 村崎文香 撮影 / 森崎純子

俺の言うとおりにやれ! 機械になれ!

花森安治さんと18年間、暮しの手帖をつくっていらしたそうですね。

僕が入社したのは1960年、「商品テスト」が始まった頃です。時は高度経済成長期、いわゆる主婦層向けの雑誌から、すべての日本人のための雑誌になっていこうと暮しの手帖が総合雑誌として志を高くしたときでした。生活、暮しというのは女性だけが支えるものではなく、男も同じだろう。衣食住があり、政治もあれば映画の情報もある総合雑誌としてやっていくんだ、と。
それまでは寄稿、依頼原稿以外は花森さんがほとんど一人で書いていました。花森さんは絵も描ける、写真も撮れる、レイアウトもできる、いわゆるマルチプレーヤーだったわけだけれど、部数も取材も増え続け、商品テストを本格化するためには、さすがに花森さんが全ての原稿を書くわけにはいかなくなった。そこで、新卒社員を採ることになり、僕を含め5人が入社しました。でも、いきなり花森さんの水準で仕事をすることなどできるはずもなく、「俺の言う通りにやれ!」「機械になれ!」と、本当によく怒鳴られました。

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小榑雅章さん

本社ビルの屋上から飛び降りようとしたこともあったとか。

入社2年目、当時本社があった日吉ビルの屋上から飛び降りようとしたことがあります。編集部に入って初めて原稿を任されたときです。同期の編集部員のなかでは、最初に自分に書いてみろ、と言ってくれたのが嬉しくて、気合を入れて書き、誇らしい想いで花森さんの机に置いた原稿を、花森さんは赤字も入れずに突き返したんです、「書き直せ!」と。

理不尽だと思われたんですね。

文章には厳しかったです。徹夜で書いた200字のペラ30〜40枚の原稿を、読みもせずに「書き直せ!」です。そのときは徹夜続きで寝ていないから精神状態も追いつめられていて、本気で飛び降りようかと思いました。「冷酷な花森編集長、若い編集者を死に追いやる」、そんな新聞の見出しが目に浮かんだ。そうしたら、さすがに察知したのか、花森さんが「まあ、ここに座れ」と。
「この書き出しは何だ。『ドライバーといっても、車の運転手のことではありません』。買物案内のページだぞ。ドライバー(ねじ回し)の写真もある。誰が車のドライバーだと思うんだ!」
最初の1行を書き直せ、という意味だった。そんなこともわからなければ編集者にはなれない、ということを骨身にしみてわかりました。

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庶民のお金を、企業にだまされて失わせてはいけない

それからは、花森編集長に従ったのですか?

入社からの10年、僕は“不肖の息子”でした。10年も勤めたのに、自分のプライドが邪魔をして花森さんの厳しさの理由を理解できていなかった。実績を積んだつもりで辞表を出すと、花森さんは意外な対応。怒るでもなく引き止めるでもなく「まあ、今日は忙しいからまた持ってこい」とはぐらかされました。2回目は「そこに置いておけ」、3回目に「辞めて何をやるんだ?」と。
そのとき言われた言葉は、忘れません。
「俺はエゴイストなんだ。会社のために仕事をしているわけではない。自分がやりたいことを命がけでやっている。だから君も、自分のことだけを考えろ。だとしたら、今は君がもっと実力をつけるときだ。俺の仕事を見て、何でもいいから盗んでいけ」
それからです、花森さんの言葉がすーっと入ってくるようになったのは。

自らを「エゴイスト」と呼んだその人は、高度経済成長期、企業がこぞって新商品を出し、まことしやかな広告を打ってくる時代に、「商品テスト」(ドラマでは「商品試験」)をやり続けたんですね。

花森さんは、庶民が爪の先に火を灯すような暮しで必死に貯めたお金を、企業にだまされて失わせてはいけない、という想いが凄まじかった。暮しの手帖研究室ができ、商品テストを始めた頃のあとがき(26号)は、花森さんの決意表明ともとれることが書かれています。

雑誌を作ってゆく場合、研究する機関が必要なことは申すまでもないことで、ことに暮しについて考えてゆく雑誌なら、ただ原稿をお願いし、写真をとり、記事を書き、それに表紙をつけて、それで出来上り、というわけにゆく筈のものではありません。どうしても、自分たちの手で、実際に研究して、答えを出してゆかねば、どうにもならないことが、たくさんあります。

お国やお役人やもっともらしいことを言う評論家や、便利だ、高品質だとわめく企業の宣伝や、権威に素直に従うのではなく、一度立ち止まって、これっておかしくないか?と考えるような人を増やしていくのが暮しの手帖の目的でした。
そのためには、暮しの手帖自身が、何が正しく、何がニセモノで、何が大切なのかを自分たちで見究めなければならない。創刊以来貫かれた広告をとらないやり方で、消費者に代わって企業・メーカーにものを言い、正しい製品をつくらせる社会運動が「商品テスト」だったんです。

天井まで火が届いた石油ストーブの商品テスト

当時、「三種の神器」と言われ、庶民の憧れだった電気冷蔵庫、電気洗濯機、電気掃除機を各メーカー集めてテストされています。メーカーからもらうわけにはいかないから買うことになる。大変な出費だったと思います。

もちろん、経費はかかりました。各メーカー2台か3台ずつ買って比べるわけだから、高いものは数百万かかる。当時の数百万は大金です。
暮しの手帖は定期購読が多くて返本はほとんどなく、利益が見込めたからできたのだと思います。しかし、当時30人くらいいた社員の給料は決して高くなかったです。高い商品をテストした後は単価の安い商品にするなどして乗り越えました。そして、やるほどに販売部数は増えました。

57号「石油ストーブをテストする」の結論のページ

57号「石油ストーブをテストする」の結論のページ

いちばん印象に残っているのはどんな商品のテストですか?

石油ストーブですね。当時は暖房器具といえばこたつと電気ストーブしかなかったがそれでは部屋全体は暖まらない。石油ストーブは部屋全体を暖めてお金もかからないらしいと、1960年57号で扱いました。
いろいろな性能や、暖房効率を調べてみたあとで、“念のため”倒してみたんです。万一灯油がこぼれると部屋が臭くなるから、ガレージに持っていって。まさか倒して火が出るようなことはないだろう、そう思いながら。すると、ブワーッと一気に火が上がり、天井まで届いた!
消火器を持ってきて、砂をかけて、なんとか鎮火しましたが、その時は自分のからだで覆ってでも消さなければ、と必死でした。顔は煤だらけ、髪はちりぢり。でも、そのテストのおかげで石油ストーブをつくった会社は倒れても火が出ないようつくり直した。そして、万一のときは「水をかければ消える」ということも暮しの手帖が実証しました。

東京消防庁が「毛布をかけろ」と指導していたときに、文字通りいのちがけで実証した。他に印象的だった商品はありますか?

電気掃除機です。各社の吸引力が書いてあるとおりか調べるためにテストをしました。テストは実際のごみでやらなければ意味はない。ということになり、たくさんのお宅から「ごめんください、暮しの手帖です。ごみをください」と、ごみを集めて回りました。幸い、暮しの手帖に信頼があったから、どのお宅も快くごみをくれました。
ただ、本当のごみは汚いんです(笑)。それを分類して最後にふるいにかける。もの凄く手間がかかりました。編集部員からは当然不平も出ます。でも、花森さんはみんなを集めてこう言った。
「これは僕の命令じゃない。運動なんだ。みんなの暮しを良くする運動なんだ!」と。

雑誌をつくることと社会運動が一つになっていた。

そうですね。花森さんが怒鳴るには理由がちゃんとあった。それは根底にある優しさに支えられていたんじゃないかと改めて思うんです。最初は、学生上がりの僕たちに「早く追いついてくれ!」と祈るような、切羽詰まった想いで怒鳴っていた。でも、怒鳴ったままにはしない。怒鳴った後には「飯食いにいくか?」とか「ジグソーパズル買ってきたぞ」なんてフォローもちゃんとしていました。
1974年の33号「ある日本人の暮し」という築地市場の競り人の記事の取材や写真について、私を叱っている花森さんの声がテープで残っています。 「君はこの競り人の気持ちがわかっているのか!」
「朝3時に出て行かなければいけない庶民の気持ちが、この写真から伝わってくるのか!」
今聞いても胸が詰まります。一つひとつの記事に、魂を込められていた。商品テストはもちろん、ファッションも、料理も。

1974年第2世紀33号「競明競暮河岸哀歓」

1974年第2世紀33号「競明競暮河岸哀歓」

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